運命(1)

 応接間には木目の美しいローテーブル。それを挟んで、革張りのソファが向かい合う。部屋は全体的に落ち着いた暗めの色調で統一され、広くはないが居心地の良さそうな空間だった。

 暖房もよく効いている。

 先月何度も降った大雪はほとんど溶けてなくなったが、風は更に冷え込んでカラカラに乾いていた。その上、スギ花粉が飛ぶ季節はもう始まっていた。

 応接間に通された若い女はソファに掛けながら立て続けに四度、くしゃみをした。マスクを少しずらして鼻をかみ、すぐに戻す。それでもまだしっくり来ないのか、何度もマスクをずらしては鼻をかむ、を繰り返した。


 艶やかな長い髪を後ろで一括りにしている。色白で目は大きく、綺麗な二重瞼。マスクをしたままでもはっきりと目立つ美人だった。

 エスニック風の波模様が刺繍されたスカートに、真っ白なセーター。丸いコイン型のピアスをしており、そこにも波のような模様が刻まれていた。


 かわが紅茶を持ってくると、「わあ、本物のレモンティー」と女は言った。

「これ、柚子なんですよ」瑠璃川は薄い輪切りの柚子を乗せた小皿をティーカップに添えた。「お好みで入れて下さい」

「ありがとうございます。すごいなあ。ティーバッグじゃない紅茶って久しぶりです」

「いえ、これもティーバッグです」瑠璃川はにっこり微笑んで、向かい側のソファに腰を下ろした。


 色白で奇妙な雰囲気の男だった。長身だが細く頼りない体格で、長い手足が目立つ。銀縁の眼鏡の奥に、薄い色の目。髪の色もやや茶色く、本来あるべき色が抜け落ちたような印象があった。


 瑠璃川は改めて名乗り、名刺を差し出した。四隅に木の葉のような紋様がある、シンプルな名刺だった。株式会社RPA、かわ みつる、その下にこの部屋の住所と電話番号だけ。

「他に二人いるんですが、今日は僕だけです」と、瑠璃川は言った。


 女はおりはしと名乗った。大学生で、市内の実家で両親と三人暮らし。数年前に家を出た兄が、最近家に婚約者を連れてくるようになった、といったことを話した。


 その後、折橋は何かを言い淀むように黙った。


「どんな人なんですか?」瑠璃川は柔らかな口調で聞いた。


「うーん、普通の人、いい意味で普通というか……まともな人ですね」折橋は言いながらなんとなく困ったように眉を下げた。「兄は変わり者だから、あんな普通の人を連れてきたのはちょっと意外でしたが」

「なるほど。妹さんの目から見て違和感があると」

「違和感ってこともないですけど。兄に似た人じゃ困りますし」

「そうですか?」

「兄はほんとに常識無しで生活力も無いので……いわゆる理系のオタク君です。そんなのとそっくりなお嫁さんが来ても困りますから」

「まあ、男で生活力無い人は無限に無いですからね」瑠璃川はふわっとした笑みを浮かべた。「僕も結婚するまで、布団の干し方とか病院のかかり方とか知らなくて。どうやって生きてたの? と言われましたね」

「はあ……」折橋は曖昧に苦笑いして、また黙り込んだ。


「じゃあ、そのお兄さんの婚約者の人と会う時間を自動化ってことで良いですか?」

 瑠璃川が言うと、折橋の肩がぴくりと上がった。

「ええと、会うとき全部というわけでも……」そう言って折橋は目を迷わせながら俯いた。「兄の結婚がうまくいってほしいですし、私自身も将来お義姉さんになる人となるべく打ち解けたいですし……」

