第14話
玄関には既にお母さんの靴があった。
いつもより母が早く帰ってきてしまったようだ。嫌な予感がする。
その予感はすぐに的中した。
キッチンから顔を出した母は勢いよく小言を飛ばす。
『学生がこんな時間まで外で遊んでいるとは何事だ!』
というお決まりのアレだ。
妹はリビングのソファに寄りかかりながら、妙に真顔で僕の方を見ていた。
先ほど僕の泣き顔を見たいせいだろう。
そんな妹は母に対して実にうまく立ち回っている。
毎日のように学校帰りに遊びに行っているはずなのに、なんだかんだ母より先に家に帰ってくる。
最近、母は精神的に不安定で気分の浮き沈みが激しい。
だから余計な波風を立てないよう表面だけ取り繕っているのだ。
もちろん僕もそんなことは知っているから小言に対していちいち歯向かったりはしない。
そんなことをしたら余計にヒートアップしてしまう。
だから。素直に、
「ごめん。友達が近くを通ったみたいで、ちょっと会ってた」
噓を交えて謝罪した。
そう言った方が学校生活がうまく行ってるように聞こえるし、母が安心するだろうという計算だった。
それは案の定の結果をもたらした。
僕はそれほどのお咎めを受けることなく食事を済ますことができた。
シャワーを浴びた後、ベッドに寝ころんでオーディオを小さな音で流した。
曲を適当に聞きながら、山瀬さんの態度がどこか釈然としなかったことを思い出していた。
『わかった。じゃ、いい』
あの言い方。何か意味を含んでいるようで、どうにも気になって仕方がない。
それにあれほどおいしそうに食べていたパフェみたいな飲み物もゴミ箱に捨ててしまっていた。
どうにも答えがわからずもんもんとしながら目をつむって考えていた。その時だった。
コンコン。
部屋の扉がノックされた。
「お兄ちゃん」
直後、返事をする間もなくドアの隙間から妹の顔がぬっと現われた。
ベッドに寝転んだまま顔だけをドアに向ける。
リモコンに手を伸ばし流していた音楽を止めた。
自然と大きなため息が漏れた。
妹がなんとも心配そうな表情をしていたからだ。
さきほど家を飛び出した僕のことを気遣っているのかもしれないが、兄としてはそういうのは恥ずかしいし、触れて欲しくない。
それに、もう一つ。
どうしてもお前には言っておかねばなるまい。
「お前さぁ、ノックの意味知ってる?」
「ん? 意味って?」
はてな? と頭の上に書いてある。
不思議そうに僕を見ている。
そんな顔を見たら、大きなため息が漏れてしまう。
「はぁ。ノックするっていうのは『入っていいですか?』って聞いてるってことだろ。返事も待たずにドア開けちゃダメだろ」
「ああ、なるほど。言われてみればそうかも」
妹は、ぽんと手を叩いた。
「そうかも、じゃない」
「へへへ~。ごめんごめん」
返事が軽い。
こいつ、わかってないな。
「……ったくお前の脳内はどうなってんだよ」
「ま、それはいいじゃん。で、大丈夫? さっきなんか……」
心配の言葉を掛けてくれた妹に、僕はかぶせるように言う。
「別になんでもない。気にしなくていい」
「……そう? 雰囲気なんかやばそうだったから」
「大丈夫だ。ありがと」
実際は何も大丈夫ではないが、妹に心配をかけるわけにもいかず一応そう答えた。
妹は「ならいいけど」と小さく頷いた。すると、
「でさ、ちょっと聞きたいことあるんだけど、いい?」
今度は口調を変え、はっきりとした調子だった。
そしてやはりだ。
僕の返事など待たずに自分の話しを始める。
この強引さ。妹が僕の部屋に来たのは、こちらが本題なのだと理解した。
「今日さぁ。学校帰りに友達と遊んでたら、お兄ちゃんと同んなじ制服着ている人に助けてもらったんだけど、何か知ってるかなあって」
僕に対しては自分の言いたいことを遠慮なく話す。
これは母似だ。
こういう女と付き合ったら大変そうだなぁ、お父さんの気持ちわかるなぁと思いながら、
「なに? なんかあったのか?」
「今日ね。大学生っぽい人たちにナンパされたんだけどさ」
「は、はあっ!? お前がナンパ!?」
無意識でがばりと飛び起きていた。
当然だが、兄としては全く異性的な魅力は感じない妹だが、たぶんそれなりに普通の可愛さはある、と思う。
それに見た目も
だが見ず知らずの男に声を掛けられている、つまりナンパされることがあるなんて、考えたことすらなかった。
「えっ……? 何驚いてんの? そんなのちょこちょこあるよ」
「べ、べつに驚いてなんてないけど……な。そう……か……そうなのか……。んんっ。お前危ない目にあったりしてないだろうな……?」
咳払い一つ。兄としての威厳を保つべく冷静を装う。が、
「うわぁ……ナンパくらいでそんなに警戒するなんて……。お兄ちゃんピュアすぎででしょ……」
「いや、違うぞ。お前が男っていう生き物を知らなすぎるんだ。いいか男ってのは、常にいやらしい事ばかりを考えていて、女子を見れば……」
「もう! 説教とかマジいらないって! ほんとお兄ちゃんって理屈っぽいよね!」
むぐぅ……。それをいわれると辛い……。
お父さんとお母さんも似たようなやり取りをしていたのを思い出す。
論理的に考えようとする父。
自分の感情に任せて物を言う母。
自分の間違いを認めたくない母は、追い詰められるといつも言っていた。
『ほんとあなたって理屈ばっかり。私のこと何もわかってない』
そこから始まる母の感情論に、最終的には毎回父が折れる羽目になる。
論理が通用しない上に感情論で語る女性に対して、男は立ち向かう術がないということを父と母をみて僕は学んだ。
僕と
「でね。ナンパしてきた奴らがしつこくてさ。ちょっと困ってたんだよ」
「ほらみろ。言わんこっちゃない……」
「『ちょっとしつこくない?』って友達と話してたら、ナンパしてきたヤツがいきなり私の手を掴んできて、さすがに焦って抵抗したんだ」
「おまっ……! 危ない目にあってんじゃん! 変な事されたりしてないかっ!?」
「もう! 心配しすぎだって! 助けてもらったっていったじゃん!」
普段は小憎たらしくて生意気で可愛げのない妹だが、こういう話を聞いてしまうと兄としてはさすがに心配になってしまう。
「そしたらさ、お兄ちゃんと同じ制服着ている人が間に入ってくれて『この子ら困ってるだろ。やめてやれよ』っていって助けてくれたんだよ。超かっこよかった」
「おお、よかった……いや、よかったのか? そもそもお前がそんな奴らに声をかけられるような隙をみせてるからだろ。大体スカートの短さだってな……」
「……うわぁ。ほんとお父さんみたい……」
若干引き気味に僕を見る
妹は決して父と仲が悪かったわけではないが、やはり母の血を強く受け継いでいることは間違いない。
「今じゃ僕がお前のお父さんみたいなもんだろ。そりゃ心配するさ。でも、凄いなそいつ。大学生に立ち向かうなんて。ケンカになったりしなかったのか?」
「うん。やばそうな雰囲気になった。だから私『これ以上しつこくしたら大声出すから!』って叫んじゃった。そしたらナンパしてきたやつら逃げてったよ。あはは! 超おもしろかった」
「……いや、笑えないけどな……」
「でさ、ちゃんとお礼言おうと思ったんだけど、その人『気を付けて』って言ってそのまま行っちゃったんだよねぇ……」
「イケメンだな……」
「うん。お兄ちゃんと同じ制服着ているのにね。全然違った。顔も超かっこよかったし。ヤバい」
あれ? なんかディスられてない? その比較必要だった?
「……でね。これなんだけど」
そこには後ろ姿の二人組が映っていた。
「へっ!? お前! なに勝手に写真撮ってんだよ!?」
「いいじゃん、写真くらい。急いで撮ったからこれしか撮れなかったけど」
「お前! 感覚バグってんのか!?」
きつい言葉を使って注意するも、まったく気にする様子のない
よく言えば行動力があるとも言えるが、その自由奔放さに少し呆れる。
年齢は一つしか違わないのに、僕とは随分と価値観が違う。
呆れつつ
「……あれ……これって……」
「誰かわかる?」
「えっと、どっちの人?」
「えっとね。助けてくれたのは左の人。右の人は後ろにいただけ」
後ろ姿だがはっきりとそれが誰だか分かってしまった。
右にいる大柄の男はユウヤ君だった。
髪型。体型。どう見ても間違いはない。
その姿は忘れたくても忘れられない。
そして左にいるのはヒサシ君だった。
この組み合わせは学校でもよく見ている。
こちらも間違いようがない。
「左は……ヒサシ君だ……」
「え!? うそ! やばっ! お兄ちゃん知ってる人!?」
「うん……二人とも知ってる。右の人はユウヤ君」
「右の人もかっこよかったけど。実際助けてくれたのは左の人。ヒサシさんっていうのかぁ……」
「ヒサシ君がそんなことするなんてな、なんか意外……」
「ねねっ! お兄ちゃん!! ヒサシさんと仲いい!?」
突如として華子の声音が変わった。
トーンが上がり、甘い響きを含む。
それは、女の声だ。
「いや、仲いいかはわからないけど、同じクラスではある……」
同じグループとは言わなかった。
グループ内では仲はいい方だと思うが、それでも今の関係性を考えると、『友達』と胸を張って言える自信がなかったからだ。
「マジ!? やった! ねぇ、私の事話しておいてよ! 会ってお礼したい!」
「会う!? ヒサシ君と!?」
「そう!」
「やだよ! なんで僕がそんなこと言わなきゃいけないんだよ!」
「なんでよ! いいじゃん! 妹の恋、応援してよ!」
「恋っ!? 何言ってんだ!? ヒサシ君と一回しか会ってないんだよな!?」
いぶかしげに見る僕に、
首を右に左に大きく振る。
「お兄ちゃん。あのね。お兄ちゃんみたいに恋愛経験が少ないとわからないだろうけど、恋って時間じゃないんだ。恋って一瞬で落ちるものなの。そう……一瞬なの」
恋愛マスターを自称するどこぞの芸能人かお前は。
そして僕に向き直ると、
「だからお願いね! お兄ちゃんっ!」
両手を合わせ猫なで声を出した。
あまり乗り気にはなれなかったが、これだけテンションが上がっている
ここは一肌脱ぐことを覚悟するしかない。
ヒサシさん……ヒサシさん……。
付き合ったらヒサシ君、って呼ぶのかなぁ。
あ、待って。ヒサシって呼び捨てにしちゃったり……?
『なんだよ、
うふっ、うふふっっ……!
気持ち悪い独り言を言いながら部屋を出ていった。
ばたりと閉まるドアを見つめて思う。
妹よ。
僕の事をちょこちょこディスってくるけど、お前もたいがいだと思うぞ。
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