決戦の金曜あるいはヘプタゴンの変(その3)

「ワグナー、きさま、裏切ったな」

 スクルドが剣の柄に手をかけながら、唸るように言い放った。

 クレアは、今にも飛び掛からんとするスクルドの動きを待てというふうに制した。

「しかし、クレア、こいつは許せません」

 スクルドは、クレアの制止を振り切って剣を抜き放ち、自分たちの方へじりじりとにじり寄る衛兵たちをけん制した。


「ワグナーさん、これはどういうことなの?」

 クレアには怒りの感情はなかった。

 ただただ、驚くだけだ。

 確かにクーデターというのは、無謀かもしれない。

 だが、エンゲルス王を処刑しようなどというつもりは初めからさらさら持っていなかった。

 王を捕らえて、とりあえず休戦を宣告させる。

 それぐらいの気持ちだった。

 ワグナーも、クレアの話を聞いて、そんなことは無謀な計画だと、最初は反対の意向を示していた。

 だが、最終的には納得してくれたのではないか。

 昨夜、あれだけ真剣に打ち合わせたことは、すべて嘘だったというのか。


「クレアさん、この百戦錬磨のワグナー様を舐めてもらっちゃあ、困りますよ。

 あなたが考えたクーデターなんぞ、子供の絵空ごとに等しいですわい。

 王を捕らえたところで、この戦争が終わると、本気で考えていたのですか」

 ワグナーはクレアの方を見ながら、ゆっくりと腰に下げている短剣を引き抜きながら、言った。

「そうだよ、お嬢さん。

 僕に協力してくれるという君の約束の方はどうなのかな。

 こんなバカげたクーデターを起こすなんて、ワグナーのことなんか責められないよ。

 むしろ君の方が僕に対して大きな裏切り行為を働いているんじゃないのかな」

 クレアの立てた計画がすでに破綻したと踏んでいるためか、エンゲルスは、ワグナーよりも一歩前に進み出て言った。


(何か変だ)

 クレアは直観的に感じた。

 なぜこの距離でワグナーは「短剣」を引き抜くのだ。

 自分たちを捕らえるのであれば、わざわざ短剣を抜く必要はあるまい。

 クレアが疑問に感じたのも束の間だった。

 次の瞬間、さらに信じられないことが起きた。

「うぅ?」

 短いうめき声を挙げて、ワグナーの隣にいたエンゲルスが体を捩った。

 近くにいた者たちも一瞬、何が起きたのか、わからなかった。

 王は、ワグナーの短剣で腹の辺りをえぐられていた。

 さらに、その刺さった短剣をすっと抜き取ると、今度は肩口まで振りかぶるように切っ先を持ち上げ、そのまま、胸の辺りを突いた。

 

 エンゲルスは体から鮮血を放ち、被っていた王冠を頭から落とし、苦しそうにもがいた。

 ワグナーは躊躇なく、王めがけてさらに二回ほど短剣を振り下ろしたが、標的となる王がもんどりうって床に転がってしまうと、もうすることがなくなったという感じで棒立ちになっていた。