 瑠璃川は黙って先を促した。

「……ただ、どうしても占星術の話だけは、私が個人的に苦手でしょうがなくて」

「占星術」

「そう。星占いです」

「へえ」瑠璃川は少し目を見開き、ソファの上で身を乗り出した。「どんな話をされるんです?」

「私にはよくわかりません。今日は何々座がどこに来る日だからどう、とか、自分は水のエレメントだからどう、とか……」

「その方は占い師か何かされてるんで?」

「いえ、普通に会社の事務員というか、経理とかされてるみたいですけど。占星術は趣味だそうで」

「ふーむ。趣味もどの程度かによりますけど。お兄さんはそういう占いみたいなことがお好きなんですか?」

「いえ、全然。なんにも信じないし興味もない人です」

「なるほど。興味が無さすぎて、気にならないってところでしょうかね」

「兄にとっては、ファッションの話もテレビの話もよくわからない『女子の話』だし、占星術もその延長という扱いなんだと思います」

「けど、折橋さんにとってはそうではないと」

「だって、ちょっと行き過ぎてますから……食事中に選挙のニュースが掛かってるのを見て、急に『今の政権は火のエレメントだから、今月末に大きく動くかも』とか言うんですよ。さすがに返事に困って」

「まあ、言う人は言いますね。政治でも災害でも病気でも事故でも、全部それで説明が付くんで」

「本当にそうなんですか?」折橋の目は少し険しくなった。

「いや、説明が付くということと、実際に星の力が働いているかどうか、っていうのは似て非なる問題です。血液型占いでも風水でも同じことです。すべて説明は付くんですよ。これは、この世の理というよりも、人間の脳の仕組み上のことですね。人間の脳はすべてのことを関連づけて覚えたり考えたりするんです。そのおかげで、動物とは違って、複雑な思考や判断ができるわけですね」

「はあ……」

「その人が星座の話が好きなのは、言ってみれば宗教みたいなものなんで、実害が無ければお兄さんに習って放置しておくのが正しいと思います」

「やはり、そうするしかないんですね」

「程度にもよりますけどね。あと、おうちの事情によっても違うかと。結婚後にどちらかの親と同居するとか、家業を継ぐとかで、家族ぐるみで密接に関わる予定があるなら、あまり宗教観が違い過ぎる人を迎えるのは大変かもしれません。ただまあ、折橋さんは妹さんという立場なので、居心地が悪ければ実家を出て疎遠にするという手もあるかと」

「ええ、まあ……家業とかはありませんし、どっちにしろ私は大学を出たら実家を離れるので、今だけの我慢ですけど」

 折橋は思い出したように紅茶を一口飲んで、深く溜息をついた。


「お兄さんの婚約者が占星術の話をし始めたら、術が発動するようにしましょう。それで良いですか?」と、瑠璃川は聞いた。

「そんなピンポイントでできるんですか?」

「できますよ」

「全然別な話題から、脈絡なく急に始まるんですけど」

「大丈夫です。なんか言い始めたなーと思った瞬間に気が逸れて、ふと我に返るとその話は終わっている。そういう感じになりますね。もちろん、その間も相槌や返事はちゃんとしますし、何か大事な情報が出ればそれは記憶に残ります。例えば星座の話の最中に、来週一緒に出かけようと約束したとすれば、その約束は記憶に残り、星座の話だけが残らない。そういう感じでうまいこと忖度して働きますので」

「そう……そんなことが、できるんですか」

「最初は完璧ではないかもしれませんが。何かイマイチだなと思われたら、微調整をかけますので。とりあえず一、二週間ほどお試しいただいて、次回来ていただいた時に微調整をさせてもらえると」


 瑠璃川は立ち上がり、部屋の奥の引戸型の間仕切りの向こうに一度消えてから、細々した道具を乗せた盆を持って戻ってきた。

「しかしあなたも少し変わった方ですね。占星術が嫌で、結果頼る場所が呪術の店とは」

「別に私は、何でも全部信じないわけではありません」折橋は気弱そうに眉を下げながら、割とはっきりとした口調で返した。「星座には個人的に嫌な思い出があって、どうしても苦手なだけで。でも、そんなことで、言ってみれば単なる私の逆恨みで、あの人に冷たい態度を取りたくないから……この『自動化』で私の気持ちが軽くなって、あの人がうちを居心地良く感じてくれて、兄の結婚がうまくいくなら。それがみんなにとって一番幸せなことです」

「お兄さん思いなんですね」

「だってこれを逃したら兄は一生結婚できないと思いますし。ほんとにどうしようもないオタク君なんで。今の彼女ができたのは奇跡ですよ。私が潰すわけにいかないです」

「あまり気負い過ぎないようにして下さいね」瑠璃川は柔らかく言った。「これは星占いじゃなくて術師としての経験から言いますけど、男女の縁には人智の及ばない運命がありますから。周りが何をしても結ばれる時は結ばれるし、ダメな時はダメです。どんな結果になっても、ご自分に引き寄せ過ぎないように」

