第44話 これでどうだ忌々しい奴め

 翌日、サネモは早くから宿を出た。

 まずは元の自宅へ向かって、ちらりと様子を窺う。当然と言えば当然だが、既に新しい住人が入っていた。緑の芝で子供が犬と戯れ楽しそうな声をあげ、その側で若い夫婦が寄り添い笑顔で見守っている。

 絵に描いたような幸せで、未来も夢もある家族だ。

「…………」

 サネモは小さく舌打ちした。

 自分が手に入れられなかった事を誰かが成し遂げただけでも腹立たしいが、それを元はとはいえ自分の屋敷でやっているのだ。非常に面白くない気分になってしまう。

 だが、相手を妬むことはしない。

 それでは同じ場所に立ち止まっているだけで、永遠に満たされない。それよりも自分が努力し幸せを掴むことの方が遙かに意味がある。

 ただし、努力の原動力になる妬みだけは充填しておいた。

「さてと……」

 サネモがここに来たのは、コリエンテのアドバイスによるものだ。まず物事を考えるには現場に向かえという事で、それがこの元自宅というわけである。

「なるほど、確かに言われるとおりだ」

 腕を組んで肘を軽く叩く。

 それまでは思い出せなかった事が、この風景を見ていると次々浮かんでくる。

 庭の花々は新婚当時にフーリを喜ばせようと、わざわざ遠方から取り寄せた珍しいものである。木にしても景色の邪魔になると言われ、サネモが苦労して剪定。塀の色も気に入るものに塗り替えもした。

「少なくとも私は努力していたつもりだったのにな」

 思いだしてみればフーリは花を愛でても世話する事はなく、草の一本も抜かなければ、虫を見ただけで屋敷の中に引っ込んでしまった。

「やはり……王都は出てないな」

 街の外を危険と信じ込んでいた以外に、他の町に行って生活できる人間ではない。

 その他にも魚は嫌いで食べない。肉は嫌いで脂の少ないものなら少し食べる。穀物と野菜は口にしたが、少しでも鮮度が落ちれば頑として口にしない。同じメニューが三日以内で出されると露骨に不機嫌になる。しかし何が気に入らないのかは言葉にはせず、黙り込んでひたすら睨んでくるのだ。

 サネモも苦労したが、もっと苦労したのは下働きの者たちだろう。庭の手入れに始まり食材の買い出し、そして料理までと――。

「そうかトオサだ。トオサなら何か知っているはず」

 屋敷で下働きのトオサを思い出すと、サネモは手を打って頷いた。あのリオウたちも流石に知らなかったはず。

 確認するだけの価値はある。


 サネモはその日のうちにトオサの住処に向かった。

 屋敷で働いていたのだし、そもそも元妻のことを教えてくれたのもトオサである。それであれば、何かを知っているだろう。

 ただしトオサがどこに住んでいるかは知らなかった。

 そのため雇う際に仲介して貰った元締めだったり、元締めにトオサを紹介した相手だったりを順に巡っていく。適当にでっち上げた理由――急な解雇で渡しそびれた給金を渡しに行く――を言うと、みな軽く驚きながらも快く協力してくれた。

「ここか……」

 ようやく辿り着いた。

 貧しい者が暮らすブラウク区画の幅の極めて狭い小路だ。木造の建物が密集し、隣の建物と壁を共有しているぐらいだ。屋敷を追われ安宿を経験し、世の中を知ったつもりになっていたが、こんな生活がある事は衝撃的であった。