 やっと異変に気付いた近くの兵士がワグナーの体に体当たりし、取り押さえた。

 クレアは、これら目の前で慌ただしく動き回る男たちの姿を茫然と見送るだけだった。

 兵士に羽交い絞めにされたワグナーのもとに、凄まじい勢いで駆け寄り、剣を浴びせようとした老騎士がいた。

「待て」

 兵士は頭の血が上っていたため、ワグナーに切りつけようとしていたが、寸前で別の兵士に止めらえた。

「リンチはいけません」

「しかし、こやつ、王に向かって切りつけたんですぞ、それを赦すわけにはいか…ん」

 きっとエンゲルス王の忠実な「しもべ」の一人なのだろう。

 目が血走り、顔面を真っ赤にして自分を抑えている兵士を罵った。

 だが、その老騎士が背後にいた別の兵士に切り付けられた。

「どういうことなの?」

 クレアにはますますこの状況が理解できなくなっていた。

「クレア様、これこそが、クーデター、『革命』ですぞ」

 短剣を床に叩きつけ、代わりに腰の長刀を抜き放ったワグナーが、混乱の中で笑いながら叫んだ。

「ここは、我々が何とかします。

 あなたは、エンゲルス王を討ち取ったことを一刻も早く、皆に知らせるのです」

「こやつ、狂ったか……」

 背中から切り付けられた老騎士は、ワグナーへ伸ばした手で虚しく空を掴みながら気絶した。

 クレアは、昨夜、ワグナーが自分の計画は甘いと言ったことを思い出していた。

 そうだ、ただ単に王を捕らえることは難しいと、ワグナーは初めから知っていたのだ。

 王を生きて捕らえようとしても、周りからの抵抗は限りなく続くだろう。

 第一、王に対して反旗を翻すのは、多勢に無勢、ワルキューレを味方に付けていたとしても宮殿内では無力に近い。

 王を討ち取る、それこそが、クーデターには必要なのだ。

 だが、王を討つ、つまりは殺してしまうまでの心づもりがクレアにはないことを、ワグナーは彼女の計画を聞いた時点で看破していたに違いない。


 だが、クレアは、同一人物ではないにせよ、あのパッツン前髪の名も知らぬ学生と同じ顔を持つ男が目の前で血だらけになって倒れたのを見て、ショックを受けないわけにはいかなかった。

「何をしているのだ、クレア!」

 エンゲルスの元に駆け寄り、倒れた彼の体を抱えるのを見て、スクルドが叫んだ。

 クレア自身にも、なぜそうしているのか、わからなかった。

 エンゲルスを助け起こそうと、自然に体が動いていた。

 ここで、エンゲルスを死なせてはならない。

 このまま彼を見殺しにはできなかった。


「クレア様……」

 今度は、ワグナーが驚く番だった。

 自分は、クレアの計画が完璧に進むように、敵を欺いたつもりだった。

 そしてそれは、前々から画策していた「革命」を起こす絶好のチャンスとも考えていたのだ。

 ワグナーとしては、自分がエンゲルスを討ち取れば、それに乗じて、クレアとワルキューレ軍が宮廷内で暴れてくれる、そう信じていた。

 ところがどうだ。

 自分が討った王を今、クレアが介抱しようとしている。

「馬鹿な、クレア様、そいつは、国家の敵ですぞ。

 クレア様はよくご存じないかもしれませんが、そいつは暴君なんです!

 生かしておいてはダメです」

 ワグナーは衛兵たちと剣を交えながら、クレアに向かって叫んだ。

「よくわからんが、クレア、そいつのことは放っておけ」

 エンゲルスの上半身を抱きかかえるクレアの背中にスクルドが呼びかけた。

「……クレア、もういいよ。

 私はもう、いいんだ。

 私は……」

 虫の息のエンゲルスが薄目を開けてクレアに言った。

「エンゲルス王、しっかり」

 なぜ、自分が王の命を心配しているのか、励ましの言葉をかけているのか、よくわからなかった。

 それほど親しいわけではない。

 知り合った間もないし、つい先ほどまでは、この国と隣国の平和、ひいてはこの世界を救うには、彼を捕らえる必要があると思っていた。

 しかし、そうだ。

 彼を殺すことはない。

 もし本当に暴君なのであれば、捕らえた後で、きちんと裁判にかけるべきだ。

 そこは、ワグナーと考え方が全く異なるのだ。

 クレアの耳には周りで剣と剣がぶつかり合う音や、靴音、物や人が倒れる音が飛び込んでくる。

「そこをどけ!」

 戦う兵士たちを縫うようにして、救護班が王とクレアの元へ駆けつけてきた。

 クレアは王の手当てを彼らに任せて立ち上がった。

「クレア様!」

 ワグナーが心配そうにクレアに呼びかけている。

 クレアは大丈夫というふうにワグナーに頷いて見せた。


 *

 

