ナルシストな成瀬先輩

pta

第1話 ナルシストパンダは空を飛ぶ

 物の多さランキング。二位はドンキホーテ。では一位は何でしょう。

「答えは高校の屋上だよ」

 いきなり僕を職員室に呼びつけた隈先生は、その太い唇をふっと緩め、ガハハと笑いながら言ってきた。「高校の屋上には全てがあるんだ」

 はあ、と間の抜けた声を出すことしかできない。授業後、いきなり担任教師に呼ばれて狼狽えていたというのに、まさかそんなことを言われるとは思わなかった。


「全て、ですか」

「そうだ。何でもある。みみずだっておけらだって、アメンボだっているぜ」

「まあ、たしかに屋上に虫はいそうですけど、いても嬉しくないですね」

「何でだよ。子供は子供らしく、虫取りでもしてろって」

「僕は子供じゃないですよ」

「高校一年なんざ、まだ青臭いガキじゃねえか。四捨五入したら中学生だぞ」


 数学教師なのに四捨五入の使い方が雑な隈先生は、そのゴツゴツとした大きな手を僕の頭に乗せ、乱雑に撫でてくる。いや、撫でるというよりは揺さぶっていると言った方が正しいかもしれない。名は体を表すとはよくいうけど、隈先生はまさしく熊のような先生だった。ツンツンとした短髪も、太い眉毛も腫れぼったい目も、全てが獰猛な肉食動物みたいだ。性格も野生児じみていて、数学の講義中、生徒に間違えを指摘された時には「いいじゃねえか。俺はこう見えて寛大なんだよ。多少のミスには目を瞑るんだ」と豪語していた。が、その後の中間テストではしっかりと計算ミスを×にしていて、非難されていたのをよく覚えている。


「とにかく、屋上は素晴らしいんだよ」


 そんな隈先生がいきなり僕を呼び出して、どうして屋上の良さを豪語し始めるのか、分からなかった。


「我が校の屋上はフェンスで囲まれてるから安全だしな。安心安全で子供にも大人気だ。あのディズニーに肩を並べてるからな。何なら、屋上にはミッキーがいるかもしれねえぞ」

「いませんよ」

「どうだ? 屋上に行きたくなってきたか? 期待に胸を膨らませてきたか?」

「先生のお腹みたいにですか」

「そうだ。俺の腹は期待で満ちているんだ。知ってるか? 人間は何かに期待しないと生きていけないんだぜ」

「なんか格好良いですね」僕はわざとらしく手をぱちぱちと叩いて見せた。「さすが隈先生」

「あまり褒めるなよ」

「中年太りしてるだけあります」

「もっと褒めろよ」


 結局、僕を呼び出した先生は最後まで要件を伝えず、延々と屋上の良さを語り続けていた。あれから十分後、僕は先生の言うとおり屋上にやってきたいた。もちろん、期待に胸を膨らませた訳ではない。単に「いいから屋上に行けって。行かないと酷い目に遭うぞ」と脅されたからだ。

だから、屋上に何もかもがあるなんて思っていなかった。みみずもおけらもあめんぼもミッキーも、


 まして、パンダの着ぐるみを被った少女がいるなんて、思ってもいなかったのだ。




 目を疑い、正気を疑った。それほどまでに現実離れした光景だった。

 真っ青な宙に立ち向かうかのようにその生徒はフェンスをよじ登る。緑色に塗られた網目状で金属性のフェンスは三メートルほどあり、彼女が重心を動かす度にぎしぎしと嫌な音を立てる。錆びて茶色が目立っているせいで葉の生い茂る木々のようにも見えた。彼女の格好に相応しいと言えば相応しい。


 肯綮高校は一般的な制服を指定しているのだけど、彼女の格好は独特だった。生徒指導の先生が見たら泡を吹いて倒れそうだ。校則以前に何らかの法を犯していてもおかしくない。


 フード付きのつなぎのような細身のパンダの着ぐるみだった。キャラクターもののベビーウェアをそのまま大きくしたような感じで、ご丁寧にも黒色の丸い尻尾までついていた。随分と着古されていて、ところどころ黄ばんでいるが、それが余計に違和感を助長している。


 その、非現実的な光景は僕の人生の中でもトップレベルに理解不能で、頭がこんがらがる。どうしてパンダの格好をしているのか。いったい何をしようとしているのか。屋上になんて来るんじゃなかった。そっとしておいたほうが良い。見なかったふりをして帰った方がいい。そんな考えが頭をもたげる。