「わかっていますよ。でも、兄がモテないのは科学的な事実なので」

「まあまあ。人なんていませんよ」瑠璃川は笑いながら言った。「けど、モテたことがないという事実には科学も非科学もないでしょうし、その事実だけでひとつの大きな説得力はあるかもしれませんね」




 折橋が再び訪れたのは一ヶ月後だった。

 綺麗な目がすっかり充血し、前回よりも酷い鼻声になっていたが、単なる花粉症で体調は悪くないようだった。

「すみません、うるさくて」折橋はまた何度かマスクをずらして鼻をかみながら言った。「屋内に入った直後だけなんです。もう数分すると落ち着きますから……」

「大変ですよね。僕も花粉症ありますけど、薬でピタッと止まる程度なんでまだ助かってます」瑠璃川は輪切りのレモンを添えた紅茶を出し、向かいのソファに座った。

「年々、酷くなるんですよね」折橋は言った。

「確か、今年は花粉の飛散量が多いんでしたっけ?」

「でも、毎年そう言ってる気がしますよ」

「確かに」


 折橋はまたしばらく本題を話し出さなかった。


「どうでしたか? 自動化の具合は」と、瑠璃川は聞いた。

「ええ、たぶん、大丈夫だと思います」

「たぶん?」

「あの日以降、あの人の占星術の話を聞いた覚えはありません。自動化は働いていたと思います。ただ、最近、そもそも占星術の話が出なくなったので」

「へえ」瑠璃川はまた少し身を乗り出した。「婚約者さんが星の話をしなくなった?」

「はい。飽きたんでしょうか? よくわかりませんが」

「じゃあ、自動化自体が不要になったんですね」

「そう……なんでしょうか」折橋は不安げに少し俯いた。

「そもそも、お兄さんは実家で暮らしてるわけではないんですよね。婚約者さんも交えて顔を合わせる機会って、どれくらいの頻度なんですか?」

「最近は毎週末です。今、式場を探してるんです」

「結婚式の?」

「はい。なるべく色んな親戚や友達が集まりやすい所でってことで、駅前周辺で探してるみたいですが、その行き帰りにうちに寄ってくことが多くて。距離的にうちが便利なんですよね。兄がもともと使っていた部屋にちょっと荷物とか置いて、ロッカー替わりというのも変ですけど……式の準備って色々と荷物も多いみたいで」

「意外と、距離感近いというか、僕がこう言っちゃ失礼かもしれませんが、馴れ馴れしいんですね」

「それは、父がそうさせたがるというか、寄って荷物を預けるようにとしつこく言うので……父はただのサラリーマンですけど、父方の祖父母って田舎の農家なんです。だから田舎体質というのか、息子に彼女ができたらもう嫁さん扱いで、家にもどんどん来てもらって家族同然に扱って……っていうのが当たり前みたいなんです。いとこの家もそうでしたから。よくわかりませんが、その方が家のメンツが立つというか、自慢になるみたいなんですね」

