第14話 ナルシストパンダは感謝する

朝が好きな人間はいない。


毎朝布団から這い出て、眠い頭を無理やり叩き起こし、そして人混みに潰されながら電車に乗って学校に向かう。いい事なんて何一つないのに、どうしてこんなに無理して学校に行かなければならないのか。なんて、そんな憤りすら覚えてしまう。


 だけど、何より嫌なのは教室に入る時だった。


 なぜかいつも礼儀よく閉じられている扉を開く。ガラガラと嫌に響く音と共に、ひそひそと自分の席へと向かう。が、ひそひそしているのに視線が僕に集まるのが分かった。それこそ、ひそひそと何かを話している。耳をそばだてている訳でもないのに、会話が聞こえてくる。先輩、二年生、水をかけた。酷い。またか。そんな会話が、聞こえてくる。


 話が回るのが早い、なんて思わない。分かっていた。学校はそういう場所だ。暴力事件はおろか、校則違反すら滅多に起きない。そんな善良な生徒しかいない閉鎖空間で異物が面倒を犯したならば、一瞬で話題になってしまう。そんなこと、もう既に分かりきっていたことだった。


 居心地の悪さはもはや感じない。慣れたからだ。だけど、なぜだろうか。少しだけ、早く屋上に行きたいだなんて、そんなことを考えてしまった。





 落ち込んだ人間を励ますためにはどうしたらいいか。

 その方法は色々あるはずだ。美味しいご飯を奢る。お願いを聞く。どこか気晴らしになる場所に連れて行く。もちろん、相手によって何が正しいかは変わるだろうから、何が本当の答えかは誰にも分からない。それは確かにそうだ。


 でも、さすがに裏に消しゴムのケースが貼り付けられた封筒を貰っても何の励ましにならないと分かって欲しかった。


「君へのプレゼントだよ」


 僕は、昨日あんなことがあったにも関わらず、授業後にいつものように屋上へとやってきていた。いや、違う。昨日あんなことがあったにも関わらず、いつものように先輩に攫われ、屋上へと連れ込まれてしまっていた。僕の放課後にはもはや自由はないらしい。


 それだけならよかったけど。いや、それもよくないけど、とにかく。妙に成瀬先輩がにやついているとは思っていたけど、まさか隈先生の写真が貼られた封筒を渡されるとは思ってもいなかった。いったいこれをどうすればいいのか。


「どうだい? 嬉しいだろう?」

 何も嬉しくないのに、成瀬先輩は自信満々だった。


「感動しただろ」

「どちらかといえば悲しいです。絶望しそうです」

「値賀は素直じゃないなあ」

「素直ですよ。こんなんじゃ慰めにもなりません」

「まったく。最近の若者は贅沢だ」


 贅沢は敵で親の仇だぞ、と何の含蓄にもならないことを言った成瀬先輩は「仕方ないなあ」と不敵な笑みを浮かべた。こういう笑い方をする先輩は碌なことを言わないのだと、僅かな経験ながら悟ってしまう。


