第26話

タクシーの料金は、ぎりぎり二千円を下回るくらいでした。一応、運転手さんに領収書をもらいました。運転手さんに、「忘れ物に気を付けて下さいね。特に携帯電話。多いんですよ、車内で使ってそのまま置いてっちゃう人」って言われたので、私は、手持ちの荷物ふたつ、祖母の手提げ袋と私のダウンコートを持っているのをまず確認して、それから、その手提げの中に、私のスマートフォンも、祖母のお財布も、それに病院の売店での買い物の入ったビニール袋も、家の鍵も、全部ちゃんと入っていることを確かめた上で、お礼を言ってタクシーを降りました。

テールランプを見送って、私は門の中に入り、いつものように敷石を辿って、玄関の鍵を開けました。ただいま、と声を掛けたのに、出迎えてくれる祖母のいない家は、何だか別の家のように思われました。

私は取り敢えず、鍵と祖母のお財布を、元あった引き出しに戻して、次にほとんど電池が切れかけていた携帯電話を、充電器に繋いでコンセントを入れて、食堂兼居間の暖房をつけて、コートを脱ぎました。半ば義務的に手洗いとうがいを済ませましたが、料理をする気も起きなかったので、冷蔵庫の中の煮物と、コンロの鍋に残っていたお味噌汁を温めて、炊飯器に少しだけ残っていたご飯を残らずよそいました。

食べ終わって時計を見ると、九時半を少し過ぎたところでした。テレビを点ける気分にもなれなくて、洗い物を片付けた後、私はお風呂が沸くまで、まるで自分が深い海の底にゆらゆら沈んでいくような気分で、翌日の祖母の検査の予定表を眺めていました。

お湯から上がって、ドライヤーで髪を乾かしながら、無理矢理に自分の気を引き立てるようにして、次の日の手順を考えました。そのまま歯を磨き、自分自身を寝かしつけるような思いで、二階の自分の部屋の布団に入りました。

その晩は何度も同じ夢を見ました。祖母のお葬式の夢です。決まって祖母の入った棺が火葬場の炉の中に入って行って、私が「お祖母ちゃん!!」って叫ぶところで目が覚めるんです。明け方の六時前、…と言っても、真冬の二月のことで、表はまだ暗かったですけれど、同じことで目が覚めた時には、我ながらいい加減嫌になっていました。

すっかり喉も乾いていましたし、寝汗もかいていました。私は、自分の半纏を布団の上から取って羽織り、布団を抜け出しました。ひんやり冷たい階段を降りて、台所の暖房をつけて、流しの蛇口から水を一杯汲んで一気に飲み干しました。冷たい水がとても美味しかったのを覚えています。

取り敢えずシャワーだけでも浴びようと、その日の分の着替えを用意して、洗面所のヒーターをつけました。シャワーを浴びているうちに、先程よりは随分ましな気分になってきました。洗面所を出て、台所のテレビを点け、ニュースを読み上げるアナウンサーの声を聞きながら、水をもう一杯、今度は一口一口、ゆっくりと口に含んでは飲み下しました。

いつの間にか、妙に緊張と高揚が入り混じった、まるで初めて戦場に赴く少年兵のような気分になっていました。一旦外に出て雨戸を開けて回ってきた私は、朝ご飯の用意に取り掛かりました。ご飯もお味噌汁もなかったので、取り敢えず一人分のハムエッグを焼いて、買い置きのインスタント味噌汁にお湯を注して、冷蔵庫の棚から野菜ジュースを出して、耐熱のマグカップに注いで少しの砂糖を入れて電子レンジで温めて、テーブルに放りっぱなしだったビニール袋からは、前の日に結局手を付けなかったおにぎりを二つと、プリンとヨーグルトを取り出しました。それから、用意した食べ物を前に手を合わせて、ニュースの音声を、意識の三割から四割くらいの注意力で聴きながら、目の前の食事を、できるだけゆっくり、ひたすら時間を掛けて噛み砕き、呑み込みました。味はともかく、食事をした、という実感だけは非常にありました。

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