雨女

@imanisimiki202

第1話

 私は、ホスピスの部屋の窓から外を見ていた。

10メートル程向こうに川があり、川幅は、それほど広くないが、南へ行けばどんどん川幅は広くなり、やがては海に注いでゆく。もう海に行くことは叶わない。だから川を見ていると、その先の海にも思いが及ぶ。その川の中央に、木の橋が架かっている。

 その日は、朝から良いお天気で、青い空が窓枠をはみ出すように広がっていた。退屈しのぎに窓の下を通る車や人を眺めるのが楽しみだった。ママチャリの後ろと前に幼子をひとりずつ乗せて懸命にこいでゆく若い母親、杖をつきつつ歩く主人につき添いながら散歩する老夫婦、リュックを背負ってパンを片手に通勤するサラリーマン等。

各々の人の各々の朝が始まる。

 余命いくばくもない私にとって今日の朝は迎えられたが、明日は分からない。

明日どうなるか分からないのは誰も同じなのだが、だからこそ一日の始まる朝が好きだった。

しかも、同じように見えても昨日と同じ今日はなく今日と同じ明日もない。

 皆が健やかに今日一日を過ごせますように、柄もなくつい祈ってしまう。

病気になり気が弱くなったとは思えないが、悟りを開いてしまっのか自分のこと以上に回りの人が幸せであれば良いなと思う。

 まるで、聖人みたいなことを考えつつ橋を見るとひとりの女性が立っている。

辺りには誰もいない。何だか見てはいけないものを見ている気がしてカーテンの影に身を寄せて顔だけ出す。

 女性はひと昔前からタイムスリップして来たかのように、淡い紫色の振り袖を着て、あめ色の蛇ノ目傘をさしている。

顔は傘に隠れて見えない。肩まで届く黒髪がチラチラ見えて美しい。女性は傘をゆっくり回し始めた。身のこなしから若いと思われる。

 すると、つい今の今まで青空だった空が急に曇り始め、濃い灰色の雲が空をおおう。傘の回転は先より速くなっている。それに比例するように、雲は黒っぽくなり次第に雨が降り出す。

ゆっくり落ちていた雨粒が、段々大きさ、速度を増しあっという間にザァーッと音をたてながら、どしゃぶりの雨に変わった。

雨に気をとられていたが、橋の上の女性はと見ると激しい雨に見えないのか。身もカーテンの影から窓のまん中へとのり出して目を凝らしたが、女性は消えていた。雨はしばらく降り続く。

雨水を含んだ木々の緑が、あざやかを増しみずみずしい。

雨も捨てたものじゃないなと思いながらベットに横になる。

振り袖の女性は一体何者なのか。蛇ノ目傘を回したから、青空から一転して雨になったのか・・・考えても分からない。傘を回すと雨が降るなんてまるで本物の雨女かもしれないな、そう思うと私は高校生だった頃の事を思い出した。


高校二年生の二学期の始まりの日だった、背が高く細身の色白の美しい女の子が転校して来た。少し悲し気な眼差しが大人びていて、同女性から見ても魅力的だった。近くにある男子校の学生たちが、彼女を一目見ようと校門前にたむろする時もあった。

 美しすぎるということは時に罪つくりとなり、クラスメイトの女の子たちの嫉妬心をあおることになってしまう。

 その頃、みんなでバーベキューをしたり近くの山へピクニックに行ったりと、いろいろ計画して楽しんだが、決まって雨が降った。それまでは、晴れ女と自他共に認める友人達が多く居たためか、いつもお天気だった。