「ふーむ。まあ、この地域じゃ珍しくもないのかもしれませんね」


 折橋はティーカップを取り、しばらく俯いていたが、やがて思い切ったように顔を上げた。

「あの、もちろんお金はきちんと払うので……自動化の内容を変えていただきたいんですが」

「いいですよ」と、瑠璃川は言った。

「最近は、占星術の話はしなくなって、心霊スポットの話ばかりするんです」

「心霊スポット」

「廃墟とか。自殺の名所とか。それで実際行った人がいてああだったこうだったと。私、その話はすごく苦手で……」

「面白い婚約者さんですねえ」瑠璃川は笑った。「いいですよ。じゃあ自動化の内容を変えましょう。ただ、前回の占星術のぶんは本日ご精算をいただきますね」

「わかりました」

「僕としては、もうその婚約者さんとの交流はすべて自動化して、その人とのやり取り全体が折橋さんの意識に上らないようにするのが確実かと思いますが」

「いえ……そこまでは。全く記憶に残らないのはちょっと、抵抗があります」

「そもそも、その人が家に来るときには、あなたが用事を作って外出するとか。そうすればこんな呪術自体不要になります」

「それもちょっと……そんなことすれば、相手だって歓迎されてないと思うでしょうし」

「前にも申し上げましたがね、あなたが歓迎しようとしまいと、結ばれるものは結ばれるんですよ」

「それはそうなんでしょうけど」

「折橋さんはお若いし、善良な人に見えます。だから僕も、あまり悪どい商売はしたくありませんね」

 瑠璃川はそう言って立ち上がり、引戸になっている間仕切りの向こうへ行った。


 戻ってきたときには、先日と同じ道具が揃った盆を持っていた。


「今回は折橋さんの注文通りにしましょう。でも、もうこれっきりですよ。来月また来てください。そのときに今回分の自動化の具合を確認して、ご精算をいただきます」

「わかりました。ありがとうございます」折橋はソファの上で丁寧に頭を下げた。

「お兄さんがもしこの結婚に失敗したら、折橋さんにはどんな不都合がありますか?」瑠璃川は聞いた。

「特に、ありませんけど。両親は落ち込むと思います」

「ご両親やお兄さん自身が、あなたを責めたりするでしょうか。もしくは辛く当たったりとか」

「うーん……わかりませんね」折橋は困ったように眉を下げた。「なにしろ、初めてのことですから」

「無いとも言い切れない、という感じですかね。わかりました。とにかくやりましょう」

 瑠璃川は慣れた手順で小瓶の粉を混ぜながら、一瞬、能面のような無表情になった。




 玄関を開けるとすぐ右手の和室の灯りがついて話し声がしており、折橋律子は思わず溜息をついた。兄とその婚約者が今日も来ているのだろう。


「ただいま」とできる限り小さい声で呟き、真っ直ぐに自室のある二階へ上がる。


 普段から律子が使う部屋はこの二階の自室と、一階のダイニングキッチンだけだったから、兄と婚約者が和室に入り浸るようになったからといって物理的な影響が出ているわけではない。それでも、家に他人がいるという圧迫感は想像以上のものだった。


「りーちゃん? 帰ったの?」台所から母親が大声を上げた。「帰ったんなら手伝って!」

 不自然な高い声になっている。もう少しで歌になりそうなくらいの抑揚があって、機嫌が悪いのを必死で隠そうとしているような。

 だいたい、律子が大学に入ってからは、母が家事の手伝いを言いつけることもほとんど無くなっていたのに。


 階下に降りてキッチン側の戸から入ると、ダイニングの方の戸を睨んでいたらしい母は不意を突かれたような顔で振り向いた。

 揚げ物鍋の中で山菜の天麩羅がぱちぱちと鳴っている。

「あ、テーブル拭いてお箸出してちょうだい」母はここ数年で急激にシワの増えた顔に、不自然な笑みを浮かべた。

「サトさんのぶんも?」律子は食器棚の真ん中の引き出しを開ける。

「そうそう、サトさんのはね、ピンクのウサギのね」

「はあ」律子は引き出しの中の箸をトレーごと引っ張り出した。

「サトさんもここでよく食べるなら、お箸があった方がいいかなと思って。ピンクのウサギ、可愛くない? これ、金物市のさ、」

「お母さん、昨日もその話をしてたよ」

「そうだっけ? 金物市の包丁屋さんが、私の顔覚えててさ」

「だから聞いたよ、その話」

「息子のお嫁さんのぶんの箸探してるって言ったら、これどうかなって勧めてくれたの」

「言わなきゃ気が済まないのね。はいはい」


 ダイニング側の戸を開けて、兄の武雄が顔を出した。「あれ、もう夕飯?」

「今作ってるから! もうちょっとね」母が天麩羅を返しながら慌ただしく答えた。

「え、早過ぎない?」武雄は顔をしかめる。

「早すぎる? ええ、そう? もう、天麩羅揚げちゃったんだけど」

「早くはないでしょ。もう七時になるよ」律子は時計を見て言った。

「ええー……七時半とかで良くないか? なんかさっきも式場で試食させられてきたばっかりなんだけど……」武雄はぶつぶつ言いながら、婚約者の意見を聞きに和室へ引き返して行った。

