好きへ至らぬなにか
麦直香
本編
「今日告られた」
「へえ、そりゃ良かったねぇ。……………え」
その突然の告白に、奈央はスマホを弄る手を止めた。
彼女の覚えている限り、弟とは女子関連の話題は経験がない。弟は異性とは無縁の存在のはずだ。
「え、待って待って、ストップ。あんた……、今なんて言ったの」
弟は面倒臭そうに、一言一句同じフレーズを繰り返した。
奈央はスマホを置いて夕飯のコンソメスープの残りをぐびっ、と流し込んだ。
「前からなんとなく気にはなってたんだけど」
「相手から告白してくるかもって? 」
「そう、案の定それが当たった」
「へー……良いじゃん、良いじゃん。高1で女の子から告られる経験なんてなかなか無いよ」
とっさの大して面白くもない相槌で、弟の反応をうかがう。
といっても、ずっとダルそうな顔でスマホをいじっているだけだ。中学の修学旅行の四人部屋で、赤の他人の聞きたくもない恋バナに飽きてきたときのわたしと似ている。
だが姉としての我慢の限界が来て、奈央は問い詰めた。
「え、あんた今の状況わかってる? 告白だよ? あんた今異性から好意もたれてんだよ? 何か感じないわけ? 」
「質問攻めが過ぎるだろ、なんで当事者でもないのに興奮してんだよ」
「アンタはリア充どもの巣窟の共学だから分からないだろうけどっ。女子校だと、こんな甘々なことはほっとんど起こらないの! 」
「そーなんですね」
弟はスマホの画面を奈央に見せた。
液晶に写っていたのはなにかの集合写真だった。ざっと人数を見る限り、クラス単位で撮影したもののようだ。画像のちょうど半分を境目にして、学ランを着た男子と紺襟のセーラー服の女子とが整列している。
サクラの大木がバックに映っていることから、おそらく高校入学直後に撮ったものだろうと奈央は理解した。
弟は同級生のなかでは背の高い方らしく、最後列で唯一、真顔を貫いている。
この大人数の中で一人だけ無表情なのは違和感があるが、いかにも慣れていない変な愛想笑いで写真に収まるよりは全然いい。
経験者の彼女は内心そう思った。
「あんたに告白してきた子、この中に写ってる?」
「ああ、えっと……これ」
「ちょっと、異性に向かって間接的だとしても『これ』呼ばわりするのはどうかと思うんですけど」
「はいはい、そーですね」
奈央は一瞬だけ目を細めた後、口をきゅっと結んだ。
弟が人差し指で示した女子は、周りに並ぶ同級生よりも人一倍の笑顔だった。
それでいて、かすかに二重の浮かぶ眼に、絵筆で描いたかのような整った眉、ぺっとりと膨らんだ下唇、くしを通したらするりと流れそうなショートボブの髪。
どの要素も生来持ち合わせていないわたしからすれば、この顔は嫉妬したくなるほどかわいいものだ。
この子とのツーショットをStoriesにでも載せたら、軽く三桁いいねは付くだろう。性格によほどの難さえなければ、男子からはモテるのは間違いない。
「え、めっちゃかわいいじゃん。妹にしたいぐらいなんだけど」
「仮にしたところでどうすんだよ。ただ絡みたいだけなら家族にしなくても十分だろ」
「分かってないなあ。私はコミュ力ってもんがゼロに等しいから、アンタが結婚でもしないとまともに話せないの。だから頼んだ」
「頼むな」
快眠を邪魔された秋田犬のごとく、弟は厄介げに奈央をあしらった。
弟は昔から異性に興味を示したことがほとんどない。ニュース番組のエンタメコーナーで乃木坂が出ていても、書店の一角にあったヤンマガの表紙を飾っていたやけに胸の大きな女の子が目に入っても、かたや恋愛小説やラブコメ漫画であってもそれは変わらない。
自分がその状況にいつも居合わせることが原因なのでは?と、以前奈央は考えた。
だがヘアアイロンを拝借しようと浴室に行った際、全裸で風呂から上がった弟と鉢合わせても全く気まずくならなかったから、それはないと思い直した。