しかし、転校生が加わるといつも雨が降った。紫雨とゆう名前もあって、いつしか皆が、雨女と噂するようになったのだ。

確かに紫雨ちゃんは、どこかミステリアスでもあり、口数も少なく どこか遠くを見つめる風情が儚げでもある。

もし、雨女が居るならこんな感じがもと思ってしまう。

 そして、十月。私たちは一年に一度の大イベント体育祭を楽しみにしていた。

徒競走、綱引き、玉入れ、くす玉割、ムカデ競争、リレー。

私は友人二人と三人四脚で組縄跳びをするという種目に出場する。私たち三人は放課後グラウンドで練習をする。

まず、三人四脚で走るのが難しい、そこに縄跳びしながら走るのだからもう大変。

クラス対抗で一等から最下位まで成績によって点数が入り、得点数で優勝が決まるので、何とかクラスのために上位に入らなければならない。

最下位にだけはなるまいと必死でがんばった。

その甲斐あって段々うまくなり、スムーズに走れるようになった。初めは転んだり転びかけたりしていたが、皆各々の出場種目を練習し学年優勝を合言葉に心を一つにしていた。

だからこそ、よけいに体育祭当日の空模様が気になった。天気予報では曇りだった。

晴れ女が五人も居るから大丈夫と初めはたかをくくっていたが、一向に晴れマークが付かないことに、皆少しずつ不安になってくる。

 雨女の紫雨ちゃんは団体競争にしか出場しない。いつしか、彼女が居なければ晴れる そう思うようになった。

紫雨ちゃんが体育祭当日、休んでくれれば良いのだが、面と向かって「休んで」とは言えない。

考えた挙句、彼女にちょっとケガをしてもらって当日は家に居てもらおうということになった。

晴れ女五人の内、一番体格の良いC子ちゃんにぶつかってもらい、紫雨ちゃんに転んでもらおう。

しかし、思うようにはいかなかった。体当たりするC子ちゃんがその前に足を滑らせ転んでしまい、助けようと差し出した紫雨ちゃんが、バランスを崩し謝って川へ落ちてしまったのだ。

体が弱くて泳げない彼女は、すぐ大人たちに救助されたものの、そのまま帰らぬ人になってしまった。

C子ちゃんが紫雨ちゃんの身体に触れていないことは皆が見ていたので、不慮の事故として処理された。


紫雨ちゃんのお通夜に、私たちは出席した。

棺の中に横たわる彼女は、一番お気入りだった淡い紫色の振袖、長い髪を肩まで垂らし、紅いサンゴのかんざしをつけていた。

お母さんが付けたというピンク色の口紅を差して、本当にお人形のように美しい。

今にも眼をあけて起き上がりそうだった。お母さんはひとり娘を亡くしたのに気丈にふるまわれ、自分のせいで結局命を落としたと、すっかり落ちこみまともに歩くことも出来ないC子ちゃんを励まされた。

紫雨ちゃんの亡き後、雨は細く長く七日間降り続いた。

気象予報士は季節柄秋の長雨と言っていたが、私は紫雨ちゃんの涙雨だと思っていた。

 初七日の日、私はひとりで紫雨ちゃんの家を訪れお仏壇の前で手を合わせた。

 

紫雨ちゃんの死後、降っていた長雨がようやく止んだ翌々日が、待ちに待った体育祭だった。

あんなことがあった後なので、皆の心の中に小さいけれどやけに重い石が沈んでいる。

私の心には、皆よりずっと大きく重いイカリのような物が沈み込んでいた。

体育祭どころではないと皆が思っていた時、クラス委員の「皆が一丸となって優勝に向けて全力を尽くすことが、紫雨ちゃんの供養になるのではないか、それは今の私たちにしか出来ない供養だと思う。」クラス委員の言葉に皆うなづいた。

 当日は、皆の心の重荷を軽くするような美しい秋晴れだった。

各々に力を出し尽くしたし、私も三人四脚プラス縄跳びにがんばり一番先にゴールインとなった。

他の種目も上位三位までに入り、結局わが二年一組は優勝したのだった。

翌日優勝トロフィーと表彰状を持って紫雨ちゃん宅を訪問した。

遺影の彼女は白地にすかし模様の涼し気なワンピース姿で心なしか少しほほえんでいた。

私はこの日も手を合わせ、皆に気付かれないよう心の中でしっかりと彼女に謝った。

孤立して淋しかっただろうあなたに寄り添えなかったこと、やさしい言葉もかけられなかったことを。

しかし、もっと詫びなければいけないことが、私にはあったのだ。


 私は子供の頃から、どこかへ出掛ける度によく雨が降った。家族旅行の時も、友達と山に行くときも、入学式や卒業式、自分の誕生日祝いのときも、一生に一度の成人式の日も雨だった。

父親に「雨女だな」と言われてその意味を教えてもらった。

家族での外出や自分ひとりで出掛けるならまだ許されるが、友人たちとの外出や旅行で雨空というのは申し訳なくて、私が来なければ良かった、来なければ太陽の下、海で泳いだり山に登ったり楽しく過ごせるのにと思ったものだ。

