第15話 ナルシストパンダは慰める
「それではご開帳と行こうではないか!」
おもむろに立ち上がり、ボックス君の口へと手を突っ込んだ先輩は、しばらく中をごそごそとした後、勢いよく顔をあげた。
「予想以上に、一杯入っているな」
「よかったじゃねえか」
「やはり、私の目論見は正しかったということだな」
自分で納得するように二、三度頷き、成瀬先輩は手を抜いた。何かを掴んでいる。本当にお悩み相談の手紙が来ていたのか、と小さく感動するけれど、それがただの菓子袋だと分かり、肩が落ちた。
「なんだこれは」さすがの先輩も不満げに口を尖らせていた。「差し入れか?」
「誰かがゴミ箱と勘違いしたんじゃないですか?」
「私の力作をゴミ箱扱いしないでくれ。それに、ボックス君が可哀想ではないか。ゴミなんて入れられたらお腹を壊してしまう」
「お腹、どこですか」
一枚一枚中から取り出すのが面倒になったのか、成瀬先輩はボックス君を逆さまにし、底を叩きながら上下に揺すった。ばさばさと音を立てながら色々な物が箱から流れ出てくる。思った以上にゴミは少なく、ほとんどが四つ折りの紙だった。鼠色のコンクリートを覆い隠すように、白い手紙が転がっている。
「おいおい。本当に結構入ってるじゃねえか」隈先生が面倒そうに耳をほじりながら言う。「最近の若者は大変だな。悩みだらけじゃねえかよ。嫌な世の中だな」
「多分、いつの時代も、どの年代の人も悩みだらけですよ」
「俺の悩みはお前がそんな暗いことを言いやがることだよ」
僕は試しに手元にあった手紙を開いてみる。さぞかし重い悩みが書いてあるのだろうな、と身構えるけれど、実際に書かれていたのは「数学の授業が分かりづらい」という何とも間の抜けたものだった。ほっと胸をなで下ろす。
「これは隈先生あてですね」
「違うだろ」
僕の手にした手紙をのぞき込んだ先生は太い首を横に振った。
「俺の授業は分かりやすいからな。きっと、違う学年の先生の話だぜ」
「凄い自信ですね」
「こう見えても、俺は他の先生から数学会の超人って言われてるんだぜ。凄いだろ」
「それは多分、見た目で言われてるだけですよ」
他の手紙も見てみようと手を伸ばす。が、前の前が一瞬で真っ白になり、伸ばしていた手を引っ込めてしまう。何が起きたのかわからない。貧血でも起こしたのか、と自分の頭を触ろうとするけれど、それより早く何かふさふさしたものが顔にぶつかった。鼻先がくすぐられ、くしゃみが出そうになる。
「おいおい。君はなぜ私の腹に顔を突っ込んでいるんだい?」すぐ頭上から成瀬先輩の声が聞こえてくる。慌てて後ずさろうとするも、後頭部をつかまれ身動きが取れなくなった。
「もしかして新手の求愛行動か何かかい?」
「そんな訳ないじゃないですか」町中のカップルがこんなことをしていたら正気を疑う。もちろん、自分自身の正気だ。「どっちかっていえば、侮辱行動ですよ」
「なんだそれは」
「中指を立てるとか、親指を下にするのと同じです。腹が立ったから、お腹に頭突きするんです」
「野蛮だなあ」
まあ、パンダは野蛮だからいいか、と謎の納得の仕方をした成瀬先輩はようやく僕の頭から手を放し、「面白い手紙を見つけたのだ」と声を弾ませた。見ると、彼女の手には茶色の封筒が握られている。貼られた切手には判子が押されていて、ご丁寧にも「お悩み相談ボックス様」と書かれている。コンクリートに転がっている段ボール箱を見る。
「いつの間にかこんなに偉くなっちゃって」
「どうかしたのかい?」
「僕は初めからどうかしてますよ」
「私よりか」
「先輩とは別ベクトルですよ。先輩はいい意味でどうかしてますけど、僕は悪い意味でどうかしてます」
「もうベクトルを習ったのか。君のクラスの数学教師は優秀だな」
「隈先生ですよ?」
「前言を撤回する」
「撤回すんなよ」
ガハハと笑った隈先生を無視し、成瀬先輩はびりびりと封筒を破る。
「まさか郵送で私たちに悩みをぶつけてくれる人がいるとはな。感動だよ。想像以上の成果だ」