「どうしよう。もう揚げ始めちゃったのに」母は揚げ物鍋とボウルを見比べた。

「いいよ、残りも揚げちゃえば」と、律子は言った。

「だってまだ食べないんだったら……」

「冷めたの食べればいいから。普段はそうしてるでしょ」

「そんなこと言ったってねえ。せっかくサトさんに食べてもらうのに、しなしなの天麩羅じゃあ」

「でも、揚げたてのうちに食べないのはお兄ちゃん達の都合なんだし……あんまり気を遣い過ぎない方がいいんじゃないの?」

「けどさ、一応、お客さんだし」母は残りを後で揚げることにしたらしく、火を止めてボウルにラップをした。


 結局この夕食の時間問題は、父が帰宅したことで有耶無耶になった。缶ビールの段ボール箱を抱えて帰宅した父は上機嫌で、半分だけ用意のできた食卓を見ると「なんだ、できてるならもう食べよう、食べよう」と言い、和室の二人を呼びに行った。

 母が慌てて残りの天麩羅を揚げた。


 兄の婚約者の美原サトは、短い茶髪の先がぴんぴんと跳ねていて、外見の雰囲気も話しぶりも元気で快活だった。父も母も「ハキハキしていて賢そう」「しっかりしている」と褒めそやすが、律子には兄と彼女の共通点が少なすぎるように思えた。


「今日はどこを見てきたの?」父は無造作に缶ビールを開けてグラスに注ぎながら、サトに向かって笑いかけた。

「すみません、私やります」サトが手を伸ばそうとするが、

「いやいや、いいからいいから」父は強引に全員分のグラスに注いだ。「さあ、カンパーイ」

 このやり取りも、もう毎回のことになっていた。

「今日の会場はどうだった?」「教会式?」「お花はどうするの?」「ケーキは?」「ドレス決まった?」父はもう何度もした質問をまた繰り返しながら、ひとりでグラスを空け、新しい缶を開けて直接口をつける。

 この家では酒豪は父だけだ。律子や母達がグラス半分も飲まないうちに、父だけが二本目の缶を開けていた。

「俺たちのときはさあ、母さんがね、花束は絶対ピンクが無いと嫌だっつってね」

「ピンクじゃなくて白ね」母が諦め顔で言い返す。「もう、それしか話題無いの? サトさんの耳にタコできてるよ」

「いいから俺に話させろよお」父はさっそく酔い始めたのか、語尾の呂律が怪しくなっていた。

「すみませんね、いつも同じ話ばかりで……」律子が苦笑しながら声を掛けると、サトは首をぶんぶん振りながら「いえ、すごく楽しいです」と言った。

「うちの実家は会話が無くて。こんなふうに団欒の時間なんて無いですから」

「なに、うちだって普段は冷めた夫婦ですよ。あっははは」父はどら声で割り込んだ。「サトさんが来てくれると食卓が明るくなっていいですね。やっぱり女性は華だ。いるだけで華やかですなあ」

「ちょっと、お酒のペース早すぎるんじゃないの?」母は呆れたように首を振った。


 兄の武雄は、ずっと俯いて自分の茶碗の中身を掻き込んでいる。

 会話に加わるわけでもなく、自分の恋人と目線を交わすこともない。昔から彼は食事の場で食べ物以外に興味を向けない人間だったから、普段通りと言えばそうなのだが。

 不安を感じているのは律子だけで、父も母も、そして兄とその彼女も、この食卓の微妙な居心地の悪さを全力で無視しているように見えた。


「そういえば、先週なんですけどね」

 酔いの回った父の口数が少なくなると、急にサトが食卓に身を乗り出し、律子に微笑み掛ける。

「高校の先輩に会ったんですけど、このあいだ大寒波が来たでしょう、その日の夜にね」


 ああ、苦手な話が始まりそうだな。


 律子の胸に重苦しい直感が渦巻いた瞬間、魔法が働いて律子の耳をすっぽりと覆い、全ての会話を無意味な雑音に変えてしまう。


 ぬるま湯を揺蕩うようなぼんやりした時間が過ぎた後、ふと我にかえると食事は終わっていた。

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