淡水の海

終める

淡水の海


 あ、呼ばれている。

それははっきりと、静かに、わたしの脳から胸に浸透してゆく。


帰らなきゃ。


そう思うのは、たとえば自分ではない「誰か」を演じる舞台の上。たとえば、今みたいに「恋人」の腕枕で目覚めた朝。だからわたしはその腕をするりと抜けて、海に行く。


京都とは違い、横浜はどこもかしこも海だ。それが一層あの人を近くに感じさせる。おかしな話だ。あの人と過ごしたほとんどが京都であったのに。朝の海は静かだ。海を割って好き勝手に生きる人間を許しているみたい。本当は許してなんか、いないのだけれど。自然の猛威。ああ、そうだ。あの人も自然の摂理に取り込まれた。きっと。繁殖本能に背いたから。母なる海に還った。ならば、私は?


 京都の夏は暑い。「京都」という場所に対しての、人々の持つ期待がそうさせるのだろうか。中学最後の夏、といってもわたしたちは中高一貫校に通っていて、成績から見ても高等部への進学は確実だったので、夏休みも特に根を詰めて勉強することなくこうして神社を二人で巡っていた。


「煩悩を払拭したい」

「正しい人間になりたい」


咲くんはそのようなことを言ってお賽銭を投げていた。おそらく、いや、きっとその煩悩を呼び起こさせたり、正しい人間から遠ざけてしまった張本人はわたしに違いないのだが。それを知らんふりしてどこまでも高く伸びる木々や、妙に清い空気ばかり気にしていた。

「咲くん」

声をかければ髪を短くしただけの、まったくわたしと同じ顔が振り向く。

「なあに、幸ちゃん」

色素の薄い髪と瞳。よくお人形みたいと形容される顔立ち。

「のどが渇いた」

「うん」

「早く行こう」

「うん」

半ば強引に、咲くんの腕を引く。スーパーマーケットとか、自販機でもいいから「俗世」を感じさせるものに触れたかった。神社にいると、咲くんがどこか、神様みたいな人に連れていかれてしまいそう。

幼心に感じていたそれは案外当たっていたのだな、と後になってから思う。

「ちょっとだけ待って」

けれど咲くんは急ぐわたしを制する。反対に私の腕を引き、こちらを向かせた。

「幸ちゃん」

あ。

一瞬だけ迷ったように見えたけれど、肩を引き寄せられて、そのまま熱を持った唇が唇と重なる。レモンでも何でもない、ただただどこまでも同じ味の同じ温度の唾液。

「外だよ」

咎めるようにわたしは言う。別に外でなければ許されるとも思ってはいないけれど。

「ごめん」

湿っぽい夏風が、咲くんの柔らかい前髪を靡かせる。その下の目は、すべてを知って、諦めたような、そんな色をしていた。

 

「美影さんだ。こんにちは」

神社の階段を下りて自販機の前で二人、ペットボトルのお茶を飲んでいると、同級生の男子生徒に声をかけられた。

「ごきげんよう」

「こんにちは」

めいめいに挨拶を返す。夏休みだというのに彼は、ポロシャツにズボンの「標準服」で自転車を引いていた。県内指折りの伝統校には、家柄とか、頭とか、いろいろなものが「よい」子しか通っていない。


「本当に二人は仲が良いね」

そう微笑まれて、咲くんと顔を見合わす。仲がいいだって。おかしいね。目と目を合わせるだけで思っていることが伝わってしまうのは、生まれた時からずっと一緒だから。もしくは幼いころ、遊んでいた「双子テレパシー」の賜物でもあるかもしれない。たとえば、咲くんが

「一番好きな色は」

と聞く。わたしたちはそれぞれに好きな色を思い浮かべる。そしていっせーのーで、好きな色を言う。それが揃えばテレパシー成功。基本的にお互いの答えを察してしまうので簡単なゲームだったが、一つだけどうしてもテレポートできないものがあった。

「『人魚姫』のお話で一番かわいそうなのは、誰でしょう」

 わたしは無論、人魚姫だと言い張っていた。声も何もかも捨てて地上に出て、それでも愛した王子を刺せず、泡になってしまったのだから。でも咲くんに何度そう主張しても、彼はこう言った。

「本当にかわいそうなのは、水底に沈むナイフを見つけた人魚姫のお姉さんだよ」


 三宅君の標準服が、夏の光を吸収してまた光る。それをぼんやりと見ていた。

「そうだ、祖父が『泉鏡花全集』を貸してくれて。幸さんも読むかい?」

 ロマンチズムと怪奇的なその作家を、当時の私は気に入っており、確か国語の授業でもそう話した。が、それをクラスメートが覚えていたとは思わなかった。

「わあ、読みたい」

「やっぱり。いつでも家に来るといいよ。下鴨川沿いの三宅って家、多分すぐにわかるから」

「ありがとう」

 他愛もない会話を交わしていると、視界の端にぎこちない笑みを浮かべる咲くんが映る。お腹でも痛いのだろうか。社交的な普段の姿とは思えず

「じゃあ、またその時はよろしく」

 慌てて会話を切り上げた。

「うん。本当にいつでも、待っているから」

 手を振り去っていく彼を見送り、

「どうしたの、咲くん」

そっと横顔をのぞき込む。

「なんでもない」

「なんでもなくないでしょう」

「なんでもないけど三宅くん、きっと幸ちゃんのことが好きだよ」

 ああ、焼きもちか。咲くんも存外幼いことをするのだな。なんて、その時のわたしはのんきに思った。人の道から外れた恋をしてしまった今ならわかるのに。それは焼きもちなんかじゃない。もっと深くて、痛い、暗い想いだと。