「危ないですよ!」が、結局僕はそう叫んでいた。真下は玄関前の花壇だとはいえ、四階建ての校舎から落ちて無事ですむはずがない。そう思うと無意識のうちに声をかけていた。


 僕が声をかけると、女性はぴたりと動きを止めた。両手を真っ直ぐ上に伸ばし、一点を握る様子は何かに祈りを捧げているようにも、アルファベットのAの物真似をしているようにも見える。そんな奇妙な格好のまま顔だけでこちらを振り返った。逆光でフードの影が重なり顔はよく見えない。


「やあ、よく間に合ったね」


 女性にしては低いその声は聞き慣れないものだった。高校生とは思えないほどに落ち着いており、自信に満ちている。すごく、綺麗な声だ。


「ぎりぎりだ」

「ぎりぎりじゃないですよ。危ないですって。何してるんですか」

「見て分からないかい?」

「分からないから聞いているんですよ」女性はフェンスによじ登ったまま、器用にも肩をすくめた。鼻を鳴らし「決まっているじゃないか」と何も決まっていないのに得意げに言ってくる。


「テントウムシの物真似だよ」

「パンダの格好しているのにですか」

「そうだ。パンダテントウムシだよ。格好良いだろう」

「可哀想です」

「せめて格好悪いと言ってくれ」何が面白いのか、くすりと笑った女性は「テントウムシの奇妙な習性は知っているだろう」と自らの奇っ怪さを棚に置いて話し始める。「花や指先を必死に這い上がり、てっぺんまで来たら飛ぶのだよ。感動的だろう? 憧れるよ」

「それ、人間がやったら死んじゃいますよ」

「ああ。そんなこと分かっているさ」


 反応に困っていると、少女はふふっと笑い、体をくるりと反転させてこちらを向いた。両手はすでに離され、脚を金網の隙間に引っかけているだけだ。ぷらぷらと、上半身が風に流されて揺れる。

 危ないですって! また発作的に叫びそうになるが、今度は言葉が途中でつまった。なぜか。


その少女が両手を広げ、こちらに飛び込んできたからだ。


 徐々に大きくなるパンダの着ぐるみを前に頭が真っ白になる。フェンスの向こう岸じゃなくて良かった。いやよくない。受け止めないと。できるのか。やらなきゃいけない。どうすれば。何で僕がこんな目に。焦りと混乱で考えがまとまらない。


 両手を広げ、落ちてくる生徒を受け止めようと上を見る。が、そうすると体が不安定になり、無様にも後ろに転げ尻餅をついてしまった。羞恥と不甲斐なさで顔が赤くなる。


 慌てて視線をあげる。すぐ近くにまで体が迫ってきていて、思わず悲鳴をあげてしまう。恐怖で反射的に目を閉じると、どすんと鈍い音が耳元で響いた。


 痛みはなかった。それどころか重みすら感じない。おそるおそる目を開く。と、すぐ目前に綺麗な女性の顔が現れ、ぎょっとする。後ろに退こうとするも身体が動かない。彼女の生暖かい吐息が鼻にかかってくすぐったい。


「こんなタイミングでまさか現れるとはな」

 顔を近づけたまま、少女は嬉しそうに笑う。飛び降りた衝撃でフードが脱げ、顔が露わになっていた。「運命的だな。ぎりぎりだ」


 綺麗な長い黒髪は前に垂れ、絹のように白い肌とよく映えていた。薄い唇を横に伸ばし、つり上がり気味の大きな瞳を得意げに細めている。そして、その瞳が真っ直ぐ僕に向いていることに気付き、耳が熱くなった。顔を背けてしまう。そこで、ようやく彼女が僕を押し倒すように体を被せていることに気がついた。顔のすぐ右にどんと手をつき、脚を絡ませてきている。


「だ、大丈夫ですか?」顔を背けたまま、僕は訊ねる。「あんな高さから飛び降りるなんて」

「君は優しいな」背けた僕の顔に合わせてさらに顔を近づけながら、彼女は朗らかに笑った。

「こんな状況なのに、私の身体の心配をするなんて」

「身体じゃなくて、頭の心配をしてるんですよ」

「前言撤回だ」途端に唇を尖らせ、鼻で笑う。「君は優しくないな。生意気だ」

「あの、とりあえず離れてください」


 見ず知らずの女子生徒にのしかかられても、嬉しさより恐怖が上回る。いくら彼女が可憐で美しいとしても、だ。そもそも、パンダの着ぐるみを被り、いきなり飛びかかってくる少女に恐怖心を感じないはずがなかった。おかしいのだ。距離感も、格好も。


