水曜のアクロポリスとシークレットガーデン

水曜のアクロポリスとシークレットガーデン(その1)

 マチルダとエミリアの部屋から閉め出された後、クレアは荷物を抱えて破壊された町の中をうろうろと歩いた。

 知り合いがまったくいないこの世界で、頼れるものは誰もいない。

 せっかく友達になれそうだと思った姉妹は、クレアがこの世界で活動できるよう手引きしただけの存在だった。


 姉妹が間借りしていた部屋の管理人は、クレアに手紙を渡し終えると何事になかったかのように、持っていた箒で玄関までの廊下を掃き始めた。

 IDPの翻訳機で言葉は話せても、文字までは読めないことをエミリアは気づいていなかったか、あるいは知らなかったのかもしれない。

 最初は、なんて気が利かないんだろうと少し腹が立ったけれど、その点にすぐに思い至った。

 そして文字が読めないクレアは持っていた手紙を管理人の方に突き出した。

「ごめんなさい、私、この国の文字が読めないの。お願い、読んでくださらない」

 手紙を突き出された管理人は、気の毒そうな顔をすることもなく、手紙の文面を機械的に棒読みすると、「ほらよ」とクレアに突き返した。

「その服は、お前さんに、プレゼントするそうだ」

 管理人は言葉を付け足したように、その部分をもう一度繰り返して、再び箒を動かし始めた。


 念のため、さきほどのレストラン前をもう一度通ってみたが、クリムトの姿はどこにも見当たらなかった。

 どこに宿屋があるのか、街中をうろうろしてみたが、皆目見当がつかない。

 壊れた街で途方にくれて座り込んでいたり、怪我人を運ぶので忙しそうな連中に声をかけてもまともに相手にはされない。

 クレアが最初に手当てを受けた広場に戻ってみると、そこには先日ほどではないにせよ、奇襲を受けて避難してきた人々がたむろしていた。

 クレアもそうした人々に混じるように傍らに腰を下ろし、思い出したように布で巻かれた弓と矢を解いて手に取ってみた。

 それは、最初に手にしたときと同じように、見た目よりもかなり軽く感じる。

 クレアの近くにいた女性や子供たちは、クレアが少女に似つかわしくない武器を手にしてしげしげと眺めているので、畏れをなし、腰を浮かして少し離れて座り直した。


「お嬢さん、ずいぶん、大そうな武器(もの)をお持ちですな」

 クレアのそばに男が近寄ってきた。

 軍人や警察官が被るような幅のある帽子とモスグリーンの制服を着た中年の男だ。

「おっと、私は怪しいものじゃありません」

 男はクレアが弓と矢を慌てて布で隠すように包み直したのを見て言った。

「私はこの街というか、あの丘の上にある王宮の警備を担当しているワグナーというものです」

 クレアはワグナーと聞いて、厭が追うにもワルキューレとの関係を連想しないわけにはいかなかった。

「まったく、今回の戦闘には困ったもんですな」

 クレアの警戒を解こうとしているのか、男はやれやれという顔をしながら語り始めた。

「見たところ、お嬢さんは、この世界の人間ではなさそうだ。そうでしょう?」

 クレアは男の言葉に咄嗟に声が出ず、首を縦に振って答えた。

「そのIDPから察すると、別の世界からやってきて、今回の戦いで誰かから難題を降っかけられた。そんなところでしょう」

 この警備員は、どこまで知っているのだろう。

 クレアは自分の身の上を話していいものかどうか迷った。

「なあに。あなたに危害を加えようなんて魂胆はこれっぽっちもありませんのでご安心を。お嬢さんはご存じないかもしれませんので、申し上げておきますと、そのクリスタルのIDPを持っているAクラスの住人は、この辺には誰もおりません」

 ワグナーはそう言うと、意味ありげに笑った。

「万が一、あなた方Aクラスの人間に、Bクラス以下の人間が手を出そうものなら……」

 そこまで言うと、男はもったい付けて腰に付けている警棒を取り出し、「コックン」という擬音を鳴らして首を撥ねる仕草をして見せた。

「死刑です」

 クレアは死刑というのがモノの譬えではなく、本当のことだと理解した。

「そのIDPには、この国の人間のすべてが詰まっている。まあ、国というか、世界中のほとんどの国で通用する代物ですがね。もちろん一部で通用しない国もありますよ。ですが、少なくとも、Jエリアに属する国では通用します。クリスタルのIDPを身に着けている人は、生きている間は、永久にA級が保証されます」

