第37話 守りたいもの
最上ちゃんと成美先輩が再会するのなら、伝えきれなかった言葉を交わす瞬間に立ち会いたかった。漫画を見ることと立ち合いは似て非なるものだが、見届けたい意志はそれほど強い。
「自分は、信頼に報いなければならぬ。安全運転で走行すると約束したんだ。無事に連れ帰ってくれると信じられているからには、役目を果たさないといけないだろう」
当然ですと、晃太朗は虫の息をしていた。八十メートルを切っていないのに、大袈裟だ。
呼吸を整え、正吾に話しかける。
「昔話だと、鬼は怖いイメージが強いじゃないですか。優しい鬼は一握りしかいません。でも、鬼にまつわる名字の人はそうでもない気がします。俺の出会った人が、たまたま優しかっただけかもしれませんけど」
晃太朗は、鬼怒先生と誰かを重ねていた。正吾の脳裏に、銀の一つ結びが浮かぶ。茨木も、厳しさの中に温かい感情があった。退学する意思を話したとき、受けたかった三年生向けの講義を正吾一人のために開いてくれた。学びたい意欲があるのなら、多少の融通は利かせますよと微笑んで。
「年賀状、書こうかな」
母校に顔を見せるのはハードルが高いが、書面なら思いを伝えられる気がした。
茨木は、まだ定年を迎えていないと聞く。朝陽によると、お節介が疎んじられているらしい。話し方がくどくなりがちな故、仕方あるまい。二年までのチューターが茨木以外に当たれば、怖さが消えるのは卒業間近になっていただろう。
茨木への耐性がついたおかげで、クレーマーからの無理難題に激昂したり涙したりすることはない。入社間もないころは、茨木を想起してツンデレだと思い込むことにしていた。中身を知れば、鉄面皮の裏の顔が愛らしくなる。
「いいですね、年賀状。俺も今年になって恩師に出そうっていう気が湧いてきたんです。生きているうちに感謝を返していきたいですよね。死んでしまってからは、何もできませんから」
晃太朗は頷いた後で、神妙な面構えになった。
「今のはネタバレになったかな。いや、俺がうっかり話さない限りは、まだ大丈夫と信じたい」
正吾の背に汗が広がった。
日没には時間がある。我慢できなくなった晃太朗が真相を吐くか、家に送り届けて目的の本にありつけられるか。果たしてどちらの方が先になるだろうか。
正吾は頭を空っぽにして、帰路を急いだ。
題名が分からない漫画を、会社から支給されているパソコンで検索するのはできなかった。休憩時間でも、私的な使用はためらわれる。携帯電話をスマホに買い換えようか、まじめに検討したのは一度ばかりではない。
晃太朗から雑誌を見せてもらった後で、正吾の胸に疑問が宿る。朝陽がスマホで調べようかと、申し出なかったのはなぜなのか。正吾は雑談の中で、どうしても思い出せない漫画があると朝陽に話していた。心当たりないなぁと横髪を耳にかけた朝陽の仕草は、嘘を言うときの癖だと思い当たる。
年末大売り出しの幟が立ち並ぶ商店街を、朝陽とともに歩いていた。クリスマスイブからの五連勤が明け、世間はすっかり年越しに意識を向けていた。明日は二重の苦しみ、もとい新年の準備には適さない日だ。仕事終わりのデートで、朝陽の家の買い出しに付き合っていた。
「今年最後の運試しだって! しょーご、ちょっと時間ちょうだい!」
ゲームセンターの宣伝に惹きつけられた朝陽は、正吾の返事を待たずにUFOキャッチャーの物色を始めた。滑り止めのない三本爪ばかりで、下手をすれば五千円以上かかりそうだ。
「はっ! くるキスの志保ちゃんと
透明なカプセルに入ったラバーストラップを見つけ、朝陽は頬がくっつきそうなほど凝視していた。
「乙女ゲームのキャラか?」
「ううん。『車いす越しのキス』っていう少女漫画。八束くんが志保ちゃんの車いすを何も言わずに押しちゃったから、志保ちゃんがブチ切れたんだよね。最悪な出会い方は定番中の定番だけど、急に押したらびっくりしちゃうなんて、くるキスを読まないと気づけないままだったよー。アニメ化されたときは原作の雰囲気を壊されないか不安でしかなかったけど、ときめき成分増し増しで大変心臓に悪うございました」
朝陽の口調から、熱量の強さは推測できた。
「それで、この台に挑戦するの?」
「あったりまえじゃん。三種類ともお迎えしたいよ。八束くんと、志保ちゃんと、買い物デートしてる私服姿。待っててね! 早くそこから救い出してあげる!」
軽やかに五百円を投入する。一撃必殺ではなく、六プレイで堅実に獲る作戦だ。序盤は景品の持ち上がり具合を確認しながら、獲得口へ移動させていく。