「照れているのかい?」

「まさか。こんなことをされれば、誰でも怯えますよ」

「こんなに美しい私だというのに?」

「美しさは関係ありません。上から人が降ってくれば誰だって驚きます」

「そんなことないさ」そんなことないはずないのに、彼女は自信満々だった。「天気予報で言っていたではないか。今日の天気は晴れ時々人だって」

「嫌な天気ですね」

「梅雨前だからね。不安定な天気なのだよ」

「不安定なのは足場でしたよ。なんで、フェンスをよじ登ってたんですか」

「なんでって」きょとんとし、彼女は本当に不思議そうに首をこてんと傾げた。

「悩める子パンダだからだよ」


 意味が分からないのは、僕がまだ未熟だからなのだろうか。もしかすると高校の授業をこれからもっと受ければ、彼女の言葉を理解できるようになるのだろうか。


「パンダみたいに私は人気者だからな」そうだろう? と僕の額に手を置いてくる。「可愛いし、賢いし、運動もできる。何なら本物のパンダよりも人気があるくらいだ」

「凄い自信ですね」


普通、ここまで自分をよく言うときには、幾分か照れや虚栄が見えそうなものだけど、彼女は堂々としていた。さも公然の事実かのように淡々としている。


「でも、さすがにパンダは強敵ですよ。動物園のアイドルですから。笹を食べているパンダを見ていると、こっちも幸せになります」

「君は、なぜパンダが笹を食べているか知っているかい?」


唐突に訊ねてくる。答えに窮していると、僕のおでこをぐっと人差し指で押してきた。痛い。


「パンダは雑食なんだ。笹以外にも果物も食べる。でも、私たちが見るパンダはいつも笹を食べているだろう。本来であれば果物を食べていてもおかしくないのに。理由は単純だよ。君みたいに」

「僕は複雑ですよ」

「パンダが笹を食べているのは、それしか食べるものがなかったからだ。彼らはしぶしぶ笹を食べているのだよ。かわいそうではないか」

「そんな」


 いつものんびりとしていて幸せそうなパンダがそんな闇を抱えているなんて。とても信じられなかった。あの白黒が印象的な可愛い姿がぼんやりと薄れていくような気さえしてくる。


「多分、パンダは好きで笹を食べてるんですよ」それが嫌で、僕はらしくなく抗議してしまう。「パンダは笹が好きなんです」

「笹を? 何が悲しくてそんな物を。味もないし筋だらけで食えたものではないだろう」

「だからこそです」

「だからこそ?」

「パンダは歯ごたえがある奴が好きなんですよ」


 一瞬ぽかんとしていた彼女だったが、すぐにふっと頬を緩めた。かと思えば、プルプルと小刻みに身体を震わせ、ぶふぅと噴き出した。僕に跨がったまま上体を逸らし、あっはっは、と大声で笑い始める。


「君は優しいな。そして面白い。少々生意気なのが玉に瑕だが、気に入ったよ。私と君はやはりよく似ている」

「自虐はよくないですよ」

「なぜ自虐だと思ったんだ。この私のお墨付きだぞ。もっと誇っていい」

「この私のってあなたは誰なんですか」

「私かい? 私はただのセカンドパンダだよ」

「セカンドインパクトみたいに言わないでください」

「本当に私のことを知らないのかい? かの有名な成瀬想羽のことを、知らないとでもいうのかい?」


 あ、と思わず声を漏らしてしまう。記憶の奥底から懐かしい記憶が蘇ってくる。入学してすぐの時、クラスメイトが大声でしていた噂話を思い出した。「二年生に自分が大好きなパンダがいるらしい」という噂だ。その時は、二年生にパンダがいるってどういうことなんだろう、としか思っていなかったが、今なら分かる。「もしかして、あの成瀬先輩ですか?」知らず知らずのうちに声が上擦った。

「ナルシストの成瀬先輩ですか?」


 ただですら得意げだった先輩の顔がさらに歪む。口を大きく開き、目を潤ませる姿は見とれてしまうほど美しく、同時にだらしなかった。


「そうとも! 私がかの有名なナルシストの成瀬だ」成瀬先輩の噂はたくさんあった。尊敬する人物を訊ねられ自分と即答しただの、鏡の前で一時間ずっと自分を見ていただの、その全てが奇想天外で、信じられないものばかりだ。だけど、本物を目の当たりにすると、全部本当だったかもしれない、と思えてしまう。実在していたんですね、と呟いてしまうほどだった。


