9 バラヌス料理
食堂に一歩足を踏み入れた途端、威勢のいい音が聞こえた。
「ワシじゃ」
ヨルの腹の音だった。悪びれるふうでもないヨルの姿に、双子がそろって笑い転げる。
ネイはテーブルの長辺にヨルと向かい合って座った。よほど気に入られたらしく、ヨルの両隣には少年たちが陣取る。ザイルはいちばん幼いミケーラと共にテーブルの端の席についた。
「ごめんなさい。あともう少しですから」
タニシャが壁際の調理台からふり返った。タニシャに次いで年長の二人、ナンシーとロナンも忙しく働いている。ネイも腰を上げかけたが、邪魔になるだけだと思い直す。
「待ちきれんのう!」
「おばあちゃん子どもみたい」
などと子どもに言われているヨルには手伝いなど論外だろう。
まもなくナンシーとロナンが料理を運んできた。大小の器が並べられ、大きな方には湯気を立てた煮込み料理、一方は空のままだ。ヨルとザイルには酒が注がれた木の杯も置かれる。タニシャは呑まないようだ。ネイも断ったので、子どもたちと同じく果実の絞り汁が注がれた。
続いてロナンとタニシャが二人がかりで大皿を運んでくる。おおー、とヨルが歓声を上げた。
タニシャの説明によれば姿焼きというらしく、皿の上には焼き色のついた
数からすると一匹は煮込みになったようだ、とネイは目の前の器を見つめた。黄金色の煮汁の中に、芋や野菜、それにトカゲ肉が入っている。最後に乗せられた香草が鮮やかだ。
「ナンシー。アイリーを探してきて」
「はーい」
たたた、と少女が食堂を出て行く。たしかにもじゃ髪の子が見えなかった。ロナンが席につき、タニシャは鍋を持ってそれぞれの席に回ってくる。
「これは?」
器につがれた料理を見てネイは尋ねた。焦げたような色のどろりとした液体と、何か肉のように見える固形物。他に比べると、お世辞にも食欲をそそるとは言えない見た目だ。
これが本当の料理なのだとしたら、偽物でもいいのではないか。
「それは食べてみてのお楽しみです。大丈夫、とっても美味しいですよ」
よほどネイの顔がおかしかったか、ふふ、とタニシャが笑みを漏らした。
最後の料理の配膳が終わったところで、ナンシーがアイリーを連れて戻ってきた。ザイルの対面の端にはタニシャが座ったので、子どもたちはネイの両脇に座ることになった。もじゃ髪のアイリーはチラチラとネイを気にしながら、右隣の椅子を引いた。
心なしか距離が離れている。どうも好かれていないらしい。
「司祭さま、みんな揃いました」
「今日はこうしてお客様を迎えることができ、いつもより賑やかな食卓になりました。これも信仰の導きと、そしてタニシャのお陰ですね」
タニシャが照れたように首を振る。
「あまねく地を創り、われらを護りたもうた、
「祈りを」
ザイルに続いて、食卓についた子どもたちが胸の前で両手で円をかたどる。
一番末のミケーラはすこし不格好な円を、信仰篤い長姉のタニシャは、堂に入ったきれいな真円を。それぞれが食前の祈りをする中、その
「んまい!」
祈りの沈黙を破るのはやはりヨルだ。祈られる当人である彼女が食前の祈りに意味を見いだすはずがなく、「うまい」「絶品じゃ」「天上の佳肴とはこのことじゃの」と矢継ぎ早に褒めそやしつつ、ガツガツと煮込みを食らっている。
「では食べましょうか」
それほど率直な褒め言葉を受けては無作法さを咎めようもなく、ザイルとタニシャも、苦笑いしながら料理に手を伸ばした。子どもたちも元気に匙を突っ込む。
ネイもそれに続き、木の匙で煮込みをすくった。
まずは
筋張っているはずの肉は舌の上でバラバラにほどけた。その繊維の合間から、脂が口の中にあふれてくる。あのトカゲがどこにこれほどの脂を隠していたというのだろうか。丸焼きを食べていた時には、ついぞ感じたことのない甘い脂がネイの舌を喜ばせた。