 頭を振って気を取り直し歩きだす。

 辺りは静かだ。

 昼前という時間帯で多くが出払っているらしい。まるで誰も居ないかのようだ。トオサも働きにでているかもしれないと気付いたのは今更だ。

「さて、居てくれるといいが」

 一応は住処だけでも確認するため、小路に面したドアを数えつつ、五つ目のところで足を止める。教えられた話では、ここにトオサが住んでいるはずだった。

「トオサ、私だ。いるか?」

 呼び鈴も何もないためドアを叩いて声をあげた。

 二度、三度と繰り返し諦めかけた頃だった、ドアの向こうで物音がしたのは。

「はいはい、誰ですか。私は、私なんて名前の人は知りませんね。押し売りなら帰って下さい。金の取り立てなら無駄ですよ。儲け話なら聞いてもいいですけど」

 微妙に苛立ちを感じる小馬鹿にしたよう口調は、間違いなくトオサだ。再会の嬉しさは皆無だが、極々僅かな懐かしさはある。

「私だ、サネモだ。お前の元雇い主だ」

「……もしや借金取りに捕まって、私まで巻き込もうってんじゃありませんよね」

「馬鹿言うな。お前を巻き込んで何の意味がある」

「では何の御用で?」

 警戒心みえみえの声だ。

 気持ちは分かる。わざわざサネモが尋ねてくる理由などないのだから。

「退職金代わりに、金でもやろうかと思ってな」

「おお、お懐かしい! ようこそ、元旦那様!」

 ドアが勢い良く開けられた。満面の笑みに苛立ちを感じる顔が現れた。


「こいつはどうも、へへへっ、もうちょい多ければ言う事はなかったですけど。それでも、ありがとうございます」

 トオサは銀貨を包み込んだ両手に頬ずりしている。

 嘘吐きにはなりたくないため、銀貨一枚を渡しておいた。今は千リーンぐらいであれば渡せる余裕はある。対してトオサの生活はあまり良くはなさそうだ。一部屋しかない住居は雑然として汚らしい。汗臭いような臭いも漂っている。

「お前、どうしてこんな生活をしているんだ?」

「そりゃもう、あれですよ。働き先を失って失意のあまりに働く気も起きず」

「嘘を吐け。だいたいだな、屋敷から出て行くとき。自分の荷物と言いながら金目の物を持ち出していたじゃないか。あれはどうした?」

 かまをかけたが、この男ならやりかねないと思っての事だ。

 果たして、トオサは舌を出して自分の頭を叩いてみせた。下働きをしていた時とは全く違う態度である。それも今は雇用関係にないので当然だ。

「おや、ばれてましたか」

「まあいい、それを追求する気はない。だから少しは働いたらどうだ」

「一度仕事を止めますとね、そういった気持ちが萎えるもんですよ。それにです、元旦那様には叱られたくはありませんね。誰のせいでこうなったと、お思いですか」

「フーリのせいだな」

「そうでございますな」

 落ちぶれた男二人、鼻で笑う。

 この場合の嘲りは自分たちに向けられたものだ。

「それでフーリの行き先を知りたい。心当たりは無いか?」

「おやまあ、元旦那様はまだあの女に未練がおありで? そりゃまた……」

「馬鹿を言うな。あるはずないだろう」

 大袈裟に驚き呆れるトオサに、手を大きく振って否定した。そしてリオウとの話の内容を説明する。つまりフーリを捕まえれば借金がなくなる事をだ。


「流石は元旦那様。逃げられたとはいえ、かつての妻を売り渡すおつもりとは。相変わらず周りを顧みず自分の為に行動なさる」

 嫌味ではなく本心で言っている事は分かる。

 こいつは働かないのではなく、働けないのではなかろうかと思えてきた。つまり誰も雇いたがらないという意味だ。少なくともこれでは、仮にサネモが返り咲いてもトオサを雇う気は起きない。それは間違いない。

「で、心当たりは?」

「普通に考えれば相手の男の家でございましょうに」

「それが分からんのだ。何か相手について知ってないか?」

 だがトオサは相手の顔は知っていても詳しい事までは知らなかった。トオサはいつ男が来たかといった事はしっかり覚えていて、どれだけ屋敷に滞在して二人が何をしていたかは楽しげに話した。だが、男の素性や住処などは知らなかった。

「ああ、でも一度だけ名前は聞きましたよ。元奥様が感極まって、声をあげ縋り付くたときです。元旦那様との時は、そういう事はありませんでしたな」

 絶対に覗きをしていたと確信するに至った。

 だが、問い詰めても無駄だろう。

「その名前は?」

「さて? 急に忘れてしまいまして。こう名前が出かかるのですが、何やら上手く出て来ませんなぁ。何か切っ掛けがあれば出てくるのですが」

「……ほら、これでどうだ忌々しい奴め」

 サネモは銀貨をもう一枚渡した。

 今更ながら、こんな男を雇っていた過去の自分が忌々しい。

「これはこれは、ありがとうございます。相手の名前ですが、それはですな――」

 告げられた名にサネモは渋い顔をした。

 だが何にせよ、これでトオサから聞きたいことは聞けた。さっさと引き揚げ、おさらばするだけだ。

「なるほどそうか分かった。情報をありがとう、これで助かった」

「いえいえ、どういたしまして。それから――」

 出口に向かいかけたサネモだったが、トオサの声色が変わった事に気付いて振り向いた。見ればトオサは座り直し丁寧に頭を下げていた。

「私はここで終わる人間ですが、あなたはそうではない。このような場所に近づいてはいけませんよ。ここは負け犬の暮らす場所。貴方には相応しくないのです、旦那様」

 下を向いたまま動こうとはしない。その肩が小さく震えている様子が見えた。

「……元気でな」

 サネモは言ってトオサの住処を後にした。

 そのままブラウク区画の狭い小路を進み、ちらほらと歩いてくる住人とすれ違い大通りへ出る。空からポツポツと雨粒が落ちてきたが、足を止める事はない。やがてその姿は雨に追われる人通りに紛れた。

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