Three Days of Escape
天木 るい
第1話
8月13日。
俺は昨晩、半年ぶりに実家に帰省した。
五十代後半の両親は半年前に見た時より元気そうで、二つ年下の妹と談笑している。
自室に向かえば、母親が掃除したのかキレイに片付けられていた。窓の外には子供の頃よく遊んだ公園が見える。
……ズリ、……ズリ。
不意に聞こえたのは何かを引きずるような音だった。
…ズリ、…ズリ。
その音は段々と大きくなる。
ズリ、ズリ、ズリ、ズリ。
近づいてきている。そのことに気が付いたのは、その音が大分大きくなってからだった。家族の様子を見るに、この音が聞こえているのは俺だけの様だ。音の発生源を探るように、俺は家を出る。
「何の音なんだ……?」
幸か不幸か玄関を出てすぐ、俺はその音の発生源を目にすることができた。
二メートル程の大きさのドロドロとした黒っぽいスライムのような体。体と同じく、ドロドロとした人の腕のようなものが付いている。先ほどの音の正体は、這いずるように進む奴が体を引きずる音だったのだ。
初めて見るおぞましいナニカ。それに驚いて硬直していると、奴がこちらを見た気がした。
もちろん奴に目はない。だが、ゾクリと体に怖気が走る。
(逃げなければ)
唐突に感じたその感覚に従い、俺は走りだした。走って、走って、走って、家の近くの河川敷当たりまで走ったところで、ふと振り返る。
だが俺はすぐにその判断を後悔した。
家の近くではゆっくりと這いずっていた奴が、猛スピードで追いかけてきていたのだ。
「うげぇ!」
俺は再び走り出す。走って、走って、曲がって、曲がって、走って、曲がってと奴を撒くように走る。
だが、奴は迷うことなく俺を追ってきた。
どれほど走っただろうか、俺は家の近くまで戻ってきてしまっているのに気が付いた。相変わらず奴はついてきている。
このまま家に帰るのは得策ではない。そう判断して家の前を通り過ぎる。そして、公園へ続く道に差し掛かった時だった。
「こっちじゃ、はよう来い」
それは公園の中にいた一人の爺さんの声。昔、よく公園でゲートボールをしていた人だ。
「ほら、はようせい。奴に喰われるぞ」
迷っている暇はなかった。俺は公園の中に入り、爺さんに連れられるがまま公園の奥へ進む。
化物も公園に入ってきたが、急にスピードを落とし、ウロウロし始めた。俺を探しているのだろう。だが俺のいる方へはやってこない。しばらくして諦めたのか、奴は公園から出ていった。
「行った様じゃな」
「あ、ありがとうございます」
「ふむ。これくらい構わんよ。して、その様子じゃとおぬしは奴のことを何も知らぬようじゃな」
「え、あ、はい。というか何ですかアレは」
どうやら、この爺さんは奴のことをよく知っているようだった。
「あれは、
「魂喰らい……」
「奴は匂いに敏感でな…。ほら、目がないじゃろ?だから走って逃げても追いかけてくる」
先ほど撒けなかった理由がようやくわかった。警察犬が匂いで犯人を追跡するように、逃げた俺を追跡していたのだ。
爺さん曰く、奴に魂を喰われることは心の死。つまり、精神的な死だという。
「あれは、お盆の時期に現れるのじゃ。若い魂を喰らおうとしてな」
爺さんたちはそれなりに月日を重ねているため、奴は喰おうとしない。いや、食えないらしい。魂に内包されるエネルギーがどうのこうの言っていたが、爺さんもいまいちわかっていないそうだ。魂喰らいのことも昔、知り合いに聞いて多少は知っているという程度。
だが、重要なのはお盆の時期に現れるという点だ。
「じゃあ、あと二日もすれば…!」
「ああ、居なくなる。どこか行くようじゃ」
あと二日。あと二日逃げ切ればひとまず安泰だ。
「あ、でも、匂いで追ってくるなら何でさっき奴は…」
「獲物であるお前さんを見失ったのは、ここが匂いであふれているからじゃ。ワシらがおったしの」
少し離れた場所で話し込んでいる爺さん、婆さん方。公園で遊ぶ親子。先ほどその間をすり抜けるように歩いてきたのは、俺の匂いを紛らわせるためだったようだ。
つまり、匂いを追跡できないように逃走すればいい。
かくして、俺の三日間の逃走劇が幕を開けた。
***
とりあえず、当面の危機は去ったので一度帰宅した俺は、自室で爺さんから聞いた魂喰らいの特徴について反芻していた。
魂喰らいは、獲物を追いかけている時以外はゆっくり移動している。なので、接近は音でわかる。
見た目通り体は柔らかく、小さな隙間から部屋などに入って来れるので、接近してきたら、急いで外へ逃げる必要がある。
奴は家とは反対方向に向かって移動して行ったので、しばらくエンカウントしないと思いたい。しかし、魂喰らいは先ほど出会った奴だけではない。爺さん曰く魂喰らいは行動範囲が重なることも間々あり、運が悪ければ数体近くにいる可能性がある。
しかし、夜になっても魂喰らいが近くにやって来なかった。深夜零時も近くなると、両親も妹も就寝し、俺は一人逃げる際の行動をできうる限りシミュレートしていた。
そして、8月14日。
気が付けば三時を回り、もう少しで夜が明ける。
「なんだ。結局来なかったか」
なんて、俺が油断していると、……ズリ、……ズリ。
魂喰らいが這いずる音が聞こえてきた。
…ズリ、…ズリ。
急いで家を出れば、魂喰らいが家から少し先の角のあたりを這いずっていた。
夜明け前のうす暗い町並みは全く見えないというわけでもないが、思った以上に魂喰らいの姿を見えにくくさせた。
