第21話

でもね、そんな「女傑」の祖母の、名実共に弟子だった私も、ああいう場でお太鼓を締めてないことについては、まるっきり気が咎めない訳じゃなかったんです。祖母は元より、歌舞伎座の前や、ロビーや廊下、客席なんかで見掛ける着物姿の女性って、現在はともかく、当時は大抵…って言うより、九割九分九厘、お太鼓結びでしたから。

別に、半幅帯締めて来たからって、追い出される訳じゃない。私が締めていた半幅帯は、全部正絹の、質の良いものでしたし…。それに、中には平場…一階席のお客さんだって、相当カジュアルな洋服姿の方もおいでですし。

でも何となく、ズルをしているような気持ちがどこかにあったので、ある日、お芝居の帰り道に、相談…というより、ほとんど愚痴をこぼすような感覚で、祖母に思うところを訴えました。

祖母はね、私の話をすっかり聞いたあとで、

「あのねえ葵、着物は『着る物』。身に纏う物。自分の身をくるみ、守ってくれる物だよ。決して拷問の道具なんかじゃない。苦しい思いまでして付き合うような物じゃないんだ。だいたい『お太鼓結び』なんざ、江戸も終いの方になって、亀戸の天神様の太鼓橋が出来るまで、この世になかったんだよ?『伝統的』かどうかで言や、半幅帯の締め方の方がずっと伝統に近い形なんだ。江戸の初めあたりなんざ、半幅帯どころか組紐の幅の広いような物だったそうだよ?…それとも葵、お前、そんなにお着物嫌かい?」

って、…無茶苦茶でしょう?自分は、そりゃ、普段、家事をする時や、近所に買い物に行く時なんかは、半幅帯一本槍でしたけれど、お稽古の時や、こんな風に外出する時は、きっちりお太鼓締めてたのに…。

でもね、私、何だかその時、昔のことを思い出していたんです。両親が離婚した後、母の再婚相手と喧嘩して、それまで住んでいた隣町のマンション飛び出して、子供ながらに必死の思いして、何とか今住んでいる祖母の家にたどり着いた時のことです。あの時の、私、ここにいていいんだ、ってほっとした気持ちと、その時の気持ちとは、何だかとても良く似ていました。

だから私は、ううん、私、お着物好きだよ、ありがとうお祖母ちゃん、って答えました。祖母は、「何だいお前、変な子だねえ」って、何だか呆れたような顔で笑っていました。

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