 これはたまたまギャグになったパターンだろうかと、クレアは勘ぐっていた。

日本語に翻訳されたときに偶然韻を踏んだだけだろうと思ってクスリとも笑わなかった。

「おや、面白くありませんか?」

 偶然ではなかった。

「まあ、いいでしょう。そのIDPはあくまでも、お嬢さん、あなただけのものです」

「タマナハ・クレアです」

 そこで初めてクレアは名前を名乗った。

 この男からお嬢さんと言われ続けるのはこそばゆい。

「ああ、あなたのお名前ですね。では、クレアさん」

 そういうと、男は自分のIDPを取り出して、携帯電話のように耳に当て、誰かと話始めた。

「ああ、私だ。ワグナーだ。今、A級市民のお嬢さん、クレアさんという方が、『下の街』で迷われているところだ。これからパレスサイドにお連れするので、手配を頼む」

 どうやら仲間と連絡を取ったようだ。

「今から、迎えが参ります。なあに、ご心配は要りません。それまで、もう少し私とお話しましょう」

 クレアがこの警備員に質問したいことは特になかった。

 何か話にくいというか、クレア本来のコミュ障がここに来て出た。

 昔から、男女の性別や年齢に関係なく、苦手意識を持った途端に、その相手とはまったく話せなくなる。

 ワグナーもクレアが未だに自分のことを警戒しているので、ちょっとバツが悪いらしく鼻の下に生やした口髭を指で弄りながら、何か考え込んでいた。

「私にも娘がいましてね、見ての通り、私はD級市民でして、娘はぜひともA級市民に嫁がせたいと思っているんです」

 ワグナーは笑顔を作りながら話を続けた。

「これがどういう意味だかわかりますかね。この国で、B級市民以下の人間がA級市民の権利を手に入れる唯一の方法が、A級市民と結婚することなんです。男女を問わずね」

 ワグナーは言葉を切って王宮のある丘の方を見上げた。

「あの丘の上に住むこと、この『下の街』に暮らす住人にとっては、それが誰しもの夢なんですよ」

 クレアは元の世界の、少なくとも、現代の日本で考える以上に、この国が階級社会であることを理解した。

 もしかして、世界を救うとは、この階級社会を破壊せよということなのかもしれないと一瞬考えた。

 だが、たった一週間でそんなことは不可能だ。

 たぶん、そんなことではないのだろう。

 階級社会が悪いと決めつけるのは、自分の持っている価値観に照らし合わせて考えた場合だ。

 彼らがクラス別に支配されていて、それが不幸であるとは限らないではないか。

「おじさんは、自分がDクラスの市民であることを、やっぱり、不幸だって思うの?」

 クレアはつい本音を口にしてしまった。

 口にした後で、しまったと後悔したが、もう遅い。

「どうですかね。確かに私がAクラス市民になるチャンスなんて、過去にも未来にもありませんからねえ。でもDクラスだって捨てたものじゃありませんよ。AクラスはAクラスで悩みはあるでしょうし」