魂喰らいはすぐに俺に気が付いた。俺は奴が来た方向とは逆方向に向かって走り出した。後ろを見れば付いてきているのが見える。俺の目的は奴を家から離れた場所で撒くことだ。
取り合えず真っすぐ走る。下手に入り組んだ場所を走るよりは大通りとかを真っすぐのほうが俺も走りやすい。
大通りを抜け、河川敷を走り、それなりの距離を走っただろうか。時々振り返れば、魂喰らいはそこそこの距離を保ってはいるが、付いてきていた。
「この辺でいいだろ…」
すでに、辺りは明るくなっているが、人通りはまだないに等しい。俺は近くの河川敷の階段を駆け上り、フィールドを町中へ移す。
昨日の時点で俺は魂喰らいの欠点に気が付いていた。
そう、体の構造上急なカーブができないことだ。そしてこの欠点から一つの推測を立てた。これがうまくいけば、魂喰らいを撒くことができるだろう。
町を駆け抜けながら、間違えて追いかけてくる魂喰らいと鉢合わせないように角を曲がっていく。右、左、右、右、左………。
一度通過した道は通らないように何度も曲がる。なるべく直進しない道を選びながら、元居た河川敷近くに出れば後ろにはもう魂喰らいの姿はなかった。
「やった!うまくいった!」
思わずガッツポーズをとるほど、作戦がうまくいったことに俺は喜びを感じた。
この作戦は何度も道を曲がることで、急に方向転換できない魂喰らいと俺との距離を徐々に開かせる作戦だった。
魂喰らいは道を曲がるときに少しだが減速する。昨日も河川敷で追われていた時よりも、町中で追われていた時の方が若干距離があった。
そして、昨日公園で聞いた匂いの話。魂喰らいがどれだけ嗅覚がいいかはわからないが、あの公園にいた人数はそう多くない。にもかかわらず、匂いが紛れただけで諦めていった様子から、いつまでも捉えられない獲物を追いかけまわすようなことはしないだろうと考えた。奴の目的はあくまでも魂を喰らうこと。一つの獲物にばかり執着しては食事にありつけない。
そういう、本能的な部分も考慮に入れた作戦だった。
(成功するかは五分五分だったけど、失敗しても追いつかれることはなさそうな作戦を立てたし…)
逃げて来た時とは違い、河川敷を歩く。朝のジョギングをしている人、犬の散歩をしている人等々、段々人とすれ違う回数が増えてきた。
(あまりのんびりしていたら家に帰りつくのが遅くなる)
***
それは、唐突のエンカウント。
家まであと半分という距離まできたところで、少し先に魂喰らいがいることに気がついた。
「え…?」
なぜこんな所に、と思ったがおそらくさきほどの個体とは別の個体だろう。
遠くもなく、近くもない微妙な距離。ここで引き返すと、さっきまで追いかけられていた個体とかち合う可能性がある。
(やばい、やばい!!)
幸い、あいつはまだ俺の存在に気がついていない。
だが、気がつくのは時間の問題だ。
俺は咄嗟にあたりを見回した。
右に河川敷、左は少し離れた所に木が生えている。
(木!)
迷っている時間はない。俺はその木に登った。そうすれば、登るには少し高いブロック塀の上へ降りることができる。
そこから公民館らしき公共施設の敷地に降り立った。
魂喰らいの這いずる音が近づいてきている。幸い気付かれる前に逃亡できたみたいだ。そっと公民館の敷地から出て、魂喰らいの様子をうかがうために背後に回り込む。
奴は俺が登った木の前にいた。木の周りをうろついきながら、手?で木をベタベタ触っている。木に登ることはできないのだろう、しばらくすると諦めてどこかへ行ってしまった。
「危なかった…。木の上にいたら捕まってた可能性もあったし、早めにあいつの存在に気がついてよかった。多分、俺じゃあ接近されたら逃げられないかも………」
先ほどの様子から、恐らく魂喰らいの体は多少の伸縮性があると思われた。木を触っているとき手が木の枝まで届いていたからだ。見た目的にはギリギリあいつの手は枝に触れられる程度で、枝を掴めるほど長くはなかったから。
残りの帰り道は唐突に魂喰らいとエンカウントしないように、なるべく見通しの良い道を通った。
家の近くの公園まで帰ってくれば、魂喰らいのことを教えてくれた爺さんがいるのが見えた。爺さんは俺に気が付いて手を振ってくれたので、俺も手を振り返す。
ようやくたどり着いた実家に、俺は安堵の息を吐く。
帰ってくることができた。それがとても嬉しかったのだ。
***
8月15日。
お盆の最終日。奴らとの鬼ごっこも今日で終わり。
昨日はあの後、魂喰らいが現れることはなかった。助けてくれた爺さんに礼を言いに公園に行ったが、今日は誰もいなかった。その帰り、少し魂喰らいから逃げまわったが二日間の経験から短時間で撒くことができた。
そして夕方。
両親が玄関で送り火を焚く。両親の隣で妹もぼんやりと送り火を眺めている。俺は両親と妹の向かい側に立ちその様を見ていた。
何とも言えない感傷が、俺の胸に湧き上がる。
魂喰らいの一件であわただしいお盆だった。だが、久しぶりに家族と会うことができた喜びと、帰らねばならない寂しさ。
(次は、もう少しゆっくり過ごしたいな)
パチ、パチ。
送り火の火が小さく爆ぜる。
パチ、パチ。パチ、パチ。
その音を聞きながら、俺はそっと目を閉じた。
―END―
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