「どうだい? 生成瀬は格好良いだろう? 感激で涙が出るだろう?」

「人間って呆れ過ぎても涙って出るんですかね」

「なんてことを言うのだ。まったく。君はつれないな」

「僕、つれないことで有名なんですよ」

「嘘を吐くな嘘を」はっはっは、と大口で笑ってくる。彼女が笑う度、その震動が僕にも伝わってきて、痛い。


「君はつられやすいタイプだろう。時間はかかるが、安直な餌にもひっかかる。あんこうタイプだ」

「失礼ですよ」

「さすがにアンコウは駄目だったか?」

「アンコウに失礼だと言ってるんです。こんな奴と一緒にするなって怒られますよ」

「自虐的だなあ」興味深そうに僕の目を覗き込んでくる。吊り上がり気味の琥珀色の目は美しく、そこに映る僕の顔だけが耐えがたいほどに汚れている。

「さすがは根賀だ」

「え?」

「どうしたんだい? 私は褒めているのだよ。君みたいな人間は稀だからね。もしかして褒められ慣れていないのかい? 可愛い奴だな」

「そうじゃなくて」と僕は必死に首を振る。「なんで、僕のこと知ってるんですか」


 ああ、と成瀬先輩は気の抜けた声を出す。よっこらせ、とおっさんくさい掛け声とともに上体を一度起こした。ようやく解放されるのか、と安堵するも、すぐに再び上に被さられる。両手首を掴まれ、もはや身じろぎすらできなくなった。


「根賀有。一年C組。こんな情報、簡単に分かるさ。理由は単純だ。私が天才だからに決まってるじゃないか」

「決まってませんよ」

「私にかかれば相手の顔を見ただけで名前も体重も、髪質だって分かるんだよ」

「最後のは僕でも分かりそうですけど」

「私くらい優秀だと、この世のほとんどを理解してしまうんだ。なぜ人間は争いを繰り返すのか。なぜ戦争はなくならいのか。なぜ校長先生の話は退屈なのか」

「なんで退屈なんですか?」

「校長がつまらない人間だからだ」


 あまりに酷い。僕の方がつまらないですよ、と心の中で校長先生を擁護したくなる。けど、何のなぐさめにもなっていないことに気づき、やめた。


「だから、私はよく色々な人の相談を受けているのだよ。ここ屋上でな。明日の晩御飯は何がいいかな、とか。あるいは人生相談とか。人呼んで、成瀬の相談室だ」

「室って、ここ屋上じゃないですか」

「細かいことは気にするなよ」

「どうせなら、どこかの空き教室でも使えばいいのに」

「君は分かっていないなあ」もちろん僕は何も分かっていなかった。分かったことといえば、成瀬先輩は想像以上に妙な人であるということだけだ。

「人間は困ったらどうするか。絶望したらどうするか。分かるか?」

「さあ」

「屋上に行くのだよ」


 さもそれが世界の常識のように成瀬先輩は言う。あまりに堂々としていたため、そうだったんですか、と頷きそうになった。


「無意識の内に高い場所に行ってしまうのだよ。昔有名な登山家も言っていたではないか。なぜ山に登るのか。家庭に居場所がないからだ、と」

「多分、その登山家は有名じゃない登山家ですよ」

「とにかく、人生に迷った人々は屋上に来るのだよ。こぞってな」

「そうだったんですか」と今度こそ僕は頷く。自称優等生なだけあって、深いことを考えているなあ、と思ったからではない。素直に頷いていればいつの日か解放されると思ったからだ。