ネイの手は無意識に二口目を運んでいた。今度は芋だ。芯までやわらかくてほろほろと崩れる。新鮮な茸は絶妙な歯応え。味付けはシンプルな塩味だが、そこに香草がアクセントをつけている。口の中が味と香りによって広げられるような気がした。
「どうですか?」
テーブルの端でこちらを眺めていたタニシャの問いに頷き、ネイは三口目を頬張った。
しばらく煮込みに夢中になっていると、「こちらもどうぞ」と声をかけられる。タニシャだった。大皿料理に手が届かない子どもたちのために取り分けてやっているらしい。テーブルの向かい側ではロナンが同じことをしていた。
取り分け用の皿に胴の輪切りと、いっしょに飾られていた山菜が乗せられる。
「……ありがとう。これは、本当に……美味しいな」
「そうでしょうとも! でもこちらはどうですか。ネイさんはもしかして、『私の作った丸焼きとたいして変わらないじゃないか』なんて思っているんじゃないですか?」
「それは……」
口ごもるネイをうふふ、と笑って、タニシャはアイリーのほうに移動する。上気したタニシャの頬はこれまでの赤面とは違う印象だ。そんなことを思いながらも、ネイは皿の上の肉に向き直る。見た目はやはり、ここ何日も食べ続けてきた丸焼きと大差がないような気がした。
だが、匂いが違った。
ネイは鼻にはそれなりに自信があったが、ここまで気づかなかった。切り分けられたことで、立ちのぼる香りが丸焼きのそれとまったく違うのがわかった。口に運べば、煮込みとは異なる歯触りがネイを驚かせた。パリパリに炙られた表面に対し、中味はぷりっとした弾力がある。
噛むたび熱い肉汁がじゅわ、じゅわ、と口の中に広がった。
甘い脂と旨味。絶妙な塩気。しかしそこに、何か違う、爽やかな香りが混じっている。皿を見ると理由がわかった。ネイがフォークで削ったところから覗いているのは香草だ。
トカゲの腹の中に香草を詰めて焼いたのだ!
次はそれごと。肉の弾力とシャキシャキした香草の対比が心地よい。噛みしめながら、どうやら香草だけではないとネイは知る。森でタニシャが採っていた果実の、おそらくは刻まれた皮が入っていて、それが酸味と香りをもたらしているのだ。
これは全然、別物だ。ネイは思った。
ただ串刺しにした肉を炙るのとは違う。技術を身につけ素材を知り尽くした者が、手間暇をかけて作りだした一皿なのだ。舌休めの山菜ですら、種類ごとに異なる味付けがされていて、その丁寧さにネイは蒙を啓かれる思いだった。
姿焼きと煮込みとを夢中になって食べて、それから木の杯に手を伸ばした――
「申し訳ない。私もいいかな」
ネイがザイルの方を見ると、彼はいつもの微笑でそれを渡してくれる。
酒だ。
「ぬしも欲しくなったか! これは欲しくなってしまうじゃろ。がはは」
とのたまうヨルは、すでに何杯も空にしているらしく、いつも以上に声が大きい。ネイが酒を受け取ったのを見ると、杯を高々と掲げてテーブルを見回す。
「乾杯じゃ! 今日の出会いに。〈大地母竜〉に。タニシャに。最高の料理にのう!」
そう叫んで、他の皆が杯を持つ前に酒を干す。無茶苦茶だ。
「おばあちゃん……」
隣の双子を筆頭に、子どもたちの腰が引けているのはおそらくネイの気のせいではない。明日になって彼らに愛想を尽かされていないよう、飲み過ぎる前には忠告しよう。
そう思いながら、ネイも残りの皆と共に杯を掲げた。
「今日の出会いに」
「〈大地母竜〉さまに」
「タニシャに」
それぞれに唱和し杯に口をつけた。喉を流れ、胃の中で酒精がぱっと燃えるのを感じた。
