第26話 歌劇場にて その2

「楽しいか、メリザンド」


 第二幕の閉幕直後、甘い恋物語にうっとり酔いしれていたメリザンドは王の声で我に返った。

 すでに観客たちはメリザンドに興味を失っており、三十分の休憩時間を有意義に過ごそうと、休憩室や知人の桟敷さじきへと散っていく。


「え、ええ、もちろんです。ユージェーヌさまは舞台をご覧になりませんの?」

「わたしは、劇に夢中になっているお前を眺めている方が楽しい」

「まあ……」


 ずっと横顔を見られていたのかと思うと、恥ずかしさに頬が熱くなる。

 メリザンドは奥の椅子へ戻ると、テーブルの上の果実酒を喉に流し入れた。


「ユージェーヌさま、あなたがわたしを見初めてくださったあの日から、三年も経ってしまいました。あなたがわたしを『天使のようだ』と思ってくださった日から、もう三年も。

 果たして今のわたしは、当時と同じ顔をしているでしょうか。あのときほどの純真さが、今のわたしの心にあるとは到底思えません」


 ふと感じた不安を吐露する。

 王はメリザンドのことを真綿でくるむように大切にしてくれるが、そんな扱いを受ける価値が自分にあるのだろうか。酸いも甘いも知り、すっかり大人の女になってしまった自分に、かつての『天使』の面影が残っているのだろうか。


 王は驚いたように目を見開いたあと、口元に手をやってくつくつと笑う。


「このわたしが、少女のときのままのお前を求めているなんて、本気で思っているのか?」

「それは……」

「今は、わたしの愛によって花開いたお前が愛おしい」


 王に手招きされて近寄ると、捕らえるように抱きすくめられ、心臓が跳ねる。甘い口づけがくちびるだけでなく首筋にも落ち、小さな悲鳴を漏らしてしまった。

 桟敷ボックス席では、愛人や娼婦を連れ込んでいかがわしい行為に及ぶ者もいると聞いたことがあるが、まさか王もそのつもりでは、なんて思ってつい身体を強張らせてしまう。


 だが、それはちょっと穿うがち過ぎだった。メリザンドの頬を撫でる王の手指の動きはとても優しく、欲望の色はこれっぽっちも感じられない。


「ありがとうございます、ユージェーヌさま……」


 みだらな想像をしてしまったことへの照れ隠しも兼ねて、メリザンドは猫のように王へと身をすり寄せた。

 と、そのとき、廊下へ通じる扉がコンコンと打ち鳴らされた。メリザンドは慌てて居住まいを正し、つんとした表情を作る。


「陛下、よろしいでしょうか」

「なんだ、どうした」


 扉から顔を覗かせたのは、近衛の一人。王の傍らまでやってくると、そっと耳打ちした。


「……ああ、構わない。通せ」


 王の指示を受け、近衛がさっと部屋を出ていく。事情のつかめないメリザンドは、首をかしげることしかできない。誰かが謁見を求めているようだが、こんな場所で?


「支配人が、ぜひ挨拶をしたいそうだ。目当てはお前だろうな」

「え、わたしですか?」


 呆然と自分を指さすと、王はさも愉快そうにうなずく。


「ああ。今後ここに訪れる機会は、お前の方がずっと多いだろうからな。

 それに、お前が公式寵姫となってすぐ、支配人宛に手紙を出したのだ。『我が寵姫はうっとりするような恋愛譚を好むようだ』とだけな」

「まあ、ユージェーヌさまったら」


 つまり今回の歌劇は、メリザンドのために作られたものだというのか。感動やら戸惑いやらで、頭がくらくらした。


 ──もし公演が不評だったら、二度とここに顔を出せなくなるところだったわ。大成功してよかった……。


 安堵の息を漏らしたとき、扉が開いて、初老の男性が堂々とした足取りで入室してきた。


「国立歌劇場の支配人を務めております、ジュネと申します。この度はお目通りが叶い、まことに光栄でございます」

「王太子の頃に会っているな」

「覚えておいででしたか。落成式の日もこうして挨拶をさせて頂きました」


 と、ジュネは嬉しそうに目尻を下げた。次いで、メリザンドに向き直る。


「お初にお目にかかります、バルテ侯爵夫人」

「はじめまして。ガッリアが誇る国立歌劇場の支配人にお会いできて光栄ですわ」

「こちらこそ。お父上の男爵には、毎年多額の寄付金を頂いておりますゆえ」

「それで、三年前の創立記念演奏会に家族で招待して頂いたのですよね。そのおかげでわたしは、国王陛下のお目に留まることができました」

「おお、さようでしたか!」


 ジュネは喜色を浮かべたが、どこととなくわざとらしかった。恐らく、なにもかも知っていたのではないだろうか。王と寵姫の縁をつないだ男として、自信たっぷりに謁見を申し込んだに違いない。


 しかし、彼がどんな思いを腹に秘めていたとしても、無下に扱う理由にはならない。歌劇が大好きなメリザンドにとっては、ぜひ仲良くしておきたい人物だ。


「そのお礼と言ってはなんですが……今後ともぜひ懇意に・・・させて頂きたく思いますわ」


 含みを持った物言いをすると、ジュネは「ありがとうございます」と静かに頭を下げた。

 なにをどう『懇意にする』かは明言していないが、その辺りは互いに忖度そんたくし合えばよい。老練の支配人のことだから、メリザンドの気持ちをよく汲んでくれることだろう。


 メリザンドも、金銭的な支援を始めとして、劇の評判を広めたり、歌劇場で舞踏会を開いたりと、様々な『懇意』を提供することができる。


「終演後、台本作家のオルランディを挨拶に伺わせても差し支えないでしょうか」


 さっそくジュネから『贈り物』があった。もちろん、と返事をしようとしたとき、王が口を挟む。


「ジュネよ、劇の結末次第では、我が寵姫が機嫌を損ねるかもしれん。作家には、『首を飛ばされる覚悟をして来い』と伝えておけ」


 冗談めいた言いぶりだったが、こんなことを聞かされたら、作家は畏縮してしまうに違いない。


「承知いたしました」


 ジュネはわずかに苦笑めいたものを浮かべつつ、しずしずと部屋を出ていった。


「ユージェーヌさまったら、作家を怯えさせるようなことを言って。来てくれなくなるかもしれませんわ」


 つんとくちびるを尖らせて不満を示すと、王はからからと笑い、メリザンドのおくれ毛をもてあそんだ。


「もしオルランディとやらが気にいったなら、サロンに招いても構わないぞ。劇の裏話や、今後の創作に関して聞けるかもしれんし、優れた芸術家と交流を持てば教養が身に付く。後援者になることも可能だ」


 ──そういえば、プルヴェ夫人も似たようなことをおっしゃっていたわね。


 王から直々に許しがでたのだから、遠慮する必要はこれっぽっちもないだろう。メリザンドは俄然がぜん心を躍らせた。

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