「例えばどんなこと?」

「Aクラスの悩みですか、そうですねえ……」

 ワグナーはしばらく考えているふうだったが、迎えの車が広場の入り口に現れたので、口をつぐんでそちらの方に歩いて行った。


「では、パレスサイドにお連れしますので、この車にお乗り下さい」

 元の世界では、クラシックカーと呼べるような形の車だ。

前方に大きなエンジンルームがあり、座席は馬車を連想させるようなリムジンタイプで、運転手を含めて大人が八人ぐらいは乗れそうな広さだ。

「後ろの座席にどうぞ」

 クレア一人が後ろに座り、ワグナーは運転手の隣りに座った。

「では出発します」

 この車にシートベルトはないようだ。

 車は馬車と同じぐらいの速度でゆっくりと走った。

 実際に馬車に乗ったことはないが、内部の作りなども、映画などで見たことのある中世のヨーロッパで使われていた馬車とそっくりな雰囲気だ。

 町はずれの坂道に差し掛かると、ワグナーはクレアの方を少しだけ振り向いた。

「先ほどのAクラスの人の悩みですがね」

「はい」

「やはり、私にはわかりかねますね。それはAクラスの人間でないと、答えられない問題ですからね」

 そう言ってワグナーは引き攣ったように笑ったが、クレアは特にワグナーの答えに期待していたわけではなかった。

 金持ちには金持ちの悩みがあると、昔から言われる。

 だが、その悩みの中身は人によって違うのは当然だ。

 例えば永遠の若さとか、尽きることのない命とか、腐るほど金を持っているにもかかわらず、さらに金で買えないものをねだるのは、贅沢と言われるかもしれない。

 しかし、金持ち本人は大まじめで悩んでいたりする。

 クレアは昔バイオリンを真剣に練習していた頃、どんなにお金があっても、高度なテクニックだけは買うことができないとたびたび思うことがあった。

 もちろん、お金があれば、一流の先生の元で習おうことはできる。だが、それでテクニックが必ず身に付くわけではない。

 教わったことを実行するのは自分自身だ。

 どんなに練習しても、うまくならない人はならないし、できないことはできない。

 パガニーニの24の奇想曲を練習しているとき、一通り音をさらうことはできたし、弾くには弾けたが、表現力を上げるには至らないことが自分でわかった。

 このままでは一流の演奏家にはなれないと悟った。

 お金が幾らあっても、なれない者には、やはりなれないのだ。

 

            *

 

 リムジンは思った以上の力強さでパレスサイドへの坂を登っていく。

 まるで道にレールが敷かれているかのように、自動車というよりも電車という乗り心地で登っていく。

 しばらくして窓から外を眺めると、爆弾を落とされた街が、戦場となった高台とはちょうど逆の形で見下ろせるようになった。

 爆弾を落とされたのはどうやら、『下の街』だけのようだ。

 坂を登り切ったのか、車の傾きが水平に戻ると、眼の前にパレスサイドの街が広がった。

 真っすぐに王宮へと続く広い道があり、その周辺には、王宮と同じような造りの白い建物がずらっと並んでいる。

 写真で見たギリシアのパルテノン神殿にそっくりだとクレアは思った。

 ただし、その真っ白い建物にはパルテノンのような柱だけの伽藍洞ではなく、ちゃんと壁が付いている。

 その点からすると、バチカン市国のシスティーナ礼拝堂に近いかもしれない。

 だが、この宮殿の中央には、礼拝堂のような丸いドームが付いていなかった。

 ここは、下の街とは雰囲気がまるで違う。

 画面全体のトーンが黒と白のモノクロから四色フルカラーに変わったかのようだ。

 明らかにAクラスの空気が街全体に溢れていた。

 リムジンの運転手は、クレアに観光案内をサービスしたのかもしれない。

 王宮を中心に通りを一周するようにゆっくりと走ると、再びメインストリートまで戻り、王宮の少し手前で車を止めた。

 ワグナーは先に車を降りると、クレアの乗った側のドアを開けて、エスコートしてくれた。

「こちらでお降りください」

 言われるままにクレアが降りると、車の下に付いたトランクルームから、クレアの荷物を運転手が取り出して手渡してくれた。

「この街には、王宮だけでなく、クレアさんがお泊りになれるようなホテルが幾つかございます。まあ、お薦めは、眼の前にあるパレスホテルですね。ここは王宮へ参られるお客様もご利用されているホテルですので、ご安心を」

 最後にワグナーと運転手は帽子を取って、クレアに対して恭しく礼をした。

 クレアはそれに対してどういうリアクションをしていいのかわからず、「どうもありがとう」と頭を下げながら、とにかく前へ進んだ。

 そして他に当てがあるはずもないので、紹介してくれたパレスホテルの建物へと向かった。


          *


 チェックインは実に簡単だった。

 ホテルのフロントでカードリーダーにIDPを当てるだけですべてが済んだ。

 元の世界のホテルのように、名前や住所や電話番号を書くような紙を用意されることもなかった。

「どんなお部屋がお望みですか」

 フロントマンに尋ねられて、クレアは一人部屋を頼んだ。

 案内された部屋は、豪華過ぎるほど豪華だった。

 元の世界のようなテレビや冷蔵庫といった家電製品こそないものの、雑誌などで見たことのある一流ホテルのスィートルームと同じような感じだ。

 近代的なホテルではなく、元の世界でいうところのビクトリアン様式に近い家具で統一されており、クレアの好みにはぴったりだった。

 クレアはこの場に来て、ふと、自分のような日本の若い女性が、こんなファッションをしながら、畳敷きの部屋や、広くてもせいぜい六畳程度の部屋で生活しているのを、欧米の人々が知ったら、きっと驚かれるに違いないと思った。