 ワグナーが王を急襲するというのは予想外だったが、ここで計画の手綱を緩める気はなかった。

 ブラッド・パールの柄を両手に握り、向かってくる兵士を討つつもりだったが……。

 クレアに向かってくる兵は一人もいなかった。

 王を討ち取られた側近の兵士たちは、ワグナーに味方する兵士、きっとこれは以前から反乱を企てていた連中だろう、彼らに対しては刃を向けていた。

 そして、ワグナー率いる反乱兵たちは、それら王の側近たちとまさに激しい鍔迫り合いの最中だ。

 ブラッド・パールの切っ先をどこに向けていいのやら、戸惑っているクレアの腕をスクルドが掴んだ。

「クレア、ここはワグナーに任せて、この場を離れよう。

 計画通り、私たちはクーデターが起きたことを周りの連中に知らせるとしよう」

 ワグナーを置いてこの場を離れるのは、少々心苦しかったが、確かにスクルドの言う通りだ。

「わかったわ」

 クレアとワルキューレの一行は広間を後にして、宮殿の中庭へと躍り出た。


  *


「革命だ!」

「いや、謀反だ!」

「ワグナーが反乱を起こしたぞ!」

「王が暗殺された!」

「将校をすぐに呼び戻せ!」


 宮殿内の階段を駆け下りるときに誰が口々に叫んでいるのを耳にした。


「謀反」「反乱」という言葉は、「革命だ! 革命が起きたぞ!」

という声に搔き消されつつあった。

 きっと、こうなった場合を想定して、ワグナー率いる反乱軍が、「革命」という言葉を皆で叫ぶように予定していたのだろう。

 クレアが宮廷に出て、振り返ると、上階の窓の一角から煙が上がっていた。

 誰かが火を放ったのか。

 宮廷内の混乱はさらに広がっていた。

 T国と戦うはずの軍隊は、皇帝側と反乱軍側に分かれて戦い始めているようだ。

 これはもはや「内戦」の様子を呈していた。

 クレアには、もはや誰と戦うべきなのか、判断が付かなくなっていた。

 ブラッド・パールの切っ先を鞘に納めると、スクルドに向かって言った。

「スクルド、お願い。

 あの鐘楼のところまで、私を運んでちょうだい」

 そんなことをしても戦闘が収まるとは思えなかったが、クレアは、ヘプタゴンの鐘楼の鐘を思い切り鳴らしてみようと考えた。

「わかった。念のために、私の腰のベルトにしっかり掴まれ」

 スクルドは察しよく、クレアを後ろから抱きかかえると、羽根を広げてゆっくりと浮上した。

 周りにいた何人かはそれに気づいたが、特に注意を向ける者はいなかった。

皆、それぞれの戦いで忙しかった。

 剣の手を緩めれば、自分が負ける。

 そしてそれは下手をすると、死に繋がる。

 クレアはスクルドに抱きかかえられて飛びながら、昨夜見た夢のことを思い出していた。

 自分がワルキューレの一人となって空を飛び、下界にいた人間たちを見下ろす、あの夢だ。

(これは正夢だわ。

 まさに今、自分は人々を見下ろしている)

 スクルドが鐘楼まで飛び、自分を抱えて降り立つと、物足りなさを感じた。

 数時間待った遊園地のアトラクションにやっと乗ったというのに、あっという間に終わってしまったような気分だ。

 こんな火急時に、もう少し空中散歩を楽しみたいと思った自分がちょっと恥ずかしかった。

「スクルド、鐘を鳴らすのを手伝って」

「了解した」

 スクルドとクレアは鐘についた紐を力の限り、前後に揺らした。


「ぐぁああああん」


 近くで鳴り響く鐘の音は巨大だった。

 鐘の音に気づき、動きを止める者もあったが、それぞれの心に火が付いた兵士たちの動きを瞬時に止めるだけの力はなかった。

 ざわざわとした兵たちの動きが自然に止むまでには、まだかなりの時間が必要だった。


 *


「辞めんか、馬鹿ども!」

 途中から引き返してきたブラウン中将が馬上からどなった。

 ブラウンの声で剣を下す者が多かった。

 彼が前に進み出ると、ほとんどの兵は戦いを辞めて道を譲った。

 そのあとを、周りの連中を睨みつけるように、ヘーゲル少佐が付いていった。

「何事ですか、これは」

 ヘーゲルが誰ともなしに訊いた。

「はっ。どうやら、ワグナーがクーデターを起こしたようです」

 近くにいた兵士が敬礼をしながら、ヘーゲルに答えた。

「クーデター?」

「はい、エンゲルス王がワグナーに刺されたということです」

「ワグナーが?