「ではしりとりをしよう」

「はい?」案の定彼女は意味不明なことを言い出した。「なんで?」

「この私としりとりができるのだぞ? 光栄だろう? 誇っていいぞ」

「嬉しくないです」

「じゃあ私からだ」


僕の話なんて当然聞いてくれるはずもなく、先輩は大きな目を細く伸ばした。


「そうだな。では、借りてきた猫でどうだ。こ、だぞ」

「それ、普通に猫で良いじゃないですか」

「いいから、答えろ」

「こばん」

「君」


一瞬顔を曇らせた成瀬先輩だったが、すぐにむっと眉をあげ、また嫌みな笑みを浮かべた。嫌な予感しかしない。


「そうだな。それじゃあ、ンゴロンゴロだ」

「何ですかそれ」

「どっかの首都だよ。ほら、君の番だ。早く答えたまえ」

「しりとりは、『ん』で終わったら負けなんですよ。もう終わりです」

「君は分かっていないなあ」

「何がですか」

「よく言うだろう。終わってからが本番だってね。君もよく覚えておきたまえ」

「絶対に忘れます」


 僕は観念して封筒を手に取った。そこには当然のように消しゴムのケースが貼り付けられている。意味が分からなかった。


「これ、何に使うんですか。いつの間にか消しゴムのケースが切手になってたんですか?」

「知らないのかい? 封筒を使ったおまじないだよ」

「知らないですよ」


さも当然かのように言ってくる先輩は、僕が首を振ってもその自信を崩さなかった。むしろ一層胸を張り、「封筒のおまじないというのはな」と声高々に説明してくる。


「特定の条件を満たした封筒に将来の夢を書いて中に入れれば、それが成就するというものだよ」

「ありがちですね」


ありがちで面白みのないありふれたおまじないだ。古今東西、世の中にはびこるどうしようもない現実逃避だ。こんな物で願いが叶うのであれば人生苦労しない。


「で、なんで消しゴムのケースが裏に?」

「そこがミソなんだ」

「随分と手前味噌ですけど」

「さっき、特定の条件と言っただろう」隈先生封筒をひらひらとさせた成瀬先輩は、写真の先生と同じように微笑みを浮かべた。


「条件というのはだね。封筒の裏にゴミを貼って、ずっと持っておく、というものなのだよ。そうすれば願いが叶う。人呼んで肉まん封筒」

「肉まん封筒?」

「大事なのは外側より中身ということだよ」

「肉まんは外側の皮が美味しいじゃないですか。どちらかといえば外側より中身が大事なのは人間ですよ」

「それは荒みすぎだ」


人間も外面は大事だろう、と僕以上に荒んでいることを言った先輩は「ほれ」とどこか期待に満ちた目で肉まん封筒、もといゴミを渡してくる。いったい僕がなんでこんな目に。


「ずっと持ち歩くってのは願いを叶えるために必要っぽいですけど、なんでゴミを貼るんですかね。かえって願いが叶わなくなりそうですけど」

「対価だよ。ただで願いが叶うはずないではないか。ゴミを持ち歩くなんて苦痛だろう? その苦痛の対価として願い事が叶うのだよ。だから、ゴミは価値が低い物であれば低い物である方がよい。産業廃棄物とかな」

「そんな物どうやって封筒に貼るんですか」

「貼れないなら写真で代用すれば良いのだよ」


産業廃棄物の写真を貼った封筒を持ち歩いている人なんて、それこそ不審者以外の何物でも無かった。そんな人の願いも碌でもないに違いない。


「まあ、ありがたく受け取りたまえ。中身にどんな願い事を入れるか知らないが、きっと叶うだろう」

「隈先生が痩せますようにとかにしますかね」

「何事にも限度はあるからな。気を付けたまえ。それに、隈先生の体格も役に立つこともある」


 たしかにあの大きな体は生徒に威圧感を与えることができ、つまりは不良を折檻するのに役立ちそうではあるけれど、残念なことに肯綮高校には自称ヤンキーの真面目ちゃんが一人いるくらいで、他は皆いい人ばかりだ。


「役に立つって、何にですか。待ち合わせ場所にするとか?」

「違う。彼はその見た目同様力持ちなのだよ。現に今、その力を発揮しているだろう」

「どういうことですか」

「先生に荷物運びをお願いしたのだよ」


 タイミングを見計らった訳ではないだろうけど、丁度そのタイミングで屋上の扉が開いた。ガシャンと激しい音が殺風景な屋上に響く。ただですら日光が当たって暑いのに、余計に暑苦しくなった。


「隈先生」

「お前らなあ、先生を何だと思ってるんだ」


 昨日のこともあり、僕はぐっと身構えてしまう。怒られると思ったのだ。だけど隈先生はいつも通り大雑把な調子で「少しは俺をいたわれよ」とぶつくさ文句を言っている。拍子抜けする。が、不安も残る。もやもやとした嫌な気分になった。


「この俺に荷物運びをやらせるなんてな。まったく信じられない」

「よいではないか。せっかく良い体格をしているのだ。こういう時に役立たなければ損だろう」

「俺は別にお前らの荷物を運ぶために鍛えてんじゃねえよ」

「鍛えてはないですよね。ただの中年太りです」

「中年太りだって簡単になれるものじゃねえんだよ。いいか。こんな中にぎっしり詰めこむには努力が必要なんだぜ」


 ここまで努力の方向が間違っているのも珍しい。逆に感心するくらいだった。


 隈先生が持ってきたのは段ボール箱だった。さして大きくなく、リュックサックと同じくらいだ。上部に小さな円状の穴があり、側面には『お悩み相談ボックス』と書かれた張り紙が貼り付けられている。


「何ですかそれ」

「目安箱のお悩み相談バージョンだよ。人は中々自分の悩みを口に出せない。そうだろう? 勇気がいるからな。だけど、手紙やハガキであればまだ伝えやすい。気軽に伝えられるからね。だから、隈先生に頼んでお悩み相談ボックスを職員室の前に置いてもらっていたんだ」