 クレアのようなゴスロリファッションをしているのであれば、日本の狭苦しい部屋よりも、こちらの方がその生活スタイルにぴったり合ったインテリアといえる。

 でも、これだけの調度品を備えた部屋に住んでいるのは、日本ではかなり大金持ちか、名家の子女だろう。

 部屋を一回りしてみると、一人部屋を頼んだはずなのに、五、六人の団体や家族連れが裕に泊まれるほどの広さがあった。

 本当に一人部屋なのか、間違って大部屋に通されたのではないかと思ったが、ベッドスペースに置いてあるベッドは一つ切りだった。

 ただし、そのサイズはかなり大型で、大人三人ぐらいは余裕で並んで眠れるほど広かった。

 リビングルームは天井が高く、ゴージャス過ぎない趣味のよいシャンデリアが付いていて、ホテルの部屋なのに圧迫感がまるでなかった。

 外に面した窓を開けるとテラスが付いており、そこにも椅子とテーブルのセットが置いてある。

 案内された5階の部屋からは、すぐ目の前に王宮の外側を取り巻く巨大な円柱が並ぶ様子が見えた。

 クレアはこれまでの疲れがどっと出たのか、キングサイズのベッドに服を着たまま寝転ぶと、麻酔を打たれたように意識が朦朧として、いつの間にか眠り込んでしまった。

       

       *


 特に頼んでいたわけでなかったが、翌朝はフロントのモーニングコールで起こされた。

 ベッド脇のサイドテーブルにあった古風な電話機からチャイムが流れていたので、手を伸ばして受話器を取った。

「もしもし」

「クレア様ですね。おはようございます。フロント担当のスミスです。クレア様に、メッセージが届いております。一階のフロントでお預かりしておりますので、こちらにお寄りの際はお申し付けください」

 アンティーク調のチェストの上にある置時計からすると、十時間近く眠っていたことになる。

 それでもまだ寝たりない気がしたが、届いているメッセージの内容が気になって、取り敢えず受け取っておくことにした。

 チェックインしたときはあまり気にも留めなかったが、階下に降りるために乗ったエレベーターも古風な感じで、木製の扉に窓は素通しになっていた。

「おはようございます。こちらがクレア様宛のメッセージでございます」

 スミスというフロントマンから手渡されたのは大型の封書で、メッセージというより、むしろ手紙のようだった。

 封筒の裏を見ると、金色のシーリングワックスできちんと封印もしてあった。

フロントマンのいる前で開けるのも憚られたので、少し離れたロビーのアームチェアの一つに座って封を開いた。


『親愛なるタマナハ・クレア様へ

 本日、王宮にてお待ち申し上げております。

ヨコハマ国王 エンゲルス』


 封筒の重々しさに比べて、書かれていた文言はごく簡単なものだ。

 しかし、そのメッセージはかなり重要な意味をもっていた。


「なにこれ。日本語で書かれているじゃないの!」


 クレアは思わず声に出していた。

 フロントはその声に一瞬振り向いたが、その意味するところまでを察することはなかったようだ。

 クレアは椅子から立ち上がると、こうしてはいられないと心がざわつき始めた。

 だが、具体的に何をすればいいのかわからない。

 このまま王宮に向かってもいいと思ったが、心の準備が完全にできていなかった。

 こういう時は、まず食事だ。

 クレアはとりあえず朝食を取ることにして、フロントのスミスに尋ねた。


「朝食は、お部屋で召し上がることもできます。また、この階の隣りにもレストランがございます。お望みでしたら、街中かにもレストランが何軒かございますが、不案内でしたら、こちらのホテルで召し上がられるのがお薦めです」

 スミスは丁寧に説明してくれた。

 街中のレストランを紹介する際に、簡単な街の地図を見せてくれたので、クレアはそのリーフレットを貰うことして、フロントの隣りに入り口のあるレストランに向かった。

 朝食は、自分で好きなものを選ぶ、いわゆるビュッフェスタイルだった。

 先客はどうやらこのホテルの宿泊客らしい。男女の二人組や一人の泊まり客など、パラパラと席に着いていた。

 その様子は、一流ホテルの朝のワンシーンそのもので、一昨日から昨日に掛けて、隣国との壮絶な戦いが繰り広げられている最中とは思えないような感じだ。

 金持ちそうな夫婦らしき中年の男女の二人は静かに自分の皿の上のナイフとフォークを動かしている。

 一人で席に着いている若い男はいったいどんな仕事をしているのか、飲み物の入ったカップを片手に、姉妹の部屋でみたのと同じような戦争らしき記事が載った新聞らしき紙面に目を通していた。

 クレアはフルーツの盛り合わせと、ハムのような薄切りの肉とサラダ風の野菜を取って席に着いた。

 早速リーフレットを開いて、周辺の地図を確かめるが、王宮はホテルの眼と鼻の先で道を確かめるほどのことはなかった。

 町の作りがヨーロッパの都市によくあるような、また、昔の日本の城下町のような、王宮を中心に蜘蛛の巣上に張り巡らされた道とその周囲にさまざまな建物があることを確認した。