 あの小娘、じゃなくて?」

「はい、刺したのは、ワグナーの模様です」

「それで、王は?」

「重体です」

「ワグナーの方はどうしました?」

「すでに投降しております」

「どこにいるんですか」

「現在は、地下牢に捕らえております」

「では、争いはもう済んだということですか?」

「いえ、まだ小競り合いが続いています。

 現在は、反乱軍が宮廷内を占拠しております」

 それを聞いて、ヘーゲルより先に、ブラウンが被っていた兜を地面に叩きつけて怒鳴った。

「なんということだ!

 これではT国との戦争どころではないではないか」

「いかがしますか」

 ヘーゲルが唸った。

「どうもこうもない。

 なるようにしかならんだろ」

 ブラウンは胸ポケットから「本物」の葉巻を取り出して口に咥えると、気を利かせた側近が火を付けた。

 せわしなく煙を二、三口吐き出すと、バリケードで塞がれた宮殿の入り口を苦々しく睨みつけた。


  *


 宮廷内で小競り合いが続き、クレアの鳴らす鐘の音が聞こえ始めたとき、ワグナーは構えていた剣を下して、相手の兵に両手を上げて見せた。

「降参だ。私は投降する」

「ワグナー様!」

 反乱軍の一人が叫んだ。

 計画通りとはいえ、ここで降参したとしても、王の暗殺を図ったとあれば、すぐさま返り討ちにあって処刑されるかもしれない。

「ワグナー様は降参すると言っているのだ、お前も剣を収めろ」

 反乱兵の一人がワグナーの身を守るように前に出て、相手の兵士に言った。

ワグナーと打ち合っていた兵士は、相手の勢いに推されて素直に剣を収めた。

「よろしい。では、私は素直にお縄に付くとしよう」

 こうして、ワグナーは、相手の兵士に捕まったというよりは、自ら牢へ入ったというのが事実であった。

 反乱軍の兵士の先導で、ワグナーは宮廷内の地下牢へ向かった。

「では、手はず通りあとは頼んだぞ」

 後のことは側近たちに託し、ワグナーは牢に入って、息を深く吸い込んだ。

「一年前のことを思い出すわい」

 ワグナーがこの牢に入るのはエンゲルス王によって捕獲されたあの時以来、二度目となる。

 地下の土をくり抜いて鉄格子の付いただけの粗末なスペースは、相変わらず黴臭い。

 しばらくすると、反乱軍の一人が簡単な食事を運んで現れた。

「ワグナー様、窮屈でしょうが、しばしご辛抱ください」

 そう言って、収監された者にはあり得ない、執務室にあった漆塗りのテーブルと背もたれの高いチェア、そして「普通の食事」がテーブル上に並べられた。

「ご苦労。

 ところで、反乱軍はこの宮廷内をうまく占拠できたのかね」

「ご心配なく。革命は必ず成功させてみせます」

 まるで、自分が革命の指導者のような口ぶりで述べた兵士に少々腹が立ったが、もちろん、カギとなるのは、あの少女だ。

 あの『救世主』、クレアなら、きっとうまくやってくれるとワグナーは信じた。


  *


「お前は入るな!」


 側近の一人に涙声で罵られつつも、クレアは彼らの制止を振り切り、王の近くまで歩み寄っていた。

 エンゲルス王は手当てを受けてベッドに横たわった切り、再び目を開けることも、一言たりとも声を発することはなかった。


「ご臨終です」


 エンゲルスの脈を取っていた医師が残念そうに首を振った。

 王の枕元には側近たちが集まっていた。

 この部屋に集まる者たちは、反乱軍によって、誰一人武器を帯刀することは許されていなかった。

 ただ、クレアとスクルドだけは別だ。


 王が亡くなった瞬間、側近たちの視線は、クレアに集中した。

 クレアは何が起きたのか、よくわからなかった。

 それまで、憎むようにクレアに対していた側近たちが、クレアの周りから急に一歩下がって、膝を落とした。

 王が死去したとき、次の王となるのは、近親者となるが習わしだが、エンゲルスは未婚であり、子供もいない。

 異世界から救世主として召喚され、この国を統治していたから、親類も存在しない。


「救世主、どうかご指示を」


 重臣の一人らしき老人が震える手で、古い巻紙のようなものを差し出した。

「先ほどは、側近の一人が無礼なことを申し、大変失礼致しました。どうか、お許しください」

 クレアに「入るな」と罵った人のこと言っているのだろう。

 クレアは別に気にも留めていなかった。

 直接手を下したのではないにせよ、こうなったきっかけを作ったのはほかでもない、自分だ。

 人間的な感情としては当然だ。

「これは、指導者の印となる、書簡にございます。

この国をどうお納めになるか、それは救世主たるあなたに委ねられています」

 老人は顔を上げずに、書簡をクレアの前に捧げ持ったままじっとしていた。

「もう一言申し上げますと、我が王には、後継者が誰一人としておりません。

 そこで、救世主たるあなたにご判断いただくというのが、我が国の習わしとなっているのです」

 周りの者は、誰も何も言わず、彼女の動静を見守っている。


「その通りだよ、クレア」


 聞き覚えのある声だ。

 見ると、老人の横にいつの間にか、ネルバの姿があった。

「久しぶりだね、タマナハ・クレア」

「久しぶりじゃないわよ、

 どうすればこうなるのよ」

 クレアは、怒り声を出しながらも、このピンチな状態にネルバが現れてくれたことで、実のところ安心していた。

「この大臣の言う通りさ。

 エンゲルスには妻も子供もいない。

 だから、君が後継者となるわけさ」


 ちょっと待ってほしい。

 クレアは周りの連中を見て、違和感を持たざるを得なかった。

 先ほどまで、じっと見守っていた連中が、臨終とともに、すでに誰一人として枕元の方を顧みる者はいない。

 この場にエンゲルスの死を心から悲しむ者はいないのか。

 臨終の場では、しばし哀しみに包まれるというのが、習わしではないのか。

 エンゲルスの場合、異世界からやってきた支配者というのはあるかもしれない。

 だが、それだけではなさそうだ。

 短い間とはいえ、王として統治していたのだ。

 もっと悲しんでもいいのではないか。

 亡くなった瞬間、それが“人間”であることを辞めるのは、合理的な判断としてはそうかもしれない。

こちらの世界は、それほどまでに唯物論的に物事を進めることができるのか。

 だとしたら、あまりも哀れだ。

お通夜とか、葬式とか……。

 しかし、そういうことを考えるのも、「死者」のことよりも、自分ちちの都合で、時間やお金のことを考えてスケジュールを組んだりするわけで、ある意味、おかしな話ではあるが……。