「ふうん」

 わたしはなんてことないように笑う。空の雲は散り散りになり、夏の嵐が近づいているようだ。


 夜。珍しく父親が食卓にいて、ああ、だからお手伝いさんが張り切っていたのか。華やかな食卓を、顔立ちだけは華やかな家族四人で囲んでいた。

「…咲も幸も元気にしていたか?」

 恐ろしいほどに「威厳」とか「大黒柱」という言葉が似合わない、少年のような面持ちで父親が尋ねると、わたしたちではなく母親が

「最近はよく二人でお散歩をしているわよね」

 とても必死に、「明るい」と「楽しい」を演じるかのように答える。父親といるときの母親は、かわいそう。父親がよそに愛人を作っていることも、わたしが知っているのだから母親は当然分かっているだろうに。

「今度、中岡さんと会食があってね。咲ももう中学三年生だ、付いてくるといいと思って」

「まあ、素敵」

 この家族のこれからを考えた時、嫡男の話は大切だが、その妹については特に話すことがないのでわたしは一人、きれいな魚をつつく。いつものように。

「わかりました」

咲くんは背筋を伸ばして答える。品行方正、成績優秀な、美影のおうちの跡取り息子。

 そしてまた、即興劇のように「楽しい」話を母が続け、どこか冷たい目でそれを父親が見るという素敵な家族団らんの時間を過ごした。


 コンコン。

そろそろ寝ようかと思っていた矢先にドアをノックする音。ドアをそっと開くと、ぽつんと咲くんが立っていた。

「ごめん」

 青白い顔でそれだけしか言わない咲くんを、部屋に押し込む。父親や母親に見つかるのは、なんだかすごく悪いことのような気がしたのだ。

「……」

 部屋に入れたのはいいものの、咲くんは何も言わない。しかし沈黙は時に言葉よりも雄弁。場を支配する濃密な空は、咲くんの言わんとすることを熱帯夜に満たす。

「僕ね」

 だめだよ。

そう言いかけた言葉は虚無になる。咲くんがあまりにまっすぐにこちらを見るから、声が出せない。

「幸ちゃんが、好きだよ」

 酸素が薄い。頭を一つ縦に振るだけで精いっぱいだ。

「これから先、幸ちゃんと離れ離れになって、もう会えなくなったりしても。それでも、ずっと好きだよ」

 ああ。これから先わたし達、兄妹が本当の意味で幸せになることなんて、なれることなんて、ないのだろうな。そう感じた。本能が理解していた。一瞬一瞬で喜びとかを感じて『あの時は若かったな』なんて今日のことを笑ったりする日も来るのだろうけど、それはまやかし。今、こうして咲くんの細いのにわたしより、ずっとしっかりした肩に顔をうずめているこの瞬間。それだけが、本当。

「知っているよ。ずっと」

 それだけ言う。背中に回された咲くんの腕が一層強く、こちらを締め付けた。


 その後のことは、よく覚えていない。朝焼けの中、母親が真っ白い顔をして起こしに来たあたりから、記憶は残っている。

「咲がいないの。どこに行ったのかしら」

 それから、学校の知り合いたちに連絡したり、警察が来たり、有線で市内に咲くんの捜索が流れたり、それらはすべて、音のないスローモーションになって頭を通過する光景。

海の近くで夜中に少年を見かけた。そんな目撃情報が伝わってきて、父親も母親も信じなかったけど、わたしはそれを咲くんのことだと思った。その夜見た夢が、咲くんが最後に送った双子のテレパシーだと思っている。


 海底を、走っている。早く届けないと。これがあれば、咲くんは助かる。わたしが手に握るのは、ナイフ。それを地上に放り投げれば咲くんが上手にキャッチして、ああ、よかった。そうわたしは思う。それなのに、咲くんはナイフを使わない。咲くんの道を阻む怪物は、母親で、父親で、クラスメートで、そして美影幸になる。いくつもの顔を持った怪物。

「早くそいつを殺してよ」

海底から叫ぶのに、声が届かない。何度も叫ぶけど、どこかでわたしは理解している。咲くんはそいつを刺せないこと。わたしにだって太刀打ちできないこと。やがて、ゲームオーバー。日が昇り、海底に沈むナイフと泡だけがわたしの目に映る。

かなわない想いに身を焦がして、海に帰ってしまった人。アンデルセンみたいな、おとぎ話の結末。


 神奈川の海を眺める。あの日みたいに朝陽がきれいだ。

「咲くん」

そっと海に呼びかければ、

「幸ちゃん、どうしたの」

と声が聞こえる気がする。声変わり途中の、苦しそうな声。声をなくした人魚みたい。


「幸、どうした」

そのとき不意に、声をかけられ、でもそれは咲くんの声ではなく、そうだ、朝起きたらいなくなっていたわたしを心配して探しに来たのだろう。だって彼女は私の恋人だから。

「海に呼ばれた気がしたの」

わたしは振り向かないで答える。さあさあと波は静かに舞う。

「何度も人の道から外れた恋をしてしまうから」

後ろに立つ恋人がごくり。と唾をのむ音がした。

「帰ろう」

 恋人は言う。それでも黙っていると、右手を引かれ、意外なほどの強さに驚く。気づいたら彼女の腕の中に、わたしは居た。

「よしよし…泣かないで。幸」

 一人でのうのうと生きながらえてなお、こんな愛情を与えてもらえるなんて。その愛もまたきっとこの世界では、許されざるものなのだけれど。ぼろぼろと涙が頬をつたう