第34話 揺らぎ アランside

「…………ふーー」


 ソフィアの部屋を出てアランは深く息をついた。


 それから先程、彼女自身から読んでほしいと言われた四文字を、改めて言葉にする。


「……ソフィア」


 胸の辺りで、じんわりと温かくて、優しい感覚が到来する。

 胸だけではない。


 顔の温度さえも微かに上昇していた。


 その事実に、アランは険しい表情をする。


「…………」


 

 今まで名前で呼ばなかったのは、意図的だった。


名前が持つ力は強大だ。

 人と人との距離を縮める手段の中でも、名前で呼び合うというのは強い部類に入る。


 故に、ソフィアと必要以上に距離を詰めないよう、呼称を“君”としていた。


 していたが、ああやって泣きそうな顔で懇願されると……断る事など出来なかった。


そもそもの話。


「予想以上に、強くなってきているな……」


 ソフィアに対する思い入れの強さが、である。

 

 ソフィアの一挙動に、ひとつひとつの言葉に、どんどん惹かれていっている自分がいる。

 まだ彼女が来て二日しか経っていないのに、だ。


 人間の寿命なんぞ比べ物にならないほど長い時を過ごしてきたが、これほどまでに自分の感情が乱されるのは、アランにとって初めてのことで。


 戸惑いを隠せない、というのが正直なところだった。


「これは……よくない兆候か」


 アランが自分自身に課した掟。


 “ソフィアを、本気で好きになってはならない”


 その掟が、早くも揺らごうとしている。


 それはアラン自身、予想外のこと。

 何百年という時をかけて強固なものになったはずの己の理性が、ソフィアを前にするとひとたびスポンジケーキのような柔らかさになってしまうなど……。



 ──感情を持っている以上、好きという気持ちはそう簡単に抑えられるものじゃないのよ。薄々気づいているでしょう?



 脳裏に過ぎる、シエルの言葉。

 それを追い出すように頭を掻いた。


 今はもう、これ以上考えないようにした。 

 

「気を引き締めねば」


 自分に言い聞かせるように言った、その時。


「何やらお疲れのようですね、アラン様」


 不意にかけられた声に顔を上げる。


 黒いスーツを着こなした、ブロンドヘアの男。

 額の上から伸びた鋭い一本ツノ、腰にはふさふさな尻尾。


「モーリス」

「次のご予定がございますので、お迎えにあがりました」

 

 そう言って、ユニコーンのモーリスは恭しく頭を下げた。

 

 思い返せば、彼がアランの秘書として仕えてからも長い時間が経つ。

 それこそ、人間の寿命ひとりぶんくらいには。


「…………」


 少し考えてから、アランは口を開く。


「モーリス、お前に仕事を頼みたい」

「なんなりと」

「ソフィアに関する事なのだが……」


 アランが口にした仕事の内容に、モーリスはどこか楽しげな表情を浮かべる。


「かしこまりました。お任せくださいませ」

「頼む」


 阿吽の呼吸のようなやりとりに、アランは小さく頷くのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る