「待ってください、この国をどうするのか、私に委ねられているというのは、わかりました。

 でも、その判断についてはもう少し待ってください」

 クレアはネルバを無視して重臣たちに訴えた。

「その前にヘーゲルさんと話をさせてください」

 それを聞いて、重臣や側近たちは、ざわざわし始めた。

「お言葉ですが、ヘーゲルは、我が王を暗殺した重罪人です。

 ご決断の前に、彼と話をするのは、いかがかと」

「これからのことを彼に相談するというわけではありません。

 ワグナーさんには、今後この国の政治には一切関りを持たせないと約束します。

 実は、彼が王の暗殺を企てていたというのは、私にも予想外のことでした。

 だから、彼の真意を知りたいのです」

 クレアの提言にどう答えたものか、大臣が窮していると、ネルバが口を挟んだ。

「ねえ、大臣。

 この救世主の言うことを信じてあげてよ」

 ネルバは、どうしてこうも偉そうな口が利けるのか、

 クレアは見てくれで騙されていたが、この世界において、『妖精』という存在は、思ったよりも人間よりも遥かに上の地位にいるのではないかと、改めて感じた。

 そして「救世主」という立場は、クレアが思っている以上に、大きな存在なのかもしれない。

「さ、大臣の許しも得たことだし、ヘーゲルのところへ行こう」

 まだ大臣は何も答えていなかったが、ネルバはさっさと部屋を出ていこうとした。

「ちょっと待って、あなたも行くの?」

「いや、僕は途中で消えさせてもらうよ。

 今回は、君がたぶん、困っているだろうと思って、助けに入っただけさ」

 ネルバは廊下をスキップしながら言った。

「でも、助けに入れるのも、時と場合によるよ。

 今のように“人間”相手であればいいけど、僕にも無理な時もあるからね」

 地下牢へ向かう廊下を曲がるところで、ネルバの姿は消えかけていた。

「じゃあね」

 相変わらず、逃げ足は早い。

「やれやれだな」

 クレアの後ろから付いてきたスクルドが言った。

 その言葉に、クレアが首を傾げてみせると、スクルドが、はっとした顔で見返してきた。

「私は、一緒に行ってもいいんだろ?」

「もちろん、オブザーバーとして、一緒に来てちょうだい」


  *


 ヘーゲルが用意された食事を平らげてくつろいでいると、「面会です」と言った衛兵のすぐ後ろに、クレアの姿が現れた。


「ヘーゲルさん、大丈夫…のようですね」


 幽閉と聞いて、牢獄に閉じ込められた囚人のような姿を想像したが、牢屋以外は、豪華なリビングにあるような猫足の付いた椅子と机が設えられ、奥には簡易ながら、きちんとしたベッドも用意されていた。