奈央が弟を異性として認識していないように、弟もまたわたしを一人の女として見ていない。
となると、やはりどうして弟が告白されたのか奈央は気になった。異性に友達なし、興味なしのコイツを好きになったのはどういう理由なのか。
「告られたときになんて言われたん?」
「あー……あんまよく覚えてない。でもたぶん『好き』とは言われたのか……」
「確証薄っ」
「仕方ねえって。告られたときの記憶すっ飛んでんだし、しょうがねえじゃん」
弟はわざとらしくコンソメスープを乱暴にすすった。
「なーんでアンタみたいなやつのこと好きになったのかな?」
「さあ、な。分かんね。相当の変人だってことは分かるけど」
奈央はあらためて弟のスマホ画面を凝視する。
やはりどこからどう見ても生まれてくる感想は「モテるだろうなぁ…」一択だ。顔の輪郭、パーツ、髪型……。いずれもこんな惨めな外見のわたしが、ため息をつきたくなるくらい整っている。
この女子と弟が接点があるとは正直思わない。弟は比較的塩顔で、写真の女子にはさすがに及ばないものの、地方都市のどこかクセのある男子の中では顔のパーツも整っている方だ。おとなしくしてたら男子だけじゃなくて女子からも人気が出るタイプなのだが。
見ての通りの性格でプラマイ0になってしまう。
「俺さ」
弟の眼が奈央をとらえる。
「何考えてるか分からねえから断ろうと思う。俺はこの女子のことはほとんど知らないし、名前も覚えてない。今から、はい付き合えますっていう気にもならないしな。姉ちゃんからすればもったいない話かもしれんけど」
奈央は白茶碗を手に取った。炊き込みご飯がまだ二口分残っていた。
根菜類を食べたがらない弟をからかおうと、ごぼうを少し大きめサイズに切ってあおいたものだ。
「……なるほど。うん。まあ、こういう選択ってのは本人以外がしゃしゃり出てあーだこーだ言うことじゃないしね。いいんじゃないの、それでご立派ですよ」
「ん。ありがと」
奈央はその言葉を聞いて、かすかに笑った。
なんだこれ。平和か。重松清の小説に出てきそうなワンシーンじゃないか。
その場にいるのがなんとなく気まずくなったので、茶碗とスープカップを両手に持ち、椅子を引く。
台所に入ると、食事のテーブルが見えなくなる。奈央は冷水に食器をさらすと、まとめて食洗機に突っ込んだ。
—―クッソ……!
一瞬、それが誰の声か分からなかった。食洗機の水流の音が変によく聞こえてくる。
明らかに、声の主にその言葉が似合わないはずなのに。
「なんで好きになれねえのかなぁ……?」
弟の顔半分は手のひらで隠されていて見えない。
ただ、頭は小刻みに震え、眼には涙のような液が水晶体に張っている。
「っぐ……っ! アイツっ、アイツのこともっと知ってたら……っ、こんなことならねえのに! なんで興味が湧かねえんだよ…っすぅ、いっそアイツのことで……勃起なんなりできてたらなんも問題ねえのに……!!」
奈央はひたすら立ち尽くしていた。
こうしてる場合じゃない。何かしないと、声をかけないと、目の前のコイツがどんどん弱弱しくなってきて、罪悪感で潰れそうになる。
奈央は自分の身体が接着剤で固まった取っ手みたいに動かなくなった。
不意に弟と目が合う。涙なのか鼻水をすすった後のせいか、顔がやんわり赤みを帯びっている。全身で何かを訴えかけてくる、生まれたてのパンダのような姿が直視できない。
—―弟は、アセクシュアルだった。
奈央がこの事実にたどり着くまで、わたしは三日も時間をかけることになる。
—―これは、一人の告白の話。
—―これは好きに呪われた弟の話。
—―これは、わたしが一人の失恋を踏みにじった話。
好きへ至らぬなにか 麦直香 @naohero
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