第31話

 山瀬やませさんとの待ち合わせ時刻よりも早く着くよう家を出た。

 指定された公園入口前のコンビニ。もちろんここで待つつもりなどない。

 すぐに公園内に足を踏み入れた。

 きっとこの公園に二人はいる。


 日が暮れかけた公園は人影がほとんどなかった。

 夕日の赤さは空の下のほうにかすかに見えるだけで、頭上に広がる空の大半は奥深い濃紺と真っ黒な雲で覆い尽くされている。

 そのせいもあって、昼間ならば自然豊かに見える木々もうっそうとした不気味さがあった。

 ぎりぎり人を判別できるくらいの明るさは残っていた。が、公園内はまもなく闇に包まれてしまうだろうというくらいに暗かった。


 目を凝らして辺りを見回しながら歩いた。

 山瀬やませさんは見当たらない。

 うろうろと範囲を広げなら周囲を歩く。

 時間が経つほどに、どんどん暗闇が落ちてくる。視界が閉ざされていく。

 電灯の光が届かない場所は、既に真っ暗になっている。


 そのような中、高周波がかすかに耳に届いた。

 市街地の雑踏や車の騒音とは明らかに違う音。

 長年オーディオを嗜好としてきたから音の聞き分けにはそれなりの自信がある。

 耳を澄まし、音の出所を探る。

 間違いなく聞こえてくる。広がる芝生のほうから。

 ある程度、場所の予想をつけて急ぎその場所に向かった。


 両脇に植樹されている木々が頭上まで延び、その下はトンネルのようになっていた。包み込む闇を振り払うように足早に進んでいく。

 すると高周波の元となっている場所がわかった。

 遊歩道から20mほどはずれた芝生の上。

 木陰の下に人影が二つあった。


「――そんなつもりないって!」


 聞き間違うはずがなかった。

 山瀬やませさんの声。

 もう一人。背の高い人物は何かを喋っていたが、低い音だったこともありそちらは何を言っているのかまでは聞き取れない。

 影の動きを見る限り、どうやら山瀬やませさんの手を掴み、逃がさないようにしているように見えた。

 

「離して――っ」

 

 悲痛の叫び声が聞こえた事で、僕は自然と小走り気味に動き出す。

 芝の上をがさがさと音を立てて近づいていく。当然向こうも僕の存在に気付いた。

 背の高い大きな人物――やはりユウヤ君だ。

 彼は僕を認めると、以前にホテル行きを阻止した時と同じで、戸惑いと驚きを混ぜたような表情を見せた。

 だが以前とは違った。その直後からみるみるうちに顔色が変化し、目をひん剥いて睨みつけてきた。


「なんで時枝ときえだが……っ!!」

時枝ときえだくん……?」


 二人は同時に僕の名を呼んだ。

 ユウヤくんは山瀬やませさんが僕を呼んだのだと思い込んだに違いない。

 彼女の腕をつかんでぐいと引き寄せる。


山瀬やませ、お前かっ!」


 激しく怒鳴りつけた。

 そして乱暴にほうる。


「きゃっ!」


 暴力的に投げ出された山瀬やませさんは、足をもつれさせて芝生に激しく体を打ち付ける。

 ユウヤ君はそんな彼女を意にも介さず、僕に近寄ってくる。

 睨みつけながら。僕の前に来る。ピタリと動きが止まった。


 ――ドスッ!


 予兆なく、いきなり。

 腹部に強烈な痛みが走った。声を出すことすらできなかった。


「……ぁぉご……」


 体をくの字に曲げ腹を押さえて座り込む。瞬間ユウヤ君の脚が横目に見えた。

 バンッ!

 気づい時には宙に投げ出されていた。

 暗さと攻撃速度の速さに何をされたのかすらわからない。

 ただ激しい痛みが腕に伝わってきただけだ。


 バランスを取ろうと反射的に体が反応したことが災いした。宙に放り出された勢いが強すぎたのだ。

 つんのめる様にごろんごろんと芝生に体を打ちつけ転げまわる。

 そこにユウヤ君が近寄ってくる。仁王立つ。


「また……! また……! テメェかぁっ! 時枝ときえだっ!!」


 吠えるように怒鳴る。


「なんなんだよ! いったいなんだんだテメェは! 俺の前にいつもいつもフラフラと湧き出してきやがって! 山瀬やませは俺の女になる!! お前は山瀬やませに守られて平穏に暮らす!! そんな上出来な世界が待ってるってのに、なんでお前らは理解できないんだ!」


 言いながら。

 ドスッ! ドスッ! ドスッ!

 靴のつま先で腹をえぐるように容赦なく蹴りを入れてくる。

 一撃一撃が体の髄に響く痛みを伴って突き刺さる。呼吸を奪っていく。

 肺が動きを止めたかと思うほどに体が酸素を吸い込むことを拒否する。

 苦痛に顔を歪めながら見上げた。

 そこには大野おおの裕也ゆうやの眼があった。

 狂気の眼差しが。


 他者を踏みにじり、その上に立つことを当たり前とする眼。

 思い通りにならない僕や山瀬やませさんを、激しい暴力で痛めつけ。

 力で自身の欲求を満すことに全く躊躇がない眼。


「や、やめ……て……。大野く……やめ……やめてっ……!」


 ちぎれそうに叫ぶ声が聞こえた。

 蹴られ続けながら声の方を見る。きっと肩を痛めたのだろう。手で押さえながら、芝の上に半身を寝かせた山瀬やませさんがいた。

 えぐり続ける蹴りが止んだ。


山瀬やませ……。山瀬やませよぉ……? 元はお前がいけないんだろ? なぁ、お前がとっとと応じてりゃ済んだ話だろ? なんで俺を責めるんだよ……」


 感情のない淡々とした冷たい声音。

 大野おおの裕也ゆうやはくるりと山瀬やませさんのほうに身を翻す。

 一歩、また一歩と彼女に近づいていく。


 芝の上からしっかりと体を起こすことのできない山瀬やませさん。

 その前まで行くと、山瀬やませさんの顔と自分の顔の高さを合わせるように、ゆっくりとしゃがみこんだ。


「わかった。わかったよ。山瀬やませ


 優しい声音だった。彼はゆっくりと手を伸ばした。

 その手で山瀬やませさんの胸を鷲掴む。

 もう片方の手を肩に掛けて彼女の体を押し倒す。


「……っえ」


 驚きと恐怖の入り混じった声が漏れた。


「もういいや。とりあえず……やるか」

 

 大野おおの裕也ゆうやはそれがさも当たり前であるかのような口調で言った。彼女の脚と脚の間に体を滑り込ませる。

 闇が一層濃くなった。

 山瀬やませさんは手足をばたばたと動かし大野おおの裕也ゆうやを引き離そうと抵抗していた。

 しかし体格が違いすぎた。

 山瀬やませさんの行動は、まったくもって意味をなさない。

 大野おおの裕也ゆうやは自身の体を覆いかぶせ彼女を逃さない。片方の手で口を押さえ、もう片方はぬらぬらと彼女の体の上を動いていた。


「……んっ! うあっ! はっ! やっ! やだっ……やだってっ!」


 大野おおの裕也ゆうやは彼女の体を存分にまさぐっていた。

 山瀬やませさんは拒絶と悲痛の声を発するも、それはなんともか細く、小さく、闇に消えていくだけだった。


 公園で。無理やり。僕が近くにいるのに。

 この男は一体どういう価値観。どのような道徳心を持って生きているんだ。

 なんとかしなければと、まともに呼吸ができない体を動かしもがいた。

 だが動かすたびに蹴りこまれた腹部と胸に強烈な痛みが走る。体が動かない。

 肋骨がいくつか折れているかもしれない。そう思えるほどの痛み。


「……やめっ! んっ! はっ! やだって……! や……やだ……ぁっ!!」


 激しく抵抗する山瀬やませさんの声が届く。

 直後――。


 パァン。 


 歯切れのよい打撃音が闇の中に響いた。


「うるせぇって。黙れ」


 大野おおの裕也ゆうやにとって、山瀬やませさんはあくまで欲望の対象に過ぎなかった。

 彼女の尊厳など。意思など。彼に関係はない。

 ただ自身の言う通りに従う。

 それだけを望んでいた。

 

 この男は獣と同じだった。


「……おね……がい……大野……く……ん……」


 擦り切れて。掠れて。震えて。

 山瀬やませさんの最後の懇願。

 

「……うっ……ううっ……」


 そして嗚咽しか聞こえなくなった。


 言うことを聞かない自身の体を恨んだ。

 闇の中で揉み合う二人の影を、目で追うことしかできなかった。

 悔しさで涙が溢れでる。泣いてる場合じゃないのに。

 なにしてんだよ僕は……。

 このままじゃ。このままじゃ。山瀬やませさんが。

 

 立ち上がれないならば。体をごろり転がし芝生の上を転がった。

 何でも構わなかった。這ってでも。無様な格好だとしても。山瀬やませさんの元にいかなければ。

 後先なんて考えるな。今、体が動きさすればそれだけでいい。


 少しずつ。ほんの少しずつ僕は二人に近づいた。

 肩下までシャツを剥かれた山瀬さんがいた。

 素肌が露になった彼女はそれでも大野の体を引き剥がそうとしていた。

 しかしそんなものは何の意味もなしていなかった。

 いくら繰り返しても大野おおの裕也ゆうやの力には遠く及ばない。

 簡単に押さえつけられ。暴行に屈し。蹂躙されていく。


 大野おおの裕也ゆうやは無理やりに唇を奪おうとした。

 山瀬やませさんは顔を背けて避ける。

 いやだ! いやだ! と呻く彼女が目の前にいる。

 

 その場所まであと少し。

 もう少しで山瀬やませさんに手が届くのに。


 いくら暗くとも気づかれないわけがなかった。


「マジかよ。うっざ」


 這いつくばる僕を横目ではっきりと確認した大野おおの裕也ゆうや

 手を伸ばしてくると髪を掴まれた。首が引っこ抜けるんじゃないかという程の力で、荒々しく引き上げる。

 引き寄せられ思い切り側頭部を殴られた。痛みよりも先に衝撃が脳を貫く。

 視界がぐわんと歪み目の前が大きく揺れた。

 掴んだ髪をさらにひっぱり上げて思い切り振り下ろす。

 ばんっ。

 芝生に頭を打ちつけた。

 きゃあ!

 一瞬意識が飛んだ。悲鳴がかすかに聞こえた。

 

「もう一発」


 朦朧とする意識の中、また髪を引っ張られた時だった。

 頭上を流れるようにすっと影が通りすぎた。その影は僕の髪を引っ張る腕をがしりと掴まえる。

 口惜しさと痛みで無意識的に呻きながらも、僕はその影を見上げた。

 

「裕也くん。これはさすがにダメだろ」


 ほんの短い言葉だったけれども、いつものクールな彼とは思えないほど、激しい憤りを乗せた声音だった。


 修羅場を経験したことのある人間のみが身に着けることのできる、そんな迫力を感じさせる堂々たる落ち着いた声。


「……ヒサシ君」


 僕が掛けた『保険』が来てくれた。

 彼は労うように、優しい視線を僕に向ける。

 凛々しく立つその姿は何よりも頼もしかった。

 

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