「ぬぬぅ。掴んでいるのに、何回も落としてくれるじゃん。でも、次で決めちゃうから!」
朝陽はアームの可動域を計算しながら、最適だと思われた場所へ指示する。
「よっしゃ、八束くんゲット! まだ千円以内。ペースよさげじゃない?」
勢いのまま、買い物デートの絵柄も入手する。
「今年の運、使い切っちゃう? 志保ちゃあん、そこで朝陽の勇姿を刮目してね!」
生き生きとした表情に、正吾の顔はほころんだ。神様への祈りとは裏腹に、調子のよさが嘘のように消えた。両替に行く回数が六度目になったとき、朝陽は正吾の腕を掴んだ。
「しょーご、何かしゃべってよ」
素人に漫才を要求するくらい、難易度が高い。聞き役に徹してきた頭でひらめいた話は、素朴な疑問だった。
「前に聞いた漫画の題名を、晃太朗に教えてもらったんだ。ありがたいことに、続きも読ませてくれた。どうして朝陽は話してくれなかったんだ? バットエンドなら配慮するのは分かるが」
「見ちゃったんだね。松田先輩が持ってたのは誤算だったなぁ」
朝陽は頭を垂れた。
■□■□
鬼怒先生から聞き出した住所は、目と鼻の先だ。私は地図を見ながら交差点を曲がる。
「成美先輩!」
高校の入学前説明会から帰ってきた成美先輩が、横断歩道を待っていた。時間を止めてという願いは虚しく、青信号に変わる。
私は駆け出した。点滅しても足の勢いは止まらず、そのまま渡り切ろうとした。けたたましいブレーキ音が耳を貫く。
死んじゃうんだ、私。
成美先輩、どうか振り返りませんように。あなたの目に汚いものを見せたくないです。
体が浮き上がった後、予想していた音は聞こえなかった。
「正気じゃないよ。最上ちゃん!」
成美先輩が抱きしめていた。
「うちの目の前で死なないでくれる? 最上ちゃんはたった一人の後輩で、いなくなっちゃったら廃部になっちゃうんだよ? うちの好きだった居場所が、消えちゃったら困るよ」
「ごめんなさい。成美先輩」
成美先輩は私の足に触れる。アスファルトにぶつかり、すり傷ができていた。
「最上ちゃんは、ちゃんと責任取らなきゃね」
プロポーズを匂わせている言葉に、私の鼓動は跳ね上がる。
「成美先輩となら、どこまでもお供します」
「違うよ。運転手の人が困るでしょ」
救急車と警察に連絡を入れる成美先輩を、私は何度も好きになる。
■□■□
朝陽は成美先輩のように泣き出しそうな顔をしていた。
「正吾は、百合に挟まれる男が嫌いなんでしょ? 変に遠慮して身を引くんじゃないか心配だったの! うちが、さよちんのことを優先するから!」
壁でいい。自分の存在はいらない。朝陽といるときでも、自分の立ち位置を女の子に置き換えていた。
「朝陽は『さよちんが男だったら結婚した』って言ってたよな。もしも自分の性別が女だったとしたら。今と同じように選んでもらえるとは思わない。自分は可愛げがないから。見栄えがいいのは、どう考えても竹野内さんの方だ。自分と一緒に写るより、朝陽の表情が明るくなっているし」
そんなことないよ。朝陽は正吾の手を包み込んだ。
「しょーごとのツーショはさ。うちにとって特別なの。白目向いていたり変な顔になっていたりしたら、マジでテン下げってゆーか」
朝陽は硬貨を入れる。無愛想に見えても、耳は本心を隠せない。
掴んでも落ちるカプセルは、がっしりと掴んだ。
「これでコンプリート。しょーご、待ってくれてありがと!」
カプセルをバッグに入れ、ゲームセンターを後にする。
「しょーごにとって、生きてるって思うのはどんなとき? 朝陽はね、大事な人が笑ってくれる瞬間」
朝陽は小夜の話を始めた。
「付き合って三ヶ月記念になったら、イヤーカフを交換するんだって。卒業して、遠距離になっても心が離れないように」
「最近まで、遠距離恋愛みたいなものをしていたんじゃないのか?」
「それな! あんな恋愛を乗り越えたんだから、どんな障壁でも木っ端微塵よね」
朝陽は正吾の腕を大きく振った。
「もしかして、淋しくなっちゃった? 大事な人の中には、しょーごも入ってるに決まってんじゃん! いじらしいのぅ」
「それならよかった」
正吾はマフラーに顔を埋める。
ダブルデートで守りたいものが増えた。朝陽と、三次元の推しカプ。うつ病の母から音沙汰がないのはあいかわらずだが、正吾にはこの三つがあればいい。
人間力は底辺だが、社会人としては先輩。反面教師のお兄ちゃんは、一歩引きながら見守っていこうと誓ったのだった。
〈第4章 兄心は日増しに/了〉
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