 それにしても、エンゲルスはクレアが日本からやってきたことを知っているのだろうか。

 それともこのメッセージは例の受付嬢か、ネルバが代筆したり、させたりしたものなのか。

 そうした可能性を考え合わせると、日本語で書かれていてもまったく不思議ではない。

 いずれにせよ、このままでは何も進まないので、王宮に行くほか手はなかった。

 朝食に手を付けてみると、思っていた以上にお腹が空いてたことがわかった。

 サラダをお代わりし、昨日エミリアとマチルダのところでごちそうになったのと同じようなパンを口にした。

 食後に紅茶に似た飲み物を口にしていると、レストランの大きな窓から日の光がテーブルに差し込んできた。

 果たしてこの太陽は、自分がいた世界と同じ太陽なのだろうか、クレアはふと思ったが、いくら考えても答えが出るはずもなかった。

 

 朝食では腹が満たされると、一旦部屋に戻り、シャワーを浴びて髪を結い直し、元の黒い服に着替えた。

 エミリアから貰った服は少し迷ったが、元の服が入っていた袋に入れ替えて持っていくことにした。

 念のためホテルは一旦チェックアウトすることに決めて再びフロントまで足を運んだ。

「チェックアウトでございますね、お待ちください」

 そういわれて、フロントのカードリーダーにIDPを翳すと電子音がピッと鳴って、会計は済んだようだが、まるで実感がない。

「では、良いご旅行を。またのお越しをお待ち申し上げおります」

 スミスの言葉に見送られて、ホテルの外へ出ると、そこには昨日と同じ格好をしたワグナーの姿があった。

 一体いつから待機していたのか、クレアがそこに現れるのをずっと待っていたようだ。

「お待ち申し上げておりました、クレア様。では参りましょうか」

 ワグナーは先頭に立って歩き出したが、驚いたことに隣にある宮殿の入り口まで、白い服の兵士たちが銃剣を片手にずらっと並んでいた。

 兵士の行列の間を進みながら、クレアはふと疑問に思ったことを先を歩くワグナーに訊いた。

「ねえ、この国の兵士は『銃』も使うの?」

「ああ、彼が構えているのは、殺傷能力がありません。戦闘用ではないのです。戦いには剣か槍を用いるのが普通です」

 銃は使わないのに、昨日のような爆弾は用いるのか。何か極端な気がした。

 紙としてのお金はすでになく、IDPのすべての決済ができるのに、戦闘には未だに剣や槍を用いるかと思えば、爆弾を使ったり、文化や文明の進化の仕方がちぐはぐに感じるのは、自分のいる元の世界と比較するせいなのか、クレアにはよくわからなくなってきた。


「こちらです」

 宮殿の入り口に通されて中に入ると、そこは巨大な空間が広がっていた。

 天井は驚くほど高く見上げていると眩暈がしそうだ。

 教会やオペラハウスであれば、客席で埋まっていそうなフロアには何もなく、一面に絨毯が敷かれているだけだった。

 一体これは何の目的に作られたスペースなのか、王に謁見するだけの間(ま)なのか、それとも単なるエントランスホールなのか。

「ねえ、ここは何の部屋なの?」

 クレアは率直にワグナーに訊いた。

「え?」

 改めて訊かれてワグナーも瞬間的に困ったようだ。

 そんなことをこれまで尋ねられたこともないのだろう。

 よく見ると、かなり向こうの正面に大きな椅子が置いてある。

 椅子は空っぽで、左右両隣に従者らしき人が数名待機している。

「あちらまで、どうぞ」

 クレアはワグナーに促されるまま、椅子の近くまで進んで行った。

 クレアが立ち止まると、その後ろに従者がクレア用の椅子を運んできた。

「そこへ座ってお待ちください」

 どうやら物語やゲームでよく見られるように、跪(ひざまづ)いて待つ必要はなさそうだ。

 しかし、クレア以外に座っている者はワグナーも含めて誰もおらず、クレアは妙に座り心地が悪かった。

 やがて、いかにも王様という出で立ちの男性がホールの袖から供を連れて現れた。

 ファンファーレでもなりそうな雰囲気だったが、音はまったくなく静かだった。

 元の世界であれば、報道関係者のシャッター音がバシャバシャ響き、フラッシュがバチバチと眩しく光るところだろう。

 現れた王様らしき男性が席に着き、まじまじとその顔を拝見したとき、クレアは思わず「あっ」と声を上げそうになって口元を抑えた。

 それは紛れもなく、クリムトのレストランで働いていた、あのモッズヘアのボーイ君だった。 

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