 段々恐くなってきて、友人たちと遊びにいくこともなくなっていった。

だからこそ、地元を離れて隣県の高校に入り雨女ということは誰にも言わず、悟られないようにさえした。

幸いにして仲良くなった友人たちは、晴れ女を自称していて実際イベントのある時はいつも青空だった。

朝、雨が降っていても途中から止み、現地に着く頃には太陽が顔を出すことも珍しくなかった。

雨女がひとり混じっていても、彼女らの力が勝っているのか雨が降り出すことはない。

 そんなときクラスで行く野外学習の日、嵐かと思うくらい雷は鳴る、ひょうは降る、風も強い大荒れの天気に見舞われた。

私のせいだったのかもしれないのに、転校生の紫雨ちゃんが初参加したことで、皆が雨女と決めつけてしまったのだ、私も雨女とは言い出せず雨女のレッテルを貼られた彼女の影に隠れる卑怯者だったのだ。

友達から、クラスメイトから仲間はずれになるのが何より恐ろしくて、生きている紫雨ちゃんに何も言えなかった私は、もう仏壇に飾られている遺影に謝るしかなかった。

紫雨ちゃんのお母さんも四十九日の法要のあと、実家のある街に帰っていった。

自分を助けようとして紫雨ちゃんが亡くなったことをずっと自分が許せず苦しんでいたC子ちゃんも、紫雨ちゃんのお母さんに励まされ、心機一転アメリカ留学に行ってしまった。

 あれから三十年が経っていた。

私は大学へと進み念願だった図書館司書として働いた。

良縁に恵まれぬまま四十七才になった。

すでに両親はなく一人っ子の私は、このホスピスに身を寄せている。

あの頃のことは、罪といえるほどのものではないかもしれない。

 しかし、私にはそれに近いものがあると思うし、それは今も心の奥底深く鉄のかたまりのように沈んでいる。それでもそれはそれとして、私は自分の人生を歩んだ。

そうすることが、紫雨ちゃんへの供養だと言いきかせて。


もう、あの紫色の振り袖姿の女性には会えないとあきらめかけた十一月の夕暮れ。

ガンの痛みを紛らわそうと窓辺に立ったとき、あの日と同様に橋の中央に彼女が居た。私は痛みも忘れてあわてて外へ飛び出す。止めようとする看護師さんの手を振り払って橋へと急ぐ。

いつのまにか小雨が降り出している。息を切らしながら橋にたどり着きおそるおそる声をかける。「紫雨ちゃんでしょう?私への恨みを晴らしに来たの?」彼女は何も答えない。

その代わりにゆっくりと傘の方向を変える。後ろ姿が目に入る。更にゆっくりと顔を私の方へ向ける。

その瞬間、声にならない声を発した。

すると急に激しい目まいと頭痛、胸の痛みに襲われて、私は橋の上に倒れ込んだ。

 そのとき、彼女の声がした。

優しい、懐かしい紫雨ちゃんの声だ。

すぐ耳元で聞こえる。「あなたを美雨さんを迎えに来たの。二人一緒ならなんだって出来る。私たちが微笑めば恵みの雨、悲しめば長雨、怒れば雷雨、嵐だって起こせる。だって、私もあなたも本物の雨女ですもの」私は力をふり絞って「そうね。私も雨女だから」紫雨ちゃんに聞こえたかどうか分からないが、それが私の本心だった。

私の命はもう尽きる。

それなら紫雨ちゃんと二人、雨女として生きるのも良いかもしれない。そう思った。


 私は彼女のお世話をしていた看護師です。

橋の上で倒れている彼女を見つけ抱きおこしましが、すでにこと切れておられました。

心臓マッサージもしましたが、駄目でした。

いつ命が尽きてもおかしくない状態でしたから、残念ですが仕方ありません。

唯、不思議だったことがあります。

降っていた雨は止み見上げますと、七色がくっきりと鮮やかな虹がかかっています、その虹に向かって二人の女性が飛ぶというか、虹に吸いこまれて行いくように空を遠去っていったのです。

二人の着ている紫色の振り袖の長い袖を翼のように広げて。

夢か幻を見ているようでしたが、とても美しい光景でした。

 しかも、もっと奇跡なことは、先まで横たわっていた美雨さんが消えていたのです。

えぇ、彼女の名前は美しい雨と書いて美雨さんです。

私の手に唯一残った物がこの蛇ノ目傘ですが、

ほら、この持ち手の所に名前らしきものが彫られているでしょ。

そこには、はっきり手彫りの文字で紫雨、美雨とあった。






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