「そんなことをしていたんですね」まったく知らなかった。「凄いです」

「そうだろうそうだろう。もっと褒めてもいいのだよ」

「見直しましたよ。成瀬先輩って本当に優等生だったんですね」

「何だね。今まで疑っていたのか」

「疑うというよりは、冗談だと思ってました」


 お悩み相談にここまで熱意を注いでいるなんて。中々できることではない。そもそも、彼女はなぜ生徒の悩みを解決しようと思ったのだろうか。成瀬先輩はなんでこんなことを。


「まあ、俺は値賀のことも見直したがな」


 考え込んでいると、いつの間にか正面に隈先生が座っていた。距離はそこそこあるはずなのに、すぐ目の前にいるかのような錯覚を覚える。圧倒的な存在感だ。


「よくやった」

「何の話ですか」

「昨日の話だよ」とぼけるなよ、と頭をわしわし撫でてくる。「それにしても下手くそなウインクだったな」

「うるさいです」

「最初は焦ったぜ。いきなり乾に襲いかかったからな。が、まあ。昨日の成瀬の話を聞いて納得したさ。虎井もクラスの連中も、乾のことを気にかけてたからな。敵の敵は味方って言うし」


 僕は成瀬先輩に目を向ける。と、露骨に視線を逸らされた。いつの間に告げ口していたのか。別に口止めしていたわけじゃないけど、あんまりほいほい広められても困る。


「今日、ちょっくら昼に乾達のクラスを覗いてきたんだが」

「五年くらいですかね」

「何がだ」

「執行猶予」

「覗きって、そういうんじゃねえよ。俺を何だと思ってるんだ」

「隈先生」

「生意気なガキめ。やっぱり反省文書かせてやろうか。せっかく俺が他の先生を説得してやったってのに」

「それは……すみません」

「謝るなよ。俺が好きでやったのに」


隈先生の嬉しそうな顔が一瞬引っ込み、口端が歪んだ。おでこをぺちりと叩き、たははと苦笑している。余計なことを言った、とその顔には書かれていた。きっと僕も同じ顔になっているはずだ。僕なんかのために、そこまでしてくれなくてもいいのに。


「まあ、とにかくだ。昼休憩中にあいつらのクラスを覗いたら、飯を食ってたんだよ」

「それはそうだろう。昼飯を食べられない生徒なんてほとんどいない」成瀬先輩は鼻息を荒くした。「お小遣いがなくなって弁当を買えない生徒くらいだ」

「そういう意味じゃねえよ。ただ昼飯を食べてたんじゃなくて」隈先生の顔がふわりと緩む。そしてもう一度僕の頭をわしわしと撫でてきた。「乾と虎井と、あと三人くらいの生徒が一緒に飯を食ってたんだ」


 そうですか。僕は小さく返事をしたつもりだったけど、声は出ていなかった。脳裏を過ったのは、廊下で男子生徒が悲鳴をあげた場面だ。


「あの、隈先生」

「何だよ」

「虎井さん達は、楽しそうでしたか? 愛想笑いとかしながらご飯食べてませんでしたか?」

「してたよ」


言われて、背筋が凍る。やっぱり、あんなくらいじゃ何も変わらない。僕が誰かに影響を与えることなんてできなかったのでは、と怖くなる。


「それは」

「最初はな」


が、僕の心配とは裏腹に隈先生は嬉しそうだった。


「虎井に謝ってたんだよ。乾の友人の生徒がな。虎井も戸惑っているみたいだったが、その後は打ち解けたみたいで、談笑してたさ。今日の帰りも、この荷物を屋上に持っていく途中で一行に会ってな。今から皆でカラオケに行くんだとさ。あと、虎井さんは悪い人じゃないから、色眼鏡で判断して怒っちゃ駄目だよって、叱られたよ」

「そうですか」

「そしたら、虎井の奴、どの口が言うんだって笑いやがったんだよ。あいつも強いよな。まあ、要するに。それが笑い話にできるくらい、仲良くなってたさ」

「そうですか」


僕は何も言えなかった。肩の力が抜け、そのまま後ろの成瀬先輩にもたれかかってしまう。どうして自分の力が抜けているのかも分からなかった。


「ありがとうな」そして、成瀬先輩がなぜ僕にお礼を言ってくるのかも、分からない。「私の作戦が失敗したせいで、君に負担をかけてしまった。失敗だよ。この私が認めるほどの失敗だ」

「あ、あの」


全身がむず痒い。怒られるのには慣れていたけど、褒められることには慣れていなかった。何とか話題を変えたくて「その、段ボールについてですけど」と指を差す。


「お悩み相談ボックスな」

「持ってきたってことは、今日これを開けるつもりなんですか?」

「そうとも。三ヶ月分の成果だな。このボックス君の努力の結果が試される日だ」

「努力も何も、箱に何ができるというんですか」

「君もまだ甘ちゃんだな」


 ボックス君を持ち上げ、満足そうに中を覗き込んだ先輩はふふんと偉そうに鼻を鳴らした。


「隈先生が言っていたではないか。中にぎっしり詰めこむには努力が必要なのだよ」


 中年太りと一緒にしたら駄目ですよ。僕は小さく抗議する。脂肪も悩みも似たようなものだろう、と深いような浅いようなことを言う先輩のことは無視することにした。

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