そこでまだ皿が残っていると気づいた。タニシャが最後に取り分けたあの奇妙な鍋料理。焦げたような色をしたそれに手をつけていないのはネイだけだ。見た目で言えば丸焼きより悪いが、ここまでくれば不味いわけがないだろう。よし、と覚悟を決めて器から一切れを取った。
臭い――口に入れた瞬間にはそう思った。
だが、そこから一気に別の味が寄せてきた。甘辛い味付けとそれに隠れた滋味。そしてほのかな苦味がネイを惑わせ、次の一口に向かわせた。今度はまた違う味。脂の質や、微妙な舌触りが、同じ皿の料理のはずなのにまったく異なる側面をネイに見せる。三口目までくると、呑み込んだあと舌にほんのり残る臭みが、すでに癖になっている。
思わず酒を手に取り、流し込んでいた。
特有の臭みと鼻に抜ける酒精が完璧な調和を描き、胃を喜ばせる。
「酒が進むじゃろこれは!」
同じことを言うヨルがなぜか得意げだが、思わずこくこくと頷く。その通りだった。
「気に入ってくれてよかった。それは
「だから、ひとつひとつ味が違うんだな」
タニシャはそうです、と頷く。
一口に臓腑といっても色々だ。師は竜の急所を学ぶ過程でそれぞれの臓器の位置や形態、機能などを事細かに教えてくれたが、味について話すことはなかった。
「でも、この味はどうやって? 丸焼きにした時も食べたけど、こんな美味しくはなかった」
むしろトカゲの中で苦くて一番不味い部位で、鼻を押さえて食べていたのだ。
タニシャは一瞬、異常なものを見る目つきになったが、すぐに気を取り直して続けた。
「まずは何よりよく洗うことですね。詰まってる中身を出して、煮るときにもよくアクを抜いて。もちろん血抜きも大事ですが、それはネイさんが綺麗にやってくれていましたから。そして味付けです。決め手はわたしの秘密――ターチスの実の絞り汁に香辛料を混ぜて作った出汁です。色は悪くなりますが、それで煮てあげると、臭みがいい具合に残るんです」
「これは、わざと残してるのか……」
「そうです。ただ臭いを消すだけじゃバラヌスの内臓の美味しさを殺してしまいますから。このバランスにたどり着くまでに、どれだけの苦労があったことか……」
「私もいっしょに研究したの!」
「おれたちは味見したよな」
「俺はターチスの実を取りに行ったよ」
ナンシーが言うと、子どもたちが次々手を上げた。なるほど、これはこの
臭いものならすべて無くしてしまえば美味くなるだろう。ネイならばそう単純に考えてしまうだろうが、タニシャははるかにその上を行っていた。そして味わってみれば、たしかにこの臭みと苦味こそがこの料理を唯一無二の絶品にしているとわかった。
「凄い。タニシャ。アンタは凄いよ」
ネイは心底からの感嘆を覚えていた。
「え。いえ、そんな……。ちょっと調子に乗りすぎちゃいましたかね」
「そんなことはないぞうー。母――わ、ワシが保証する! おぬしは凄いぞ、タニシャ!」
「ヨル。酒はそこまでだ」
「なん――わ、わかった」
反抗しかけるヨルを思い切り睨むと、さすがに大人しくなる。かなり口を滑らせたが、酔っ払いの戯れ言として聞き流してもらえると信じよう。
やがてテーブルの話題は料理のことから、子どもたちが話す村の出来事や、ネイとヨルに関する質問に切り替わっていった。ネイは話せる範囲のことを嘘にならないようにかいつまみ、子どもたちの話に耳を傾けた。
子どもたちの目がとろんとしてきた辺りで、夕食は終了になった。食後の祈りを捧げると、年少の子どもたちは寝室へ向かい、年長の子どもたちは食卓の片付けをはじめた。
ネイとヨルも拙いながらそれを手伝った。
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