「だよな。ちゃんと事務員さんから貰った封筒をボックスに入れた俺にも感謝してくれよ?」
「今は気分がいいから、感謝するよ」
「普段からしてくれよ」
封筒の中に入っていたのは三つ折りにされた長細い手紙だった。成瀬先輩が丁寧に開くのを覗き見ようと背筋を伸ばす。だけど、それでも足りずに結局は爪先立ちをする羽目になった。ふらふらとおぼつかず、先輩の肩を掴む。
「そんなことしなくとも、読み上げてやるさ」
僕の苦労を機敏に察した先輩は、妙に生暖かい目になり、僕の頭をぽんと叩いた。さて、と仕切り直し、手紙へと目を戻す。
「なになに。突然の手紙失礼します。あの成瀬先輩がお悩み相談を手紙で受け付けていると聞いて僭越ながら私の悩みをしたためさせていただきます。成瀬先輩なら私の悩みを解決できると信じています」
「じれってえな」隈先生は貧乏ゆすりをしながら眉をしかめる。「とっとと、要件だけ言っちまえよ」
「まあまあ。案外、こういうところから依頼人の性格が分かったりするんですよ」
「分かったか? 性格」
「とりあえず依頼人に見る目がないのは分かりました」
「根賀も先生も静かにしたまえ」
成瀬先輩は毅然としていた。僕たち外野はそれだけでしゅんと静まりかえる。そんな僕たちを横目で見た先輩は「実は」と再び読み始めた。
「実は私は今病院にいます。少し怪我をしてしまったのです。ですが悩みは怪我についてではありません。実は私が入院してから、父の様子がおかしくなってしまったのです。それこそ、まるで何かに取り憑かれているみたいに」
「先輩」
「病院の幽霊が父を蝕んでいるとしか思えません。どうか父を何とかしてくれませんか」
「成瀬先輩。もういいですよ」僕はたまらず口を挟む。「満足です。さあ、次の質問にいきましょう」
「なぜだ。私はこのお悩み相談を受けようと思っていたのに」
「いってらっしゃいませ」
「君も行くのだよ。成瀬あるところに根賀ありだ」
「寄生虫みたいですね」
「それは食えない奴ということか?」
「気持ち悪い奴ということです」
君は生意気だなあ、といつものようにのんびり言い、成瀬先輩は僕に手紙を手渡してくる。渡されたといっても、僕はどうしたらいいか分からなかった。とりあえずポケットに入れるけど、落としそうで怖くて、また引っ張り出す。
「もしかして君は怖いのかい?」落ち着かない仕草を見られたのか、成瀬先輩は面白そうに言ってくる。「病院の幽霊ときいて怖くなったのではないかね?」
「怖くないですよ」怖かった。病院というだけで怯えてしまうというのに、そこに幽霊が出るなんて。たまったものではない。「強いて言うなら、先輩が怖いです」
だけど、素直に怖いといえば先輩に何かされそうで、咄嗟に嘘を吐いてしまう。
「私の何が怖いのかね。才能とかかい?」
「格好とかですね」
「かわいいの間違いではないかね」
「人間、時には間違うのも大切なんですよ」
「明日だな」脈絡もなく、成瀬先輩は大声で宣言した。
「明日? 何がですか」
「依頼人の病院に行くのがだよ」
「え」
「いいかい? 怖くて嫌なことを先延ばしにしていると、もっと嫌になっていくのだよ。そういう面倒事は早めに処理するに限る。だから、明日行くべきなんだ。私と君と隈先生でな。幸いなことに、明日は土曜日だ」
「俺もかよ」
隈先生は苦笑する。嫌だよ、と言ってくれることを期待するけど、僕の期待はいつも通り裏切られ「仕方ねえな」と隈先生は大きな手で後頭部を撫でながら言った。
「かわいい生徒のためだ。俺の休日くらいくれてやるよ」
「先輩はかわいいですけど、僕はかわいくないですよ」
「俺は優しいからな。かわいくない生徒のためにも休日をくれてやるさ」
「優しさってなんですかね」
多分僕に一番足りないものだろう。内心で勝手に答えながらも、僕は絶望していた。成瀬先輩も隈先生も乗り気になってしまっている。乗り気になった二人から僕が逃れられるはずもない。どうして、と天を仰ぐ。眩しい太陽が僕を見下ろしてくる。答えなんてくれやしないくせに、物知り顔で佇む姿は鏡の向こうの僕にそっくりだった。
「分かりました」
多勢に無勢。孤立無援の状態だったけど、僕はさも五分五分で拮抗しているかのように、平然と言う。何てことはない。成瀬先輩の真似だった。
「では、取引しましょう」
「取引?」
「そうですね。あれです。昨日隈先生からもらった数学のプリントあげますよ。だから、その依頼はやめてください」
「それの」
こてんと表情を変えずに首を傾げる先輩は本物のパンダのように無邪気だった。
「別にいらないのだが」
「いらないんだったら捨ててもいいですよ」
「それ、ただ要らない物を押しつけているだけではないか。取引になっていない」
「僕は合理的なんですよ」
僕は自分が明らかに不利だと思っていたが、胸を張る。絶対に成瀬先輩の悪影響を受けていた。
「合理的って何だよ」
「要らない物を犠牲にして大事な物を守るんですよ。どうです? 合理的でしょ」
「合理的というより、強欲的だよ」
成瀬先輩は、普段の自分の強欲さを忘れたかのように言う。
「先輩に言われたくないです。普段。強欲の権化みたいなことばかり言っているくせに」
「そんなことはない。私は謙虚だよ。謙虚すぎて修行僧からスカウトがきたこともある」
「多分、そのお坊さんは修行失敗してますよ」
ゴホン、と大きな咳払いが聞こえ、そのあまりの強さに耳が爆発しそうになったのはその時だった。頭を大きな手で鷲づかみにされ、ぎゅっと握られる。痛い。身も心も痛い。
「お前な、人が一生懸命コピペしたプリントになんてこと言うんだ」ガサガサとした隈先生の声が頭上から聞こえる。僕の頭を握っているのも、もちろん隈先生だ。「あれ、コピペだったんですか」
「そうだぞ。あれを作るために何度も叩かれたコントロールキーの気持ちも考えてくれ」
「先生は、あんなプリントを渡された生徒の気持ちも考えてください」
「あーあ。根賀がそんなこと言うなら、俺は全力でこの怪しい依頼を受けるよう後押しするしかねえな。残念だったな」
絶対最初からそのつもりだったにも関わらず、隈先生は得意げに言ってくる。そもそも、隈先生が成瀬先輩の言うことに反発するとも思えなかった。
「ほら、他の依頼の中にもっと面白い物があるかもですよ」
結局僕はコンクリートにぶちまけられた他のお悩みに全てをかけることにした。散らばっている手紙を適当に一つつまみ上げ、開く。さっきの薄気味悪い病院の依頼より、先輩の興味を惹くようなものでありますように。心の底から願いつつ、ゆっくりと開く。
「なんて書かれているんだい?」
後ろから先輩に声をかけられる。けど、僕は反応できなかった。何か言わないと怪しまれる。分かっているのに、口が乾いて動かなかった。息がつまる。呼吸をしようとしても、うまくいかない。
「おやおやこれは」
僕が持っている手紙をすっと抜き取った成瀬先輩は、笑うでもなく呆れるでもなく、大きく息を吐いた。その顔には明らかに安堵が浮かんでいる。どうして先輩がほっとするのか、分からない。
「あいつも素直じゃないし、照れ屋だからなあ。許してやってくれ」
「何の話ですか」
「君の言ったとおりだったということだよ」
僕から奪い取った手紙を指の間に挟んだ先輩は、乱雑に転がっていたお悩み相談ボックスを手に取った。段ボール箱の底をポンポンと叩いた後、同じように僕の頭もぽんぽんと叩いてくる。
「まさか、本当に感謝の気持ちがゴミ箱に入っているとはな」
驚きだよ、と先輩はしごく冷静に頷いた。その、何でもお見通しというような仕草が気に入らず、僕はもう一度成瀬先輩に頭突きをした。その衝撃で、先輩の手から手紙が落ち、ひらひらと地面に落ちていく。『ふぁっきゅークソガキ』と書かれた手紙から意図的に目を逸らし、俯いたまま顔を拭いながら強く先輩のお腹に頭を押しつける。もちろん、先輩に侮辱の意思表示をするためだ。決して感動して涙が零れたとか、照れくさくて顔がおかしくなったとかではない。
決して、そんなはずはないのだ。
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