第漆話 呼吸のやり方
駒の去ってゆく足音を聞きながら、青年はおでこに載せられた冷たい手ぬぐいの感触に癒されていた。
今日も誰かが点滴を付けに、この部屋を訪れる。昨夜の騒ぎについて、誰ぞ教えてくれないものかと、青年は淡い期待を抱きながら待っていた。
ドタドタとした、荒々しい足音が聞こえるまでは。
足で蹴り開けられたんじゃないかと疑う勢いで、扉が開閉した。
「おい、起きてっか?」
……青年が苦手とする少年の声だった。いつも黙々と作業をこなす少年なので、声をかけられたのは初めてだった。
少年、
「鼻も耳も治っただろ、次は口だ。俺は口腔担当の、口嚇丸。肺を含めた呼吸器官も俺の担当だ。今日から、喋るに充分な呼吸を確保できるよう訓練するぞ」
青年は何を言われているのかわからなかった。呼吸なら、充分にできている。口が聞けないのは、口腔の全てが動かないからだ。
「栓を抜くぞ。少し痛いが我慢しろ」
そう言うなり、少年は包帯まみれの患者の胸にべたべたと貼られたお札を一枚めくり、包帯と包帯の隙間に小さく刺さったコルクの栓を引き抜いた。
とたんに、青年の胸が、体が、膨らみだした。小さな穴からどんどん入ってくる空気に、青年はわけがわからず大きくのけぞり、口が大きく開き、
「うわあああああああ!」
と、目を剥いて絶叫した。
喉の奥に、何か詰まっていたらしい、ぬるぬるとした生肉のような塊が、のけぞった際に口から溢れ出た。
「そのまま口、開けてろ」
言われなくても、口から溢れてくる謎の物体のせいで、閉じられない。
少年が肉塊をつかみ、思いっきり引きずり出した。肉塊は長く長く、とてつもなく長く、青年は腸でも引きずり出されたのかと錯覚するほどだった。肉を引き出されている間は呼吸ができず、涙も鼻水も出た。
「おら、全部抜けた。しばらく息が苦しいだろうが、自分の感覚で自由に呼吸ができるように、自主的に励んでくれ。こればっかりは俺は知らん。じゃあな」
少年は立ち上がると、そのまま部屋を後にした。
残された青年は、勝手に胸の穴から入ってくる空気に喘ぎ、ままならない呼吸で溺れかけていた。
(だ、だれかー! だれか助けっ、助けてくれ、息が! 息が苦しい! 胸が勝手に息を吸い込むんだ! 上手く吐けないー!)
己の意思で動かない体に、めいっぱい空気が入ってくる。それを青年は必死に外へ外へと吐き出し続けた。長らく使われていなかった腹筋が強制的に伸縮し、何度も膨らむ胸部に引っ張られて、腕も足もバタバタと跳ねた。
どれくらい、そうしていただろう。青年は今すぐ息を吐き出したい衝動を抑えて、大きくゆっくり深呼吸することによって、大量の空気を外に吐き出す方法を身に付けた。
勝手に肺いっぱいになる空気を、腹に力を込めて、ゆっくりゆっくり、肺を空にする勢いで、外に放出していく。コツを掴んだとまでは言い難かったが、溺れそうだった状態と比べたら、かなり進歩した。
ゆっくりゆっくり、深呼吸を繰り返す。耳に聞こえるのは、必死に生き延びようとする自分の呼吸の音だけ。この病室いっぱいに、青年の命の音が響く。
(ううう、疲れた……もう無理だ、これ以上は続けていられない……)
己の呼吸を制御する体力が、なくなってきた。重だるい体は、再び勝手に入ってくる空気に膨れ上がり、青年は最後の力を振り絞って、肺の中を空にした。
包帯に覆われた体が、汗だくになっていた。
扉がいきなり開かれる。
「はいはい、お疲れさん。点滴の時間だよ、主人様」
この声は、昨日も点滴を担当してくれた少年の声だった。最近、点滴はもっぱら彼にやってもらっている気がする。
青年は呼吸の練習に必死のあまり、少年が近づいてきた足音に全く気づかなかった。突然現れた少年に、息が苦しいことを必死に訴えようとする。
(頼む! 気づいてくれ! もう呼吸のリハビリができない、限界なんだ! これ以上は、息が吐けない!)
青年は白目を剥きかけていた。空気で溺れ死にそうになっている。
陸に上がったフグのようにジタバタしている青年の胸に、少年がコルク栓を挿し戻した。そのとたん、絶え間なく青年の体を膨らませていた空気が、穏やかになる。
「だ……だずがっだ……ゲホゲホッ!」
青年は咳きこみながら、自分の喉から絞り出た声に、大変驚いた。
(声が、出てる! しゃべることができるようになったぞー!)
感動と興奮のあまり、今心の中で思ったことを、もう一度口で、喉で、自分の声で、表現しようとした。けれど喉がイガイガして、咳ばかり出て、声を出せる暇がなかった。
それでも青年は、何とかもう一度と、必死になって息を吸っていた。
そんな青年の胸を、少年がトントンと叩いて、落ち着かせた。
「主人様、声が出るようになって嬉しいのはわかるよ。でも、まだ肺も喉も馴染んでないんだ。何日か練習すれば、すんなりしゃべれるようになるだろうから、今はあせらず、ゆっくり息を吸う練習だけしといてくれや」
年下に優しく
「主人様と話せる日が来るのを、駒も俺たちも楽しみに待ってるよ」
温かな言葉に、涙が出そうになった。
今まで一方的に介抱されるばかりで、対等な関係ではないように青年は感じていた。それがようやく駒と、彼らと、しゃべることができる、対等な関係に近づける。ここはどこなのか、自分は誰なのか、どのような経緯があってここにいるのか、ようやく彼らに尋ねることができる。
そして、彼らがどういう組織の人間なのかは知らないが、ここまで尽くしてくれたことに、心の底からお礼を言うことができる。
青年は今すぐにでも発声練習がしたかったが、今日は少年の言う通りにおとなしく呼吸をして、肺と喉を落ち着けようと思った。
ただひたすらに、嬉しかった。体の一部が、取り戻せたような気分だ。もうじき元通りの自分に、戻れる日がくる……そんな予感に、胸が高鳴った。
「ハハハ主人様、はしゃぎすぎだよ。脈が速くなってるよ」
明るく笑ってくれるこの少年の名前が、青年はとても気になった。もうじき、尋ねることができる……その日を待ち遠しく感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます