魔女のひとしずく
shinobu | 偲 凪生
プロローグ
*
こんこん、こんこん。
薄暗くて狭い店内に、優しく扉を叩く音が響いた。
少女は読みかけの小説から顔を上げる。本へ栞をはさんで、カウンターへそっと置いた。
(何年ぶりだろう、店の扉がノックされたのは)
曇りガラスの窓の外は重たい灰色で塗りこめられている。
少女が立ち上がると、烏の濡羽のように完璧な黒色が肩上でさらりと揺れてわずかに煌めいた。
(そもそも『紹介状』がなければ、この店には辿り着けないようにできているけれど)
一歩ずつ進む度に襟付きの黒いワンピースの裾がふわりと広がる。
こんこん、こんこん。
丁寧なノック音は、休符を挟みながら続いている。欄間窓に映るほど客の影は大きい。
少女は扉を内側から開ける。
「いらっしゃいませ」
すると影そのままの大男が立っていた。身長差は、少女の頭三つ分。
「ここは、ヘクセローゼの『魔法具店』で合っているかい?」
低いけれどやわらかさのある大人の声。男は少女を見下ろすと、ふわっと微笑んだ。
砂色の髪は長めで、レモン色のリボンでひとつに束ねられている。曇り空と同じ色をした瞳は三白眼。すっと通った鼻梁、骨ばった輪郭。全体的になかなかの美丈夫である。
彼が身に着けているぱりっとした白いシャツとベージュのスーツは、おそらくオーダーメイド。革靴はきちんと磨かれていて上品な光沢を感じさせる。
体格はスーツの上からでも引き締まっているのが分かり、無駄がない。
ただ、袖から伸びた右手は人間特有の色をしておらず、銀色に輝いていた。
魔力の練り込まれた金属製の腕――つまり、『魔法具』だ。
少女の瞳が静かな熱を帯びる。紅色の熱は、まるで奥に炎が点ったかのようだった。
(なるほど。『おばあさま』のお客さまだわ)
ちらりと見える腕は、恐らく筋肉のように束になった銀色の線で構成されているのだろう。手首はスナップが効くよう球体の先についている。
「えぇ。ようこそ、店主のクレナと申します」
クレナと名乗った少女は、右足を斜めに引き、左ひざを軽く曲げながらスカートをつまんだ。
「よかった。外に灯りがついていないから、閉まっているのかと思った」
やはり体つきからは想像できない柔和な表情で、男は右手を己の胸元に当て、少し頭を下げてみせた。
「僕はマルス・トゥオーノ。退役軍人だ」
元の職業と体格が一致する。
クレナは少し身を引いて、客人へ店内に入るよう促す。
「中へどうぞ、マルスさん。お話はそれから伺います」
「失礼するよ」
ここは、ヘクセローゼの魔法具店。
量産型武器屋とは異なり、品物はまるで美術館のように壁に飾られている。銃、剣、ナイフ、槍。変わったものだと、兜やブーツ。それぞれにキャプションが添えられている。
小さめのシャンデリアや壁にかけられたスズラン型のランプは、ほのかにオレンジ色を湛えていた。
店内奥には先ほどまでクレナが腰かけていたカウンターがあるが、中央にはアンティーク調の猫足カフェテーブルと、同じデザインの椅子が二脚置かれている。
「どうぞおかけください。コーヒーはいかがですか?」
「ありがとう。砂糖とミルクもお願いしていいかな」
「かしこまりました」
マルスは椅子に深く腰かけると、興味深そうに店内を見渡しはじめた。
クレナはマルスを観察しつつ、カウンターの脇にある簡易キッチンに立つ。ケトルで湯を沸かしながら、コーヒーを淹れる準備をはじめる。
狭い店内は、たちまちコーヒーの香りに包まれた。
男は静かに曇り空の瞳だけを動かしていたが、クレナが近寄ると最初と同じように微笑みを浮かべた。
「すごいな。壁一面、魔法具で埋め尽くされている。王都でもこんな店はなかった」
クレナは男の素直な称賛に頭を下げる。コーヒーカップをテーブルに置くと、男の向かいに座った。
「おそれいります。すべて、祖母の作です」
「祖母? そうか、君はヘクセローゼの孫なのか」
マルスが瞬きをして、少しだけ驚いたようにクレナを見た。特に反応することもなく、クレナは尋ねる。
「それで、ご用件は何でしょうか?」
こほん、とマルスは咳払いをしてから、居住まいを正した。
「今日は、君の祖母――ヘクセローゼに会いに来たんだ」
マルスは懐から年代物に見えるペンダントを取り出し、テーブルに置く。表面に装飾の施されたロケットペンダントだ。
(ヘクセローゼの力を感じる。今回の紹介状だ)
促されてクレナが蓋を開けると、そこにはクレナと似ていない、はつらつとした女性の写真がはめられていた。
クレナは目を細める。
(久しぶりにヘクセローゼの顔を見た……。まさかちゃんと写真が入っているなんて)
それから、そっとペンダントを閉じてテーブルに戻す。
「お断りします」
「えっ」
展開は予想外だったようで、マルスが瞳を大きく見開いた。
尋ねられる前にクレナは答えを口にする。
「理由は単純です。ここに祖母がいないからです」
「孫娘の君が店主をしているということは、まぁ、そうなんだろうな」
「そして、祖母の言いつけでわたしはこの店から出ることができません」
「もしかして、君は籠の中の鳥なのかい?」
「否定はしません。外の世界は危険だから、というのが祖母の口癖でした。ご期待に沿えず申し訳ございませんが、どうぞお引き取りください」
マルスは溜め息を吐き出し、天井を見上げた。しばらく何かを考えているようだった。やがて右手で湯気の立ち昇るカップを持ち、コーヒーに口をつける。
「それなら、僕を雇えばいい。腕に自信はある」
白い歯を見せて、マルスは笑った。まるで、ロケットペンダントの、大魔女のように。
今度はクレナが意表を突かれる番だった。
「……はい?」
「最初に退役軍人だと名乗っただろう? こう見えても、つい先週まで軍にいたんだ。退職金もそこそこ貰ったから生活には困らない。だから、軍を辞めたら便利屋になろうと思っていたんだよ」
「あ、あの……?」
困惑するクレナをよそに、マルスの話はどんどん進んでいく。
「そうだ、それがいい。クレナ嬢。君は、僕にとって最初の依頼人だ!」
勢いよく叩かれるマルスの両手。そしてその瞬間、それは彼にとって決定事項となったようだった。
クレナは瞬きをして、受け取った言葉の意味を考える。
(外の世界に……?)
突然の提案に、クレナはまだ戸惑っていた。しかし、静かな胸の高鳴りを感じているのも事実だった。
(どうしよう。どうすればいい?)
クレナはロケットペンダントへ視線を落とした。写真の女性と視線が合う。
(わたしはヘクセローゼによって『創られた』世界から隠されていないといけない存在。だけど)
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