「だからだ、根賀」が、残念なことに先輩は開放するどころか、逆に拘束を強めてきた。どうしてですか、と嘆きたくなる。僕が何をしたというのか。

「君も怖がらずに私に悩みをぶつけてくれ」

「え」

「君も悩みがあるから屋上に来たのだろう? ほら。遠慮せず言ってみたまえ」

「先輩、重いのでどいてください」

「少しは遠慮したまえ」首に手を回し、頭をわしわしと撫でられる。犬になったようにも、技をかけられたプロレスラーのようにも思えた。

「そんなこと言われても、悩みなんてないですよ」


 嘘だった。悩みは無数にある。むしろ悩みしかないと言ってもいい。だけど、いざ悩みを言えと言われると困ってしまう。


「強いて言うなら、話を聞かない年上の人の対処法で悩んでますね」

「そうか。君も大変だなあ」

「先輩は悩みがなさそうで羨ましいです」

「褒めるなよ」

「褒めてないですよ」あっはっは、と耳元で高笑いしてくる。耳に吐息がかかってくすぐったい。「だったら、とりあえずは今日の晩御飯を一緒に考えてください」

「お。素敵な悩みだね。お腹が空いたのかい?」

「ええ。そうですよ。食べることは数少ない幸せの一つです」

「その割りには身体は小さいが」

「先輩が大きいんですよ」

「心の話か?」

「強いて言うなら態度の話です」


 たしかに僕はまだ小さかった。存在感も身長も、気概も精神も未熟だ。だけど、それにしても先輩は大きい。寝そべっているせいで背丈がどれほどかは分からない。だけど、一応男子である僕があっさりと拘束されてしまうほど、力も強かった。


「先輩は格闘技か何かやってたんですか?」

「いや? 特にやってはいない」だがまあ、と彼女は頬を緩める。青い空を見ながら、「これは母直伝だからな」と囁いてくる。

「私の母はよく、悪い奴をこうして捕まえているんだ。格好良いだろ?」

「勇ましいですね」

「見習う訳ではないが、いつの間にか私も同じ事ができるようになっていたわけだ」

「でも、だからといって」


 僕は最後の抵抗とばかりに、一度大きく身体をばたつかせる。が、当然拘束は外れない。


「僕を捕まえなくてもいいじゃないですか。たしかに僕は悪い奴ですけど、何もそこまで」

「仕方ないだろう」何も仕方なくないのに、彼女はしぶしぶと言った様子で肩をすくめる。

「私には君が必要なのだよ」

「僕が? どうして」

「いやあ。お悩み相談室をやっていて思ったのだよ。そろそろ手下がほしいなって。だが、意外なことに募集をしても誰も立候補してくれなくてな」

「募集なんてしてたんですか」

「まあな」なんで知らないのだ、と言いたげな顔で、僕をじとっと見下ろしてくる。「私は優秀だからな。色々伝手があるのだよ。そういう人たちに頼んで募集をかけているのだが」

「だが、なんですか」

「中々いい奴がいなくてな」手下に立候補している時点で碌な人じゃないですよ、と言うも、無視される。「この優秀な私が手下捜しに難儀するなんてな。驚いたよ」

「そんなに優秀なら、手下なんていらないんじゃないですか?」


 僕は嫌みでもなく、本心からそう言った。たしかに成瀬先輩は滅茶苦茶だけれど、その圧倒的な自信は見ているだけでどこか安心する。彼女であれば、なんでもひとりで出来てしまいそうだった。


「まあ、たしかに私は一人でもへっちゃらだが」

「へっちゃらですか」

「だがな、優秀な狙撃手には優秀な観測者が必要なように、優秀な母親には優秀な父親が必要なように、優秀な女子高生には優秀な手下が必要なのだよ。だから、私には君が必要なのだ」

「僕は優秀じゃないですよ」

「優秀かどうかは私が判断する。君にその権限はない」

「会ったばっかりの人が優秀かなんて、分からないでしょう」

「私は顔を見ただけで髪質まで分かると言ったではないか」


 髪質が分かっても、僕のことなんて何も分からないに決まっていた。人は見た目で判断しちゃいけない。よく言われる言葉だけど、まったくもってその通りだった。それこそ、成瀬先輩がその代表格だと思う。彼女は見た目と違って、中身は相当変だ。


「僕を捕まえたところで何にもなりませんよ。百害あって一利なしです。生意気で反抗的ですし」

「それでいいのだよ」

「え」

「君も言っていたではないか」


 ふふんと嬉しそうにはにかみ、背中に手を回してぎゅっと抱きしめてくる。さすがにどきどきするけど、力が強く、ぎりぎりとお腹が締め付けられるせいで苦しさが上回ってしまう。そんな僕を見て微笑ましそうに笑った先輩はゆっくりと続けた。


「パンダは歯ごたえがある奴が好きなんだよ」


 だから君が良いんだ、と耳元で囁いてくる。何がいいのかさっぱり分からない。いきなり屋上で訳の分からない先輩に絡まれるなんて、ついてなかった。ああ、と空を見上げてしまう。とりあえず分かったのは、僕はこの先輩から逃げられないということだけだ。

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