「やあ、クレア様、あなたが面会に来たということは、今回の計画は、うまく運んでいると考えてよさそうですね」

「いろいろお聞きしたいことはあるけれど、どこまでが本当のことでどこまでが嘘なのか、もう、よくわかりません」

 クレアは、どんなことを聞こうか、ここへ向かう途中、いろいろ考えていたが、いざ口に出してみると、どうにも、まとまったことが言えなくなっていた。

 さながらシェークスピアのリア王の末娘、コーデリアになった気分だ。

「もうお察しの通りです。

 エンゲルス王を拘束してこの国に革命を起こし、T国との戦闘を終わらせようという計画を、あなたが話されたとき、私は最初に申し上げたように、無理だと判断したのです。

 例え拘束したとしても、謀反を起こしたあなたの言うことを聞くものは誰もいない。

 また、王を生きたまま拘束することは、そんなに容易いことではない。

 下手をすれば、王の側に討たれるかもしれない。

 王を倒すとは、結局のところ、王を殺すしかないのです。

 だが、王を殺した者に“心”から付き従うものは例え『救世主』といえど、いないでしょう。

 だから、この計画を成功させるには、まず王を討つこと、そして王の替わりにこの国を動かす人を立てること、この二つの条件が揃わなければならない。

 そこで、王を討つのは我々の役目、この国を先導するのは、あなたの役目だと、私は考えたのです」

 クレアは、牢屋の前に見張り役の兵士がすすめてくれた椅子に腰かけて、ヘーゲルの話を黙って聞いていた。

 すぐ後ろにスクルドが腕組みをして立っていた。

 見張りの兵士はスクルドの露出の多い胸の辺りに注目していたが、彼女の厳しい視線に合って何も見ていないふうを装った。

 赤い顔をした兵士を見て、スクルドは吹き出しそうになった。

 兵士が笑い返すと、スクルドはすかさず厳しい顔を作った。


「でも、あなたが直接手を下すことはなかったんじゃないんですか」

 その言葉を聞いて、ヘーゲルははっとした顔になった。

「そうですか、エンゲルスは亡くなりましたか」

「あ、まだ知らなかったんですね、つい先ほど、ベッドの上で亡くなりました」

「確かに、危険な賭けではありましたが、あなたの計画を王に話し、裏切ったと思わせておけば、これほど大きなチャンスはない。

 実際、見ての通りです。

 人間は信頼している者の傍では、無防備になります」

 ワグナーが自分の計画を王に話していたということはクレアも知らなかった。

 しかし、裏を返せば、ワグナーがその気になれば、自分たちも逆に捕まっていたということになる。

「あの時は、戦いの最中ということもあり、エンゲルス王のことを暴君と申しましたが、そんな評判は特にございませんよ……」

 ワグナーはエンゲルスについて、何か言いかねていることがあるようだった。

「思い切って申し上げましょう。

 エンゲルスは、私の娘のイゾルデを“かどわかし”おったのです」

 クレアには、一瞬、「かどわかす」というのがどういうことかよくわからなかった。

「それって、つまり……」

「エンゲルスの奴は、うちの娘にちょっかいを出しましてね、

まあ、私は娘をおもちゃにされたと、思っておりますよ」

「そうなんですか」

 今となっては、本人が亡くなってしまい、その真実はわからない。

「せめて、結婚の約束でもしていただければ、赦せたものを」

 それはエンゲルスの妻になるということは、王の妻になるということで、『妃』にするということを意味するのだろう。

 ヘーゲルが最初に会った頃、娘が上のクラスにいけるチャンスがあるといっていたのは、こうしたことを意味していたに違いない。

「よくわからないんですけど、イゾルデさんを妻にするつもりはあったかもしれないんじゃ……」

 ヘーゲルは、その言葉聞いて、鼻で笑った。

「そんなことはありませんよ。

 奴はああ見えて“好色”でしてね、

 傍で使えていたメイドや街で見かけて気に入った女性など、手を付けた女性はかなりの数に及んでいたのですよ」

 クレアの後ろにいたスクルドは、ヘーゲルのその話をまったく表情を変えずに聞いていた。

「うちの娘だけ特別にされていたなんて、私もそれほど、自惚れちゃあいません。

 そんなことでと、笑われるかもしれませんが、父親としては、許せなかったということです」

 クレアはその問題についてそれ以上エンゲルスの肩を持つ気にはなれなかった。

第一、それほど彼のことを知っているわけではない。

 ただ、あの教室にいた前髪パッツン男子に似ている、それだけのことだ。

「まあ、そんなことでは、王を殺す理由にはならないかもしれませんが、この国に平和をもたらすという意味では、国家の大義として、御納得いただくしかないでしょうな」

 ヘーゲルは、あまりこの話を持ち出すと、余計なことまで口走りそうな気がして自嘲した。

(そうだ、あの男は、きっとこの戦争がうまく収まった暁には、この救世主にもちょっかいを出す気だったに違いない)

 それは彼の心の中にふつふつと沸き起こってきたつぶやきだ。

 だが、それが妄想でないとは、決して言い切れない。

 クリムトの店にクレアの視察に出かけて戻ってきたとき、エンゲルスが開口一番口にした「今度の救世主は、実に可愛かったねえ」という一言が、心のわずかな隙間に小さな棘のように刺さって抜けなかったのだ。


「さて、私の言いたいことはもうなくなりました。

 すべてお話した通りです。

 あとは、クレア様、あなたにすべてお任せします」

 ヘーゲルに話を切り上げられて、クレアはしかたなく立ち上がり、鉄格子越しにワグナーに握手を求めた。

 ワグナーは、こんな大きな手をしていたのか、いがいとゴツゴツした感触があった。

「ちょっと辛抱しててください。

 救世主としてこの国をどう治めるか、皆に宣言してからあなたについては、正式に裁判を受けてもらいます。

 やはり、理由はどうあれ、王を暗殺したことについては、きちんと裁いてもらうべきだと思います」

 クレアは『軍法会議』という言葉が一瞬浮かんだが、それはあまりよろしくない手段だろう。

 ブラウンやヘーゲルたちが参加して軍の会議でも開かれれば、ワグナーは即処刑されてしまうに違いない。


「これから忙しくなるな」

 地下牢から宮廷に戻る階段を上りながら、スクルドが声をかけた。

 クレアは、その日が金曜日ということを意識していた。

 これから忙しくなるかもしれない。

 でも、あと2日で、絶対に決着をつけるつもりだ。

 それ以上は、この世界にはいられない。

 一週間で、元の世界に帰る。

 明日の土曜日、

 遅くとも、日曜日までには、ちゃんとした『紅茶』が飲みたい。

 自分のベッドで眠りたい。

 だから、必ず帰るのだ。


「大変です! クレア様」


 地下からの階段を上り切ったところで、先ほどの見張りの兵士から呼び止められた。

「どうしました」

「ワグナー様が、ご自身で命を……」

 地下牢の階段を踵を返して駆け下りると、ワグナーの首には、エンゲルスを殺めた短剣が自らの手で突き立てられていた。 

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