第45話

それはともかく、私が一通り話し終えて、キッチンに戻る間際の青司君に勧められるままに、冷えたおしぼりで手を拭って、冷水で喉を潤す間、…あのおうちは空調が効いていたので、冷たい水とおしぼりが非常に有難かったのを憶えています…。その、ほんの少しの間だけ、紅麗さんは生真面目な表情で、例の洒落たペンダントライトと睨めっこをしながらも、私の方に意識を向けているのが分かりましたけれど、私がある程度落ち着いた頃合いと見て取ったか、

「…そっか、そう言や立花さん、アータ結構苦労してるんだ…。いや、こっちもさ、立花先生がキョウコさんの離婚・再婚で頭痛めてて、結局、キョウコさんの娘さん…先生にとってはお孫さんに当たる女の子、つまりはアータを引き取って育ててるって話くらいはさ…。でも、…言い訳かも知らんけど、アタシらだって何もしてなんてあげられないもの…。あ、…もし誤解させたら悪いけど、この話は、私等がうちの親から聞いただけで、誰にも話してない。まず親に『お余所の家庭事情を、他人にべらべらくっ喋るもんじゃない』って口止めされてるし、そもそも私等だってこんなこと、…例えば学校で話の種にして良いかどうかの判断くらいはつくから」

って…。あ、…ええ、「キョウコ」っていうのは、私の母の名前です。母は四月の末の生まれでして、四月の末にはみどりの日、…今、「昭和の日」でしたか…。要するに、昭和の、二十年以前で言うところの天長節です。伍代さんは『天長節』って歌、ご存じですか?…ええ、そうです。私もその、「今日の吉き日は…」っていう歌い出しの部分だけしか知らないんですけれど…。実際の漢字表記は違うんですけれど、あの歌に引っ掛けたんですって。

もう亡くなりましたけれど、有名な女優さんで、それこそ四月二十九日のお生まれで、お父上が、こちらも有名な劇作家の方ですけれど、それこそ『天長節』の歌詞にちなんで名付けられたって…。うちの祖父は早くに亡くなったそうですけれど、元・演劇青年だったそうで、その劇作家さんを尊敬してて、母の名前は、その方の娘さんである、その女優さんにちなんだ、って。そのまま名付けるのは畏れ多いから、字面だけは変えたって、…ええ、祖母からはそう聞いています。

ええと、…その時の私、ですか?……私は、…とにかくびっくりしました。まさかこんな、「我が家の家庭内事情」が、いくら学校関係者のご家庭とは言え、余所様の、しかも私と同学年の女の子の耳にまで入っているとは思ってもみませんでしたから。「寝耳に水」とはこのことか、って…。

いえ、でも…少なくとも、不快って訳では。多分ですけれど、「今まで絶対に口外してないし、これからもするつもりはない」って口に出して伝えてもらったからだけじゃなくて、…その時の紅麗さんの口調が、何と言うか、心底から「こっちは事情を知っているのに、何も手助けできないのは申し訳ない」と言った感じのものでしたから。

いえ、…もし、あの時の紅麗さんの態度が単なるポーズだったとしても、私はその、ポーズを取ってくれたこと自体が有難かったです。「嘘も方便」じゃありませんけれど、この世の中には、ポーズの取り様も効用も知らない、または、ポーズは単なる欺瞞だって言って、ただ毛嫌いするだけで、後はひたすら他人を傷付けるだけのコミュニケーション、…要するに、相手や周囲から見れば、単なる「虐待」としか言い様のない関わり方しか知らない人だって、普通に世の中に存在するってことを、当時の私はとっくに知ってましたから。

それに少なくとも、…これはもちろん私の耳に入る範囲のお話ですけれど、あの学校…言ってみれば「口さがない女の園」に在籍していた当時、その手の噂話が耳に入ったことは、本当に一切ありませんでした。

だから私は、…ううん、うちの家庭事情を何処にもバラさないでおいてくれる上に、私の事を気に掛けておいてもらえるってことは、それだけで、ものすごく有難いことだって思うよ?…って返しました。紅麗さんは少し笑って、「そっか…。何か困ったことが起きて、それがもし立花先生にも相談出来ないようなことだったら、実際に何とかできるかは別として、とりあえずうちに来なよ?…立花サン、アータ、見るからに色々溜め込みそうな性格っぽいからね」って言ってくれました。

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