噂のアメクメーネ
第18話 信仰と忠義
神よ。文明を導きし叡智湛えたる比類なき神よ。
どうか、我に進むべき道をお示し下さい。惑う人々に再び威光を知らしめ、団結を持って平穏を取り戻し得るための、真なる道を。
我は祈る。砂にまみれる旅籠の、草臥れた莚の上で。
「姫様、今日の夕餉にございます」
「ああ」
女官の届けてくれた食事は、何かの種を煮込んだだけの簡単なスープ。神官たちが修行で口にするのと同じか、あるいはなお質素なものだった。
――今を堪えれば、と言い続けてどれ程になるか。崩れ落ちたものを取り返す為の道筋は、果たしていつになれば見つかる?
聖都を離れてから間もなく、我は装飾された鎧を売って傭兵を雇った。聖殿下としての立場を示すものである為、追われる身としては妥当な判断だったと思う。
それから暫く後、予備の剣を質に入れた。路銀が底をついたからだ。軍獣の負担を減らし、移動を早めると思えば悪くないはず。
また暫くして、次は僅かばかりの装飾品を食料と交換した。軍獣に食べさせる枝葉も、戦争の影響で値上がりしているのだとか。最早見た目は、多少質のいい服を着た町娘と変わらないが仕方ない。
そうしてどうにか南の町、カルストルグの側まで辿り着くことが出来た。しかし、今日の食事を見れば分かるように、残された路銀は極僅かだ。
しかし、当てはある。カルストルグの領主は、遠縁ながら父と同じ血が流れる一族なのだ。
滅びの手はまだ、南の先までは伸びていない。こちらの窮状を伝えれば、必ず力を貸してくれるはず。
ここから反撃の狼煙をあげるのだ。翌朝、そう勇んで村の宿を出ると、その日の夜にはカルストルグに着き、我はその足で領主の館へ向かった。
「目通りを求めるは誰か」
最奥の玉座に身を垂れるは、不機嫌そうな顔を隠しもしない老齢の男。
否、これまでに他の表情など見たこともないので、きっと元々そのような顔立ちなのだろう。
「ホルマン様、お久しゅう。ソランより参りました、ファゾルトが娘、フォンテインにございます」
私は彼を知っている。故に彼も私を知っている。名を聞き顔を上げれば、おお、と立ち上がってくれるはずと。
「んんー? フォンテイン? お前のような町娘がかァ?」
だが、答えは想像とあまりにかけ離れていた。遠縁の叔父であるホルマンは、身体を僅かに揺すったかと思えぱ、値踏みでもするかのような視線をこちらへ向けてくる。
「この顔をお忘れと?」
「疑わしいと申しているのだ。フォンテインを名乗る輩はこれまでに5度現れた。どいつもこいつも、ソランを救う為だと嘯いて金を無心してくるばかり。その中でも貴様のなんと薄汚れたことよ」
「何を仰るか! 我こそがフォンテイン! 聖下の計らいにより、ソランより女官と2人、カルストルグまで参ったのですよ!」
顔がカッと熱くなる。
金の無心などとんでもない。身なりがどれほど汚れ朽ちようとも、この心は錦紗の衣を纏い、ホルマンの嗄れた手を取って挨拶を交わした日より、何1つ変わっていないのだ。
しかし、勢い勇んで立ち上がりかけた我にも、老領主はヒラヒラと手を振ってため息を吐くだけだった。
「あー、よいよい。お主が本物か偽物かなど、最早どちらでもよいのだ」
「どちらでも……とは?」
込み上げる感情を、何とか喉元に押さえ込む。それでもなお、睨みつけるように問いかければ、フン、と玉座の上で鼻が鳴った。
「オン・ダ・ノーラは滅びた。ファゾルト聖下の首は刎ねられ、神の国は既に地図から消えたのだ。故にソランがどうであろうとも、このカルストルグにら関係の無いことよ」
「なっ、何を仰る! 帝国はなおも迫り、神の地を踏み荒らしているのですよ! それを関係がないなどと!」
「やかましい小娘だな。私は忙しいのだ、1度しか言わんからよく聞いておけ」
怒気、あるいは呆れか。ホルマンはゆっくり立ち上がると、酷く冷たい目でこちらを見下ろした。
「国が滅びた以上、この町こそ我が国なのだ。生き残るためなら、どんな国とも交渉する。金も払えば貢物をも送る。エカルラトがご覧になっていようとも、かの神は見守るのみ。我らを守りも咎めもなされまい」
「き、貴様……オン・ダ・ノーラの臣であったにもかかわらず、祖国はおろか神をも愚弄するか! 恥を知れ!」
「無礼はどちらだ町娘。最早ここはお主の言う国ではない。これ以上キャンキャンとしょうもないことを捲し立てるなら、この場で斬り捨ててやってもよいが?」
「こ、の……ッ!」
誰に物を申すのか。そっ首叩き落としてやると言うべきは、本来自分であったはず。
しかし、我も子どもではない。この余りに非力な手が、ホルマンに届かないことは分かっている。
行場を失った感情はぐるぐると渦を巻き、回る度また怒りとなって頭を焼いていく。それでも、老翁の冷めきった瞳には、罵倒の言葉すら喉の奥から出てこなかった。
美しい衣の袖が、眼前で揺れる。それは終わりの合図。
「せめてもの情けだ。その名は聞かなかったことにしてやる。疾く立ち去るがいい。拾った命を無駄にしたくなければ、二度とワシの前に現れるでないぞ」
広間の奥へと消えていく背中に、私は拳を握りこむばかり。
領主が去れと言った以上、屋敷に留まることも出来はしない。宿も取らぬまま、外に待たせてあった女官と傭兵たちの前に、我は怒りを抑えられないまま出ていくしか無かった。
「姫様、お帰りなさいませ。如何でしたか?」
「ここはダメだ! あの不信心者め、同じ血が流れていながら、信仰も名誉も信義すらあったものではない!」
名を聞かなかったことに、とホルマンは言った。それはつまり、我が我であると知ってなお、分からぬふりをしようという意味では無いか。
アレは自らの保身のために、神国の旗を捨て去った。窮地は人の本性を暴くと言うが、よもや血族すらもが信仰を手放そうとは。
我の震える肩に、女官は怯えた様子で体を縮こまらせる。
「で、では……この先はどのように?」
「更に南の、アシューロへ向かう他にない。あの町は信仰に篤いはずだからな」
「む、無茶ですよ姫様。もう路銀も残っておりませんのに。彼らへの支払いだって……」
「最悪、傭兵は契約を打ち切っていい。売れるものは全て売れ。我らには時間が無いのだ」
「姫様……」
我が手の力無さの、なんと恨めしいことか。
信仰の他、誰に信を置き、何を頼れば良いのかすら、今はわからない。
結局その日、我と女官は獣商人に頼み込んで、獣舎を宿とするした。この情勢では、屋根のある場所を貸して貰えただけでも、ありがたいと思うべきだろう。
しかし、積み上げられたコゾ藁の束は硬く、吹き込む風の冷たい環境など、神殿暮らしを続けていた身が慣れていようはずもない。
安宿以上に中々寝付けず、それでも眠らねばと瞼を落とし黙していれば、ゴソゴソと物音が聞こえた気がした。
体を固め、その一方で耳をそばだてる。盗賊の類ならば、この場で殴り倒してやろうと思ったが、遠ざかる足音からはどうにも違うらしい。
薄目をチラと、肩越しに流す。そこには物音を立てぬよう気を使いながら、獣舎を出てゆく女官の背があった。
――あやつ、かような時間に何処へゆく……?
夜明けには遠く、町は寝静まっている時間。よそ者が下手に動き回れば、それこそ盗人の類と疑われかねない。その程度の事、あの女官ならば分かっているはず。
夜の寒さを思えば、単に厠へ行っただけかもしれない。ただ、寝付けなかったことが原因か。我は妙に気にかかってしまい、そっと女官の影を追うことにした。
緩く吹き付ける風は足音をかき消し、舞う砂塵は気配を紛れさせる。おかげで追うことは難しくなく、加えて彼女の目指す先はどうにも厠でないらしい。
少し離れて後をつけ、気配が止まったのは防壁の一部と同化している崖の傍ら。
松明の炎が伸ばした陰には、2つの人影が伸びていた。
「どうか、どうかお聞き入れくださいまし。最早か弱きこの身に頼れるのは、貴方しか居りませぬ」
「頼る、か。俺たちにも生活ってもんがある。少なくとも、義理やら忠誠なんぞで付き従ってる訳じゃないんだが」
縋るような女官の声に答えたのは、聞き覚えのある低音。
――あれは、傭兵隊長か?
下手に覗き込まなくてよかったと息を吐く。鈍感な彼女はともかくとして、戦慣れしたあの男には、顔を出した瞬間に気付かれるだろう。
だが、何故わざわざこんな夜更けに、我から隠れるようにして彼女は動いたのか。そして、頼るとはどういう意味か。
考えれば考える程に、胸の奥がざわついていく。
「俺だって人間だ。アンタの気持ちはわからなくもない。しかし、何事もタダって訳にはいかねえよ。徒党連中に示しもつかんしな」
「心得ております。故に、故に私は貴方をお呼び致しました」
「……大した覚悟だな。アンタら神殿の連中からすりゃあ、俺たちみてえな傭兵なんざ、教義の上でも下の下だろうに」
金額次第で敵味方を渡り歩き、神に忠誠を誓わぬまま時には砂賊とも成り得る彼らを、我らが軽蔑するのは当然の事。それをまさか、傭兵隊長の方が口にするとは思わなかったが。
我が思っていたよりも、彼は己の立場をわきまえているらしい。
しかし、訝しむ男を前にしてあり得ないことに、女官の影はその膝を折ってみせた。
「逃げるしかなかった私たちに、貴方は応えてくれました。たとえそれがお金の繋がりであっても、召使であるこの身に、下などと申す口はございません」
つい、壁から覗きそうになるのをぐっと堪える。あの女、一体何のつもりかと。
影が肩の上に手を滑らせる。一気に胸のざわめきが大きくなり、その様子には傭兵隊長さえ言葉を失った。
「私から差し出せるものは、これしかございません。どうか、この身をお救い下さいませ」
彼女には最早、迷いなど微塵もなかったのだろう。低い声がふぅとため息をつくと、腕であろう影がゆっくりと伸びてくる。
「わかった。そこまで言われてゴメンナサイじゃ、流石に男が廃る。どの道、あの姫さんを頭にしながらじゃあ、奇跡が続くとも思えんしな。来い」
「あぁ……ありがとうございます。やはり貴方こそ、貴方こそが、私の……」
壁に移る黒い手は重なり合い、そのまま影同士は静かに溶け合っていく。
松明の光の中、何が起きているかは想像したくもなかった。頭の奥が熱くなり、自分の中で大切な何かが砕け散った気さえする。
我は長く付き添った者の中、たった1人すら導くことができないのか。町娘と貶められ、獣と同じように、獲物を取れなくなれば捨てられるだけの運命にあるのか。
最早彼女を追う気力はない。否、追ったところで何もできることなどないだろう。ふらつく身体を引きずって、獣舎へ続く暗がりを歩く。その後は寝心地の悪いコゾ藁に身を伏せって泣けばいいのか。
力の抜けた手から、コロリと何かが零れ落ちる。
「エカルラトの、腕輪……」
両親がそれぞれ1つずつ持っていたそれは、神託を賜ることのできる最も神聖な法具とされたもの。
いつか天に召されるその日まで、二度と会うことが叶わないであろう父母より贈られた、唯一の品。
ギッ、と奥歯が鳴った。
違う。
違う違う。
神国臣民の誰人であれ、我に従う理由はなくとも、聖王聖妃を貶める道理とはならないはず。
そうだ。カラーフラの光を受け、神の民を自認していた者なれば、邪教徒に奪われた聖地を取り戻すのに、生命財産の全てを捧げぬはずがないではないか。
保身に走る背教者共も、聖地を踏み荒らした邪教徒共も、全て神の威光を持って消さねばならない。もう一度、神国と呼ばれる所以を、遍く世界へ知らしめる為に。
たとえ、我1人だけになろうとも。
■
少し体が重い朝。それでも私は変わらず、聖殿下の寝床へ食事を運ぶ。
何より今日は、1つ事を成し遂げられたとホッとしていた。お金がなくなっても、これで暫くは護衛を失う心配をしなくていいのだから。
他にも色々と不安はあるものの、身体1つで聖殿下の未来を拓けたと思えば、身の回りの世話程度しかできない女官としては大手柄。
「聖殿下、朝食の支度ができましたよ」
扉すらない獣舎の柱を静かに叩き、そっと中を覗き込む。
伝えれば喜んで下さるだろうか。安堵してくださるだろうか。そんな気持ちだったが。
「あれ? 聖殿下? どちらにおわします?」
そこに、誠心誠意仕えるべき主の姿はなく、夜の風に冷えたコゾ藁が積み上がっているだけ。
厠だろうか。なら、今の内に髪を梳く準備をしておこうと、私は獣舎の前に小さな椅子を持っていく。
眩しい日差しに目を細め、主を待つ。その聖殿下が、もうこの町に居ないなど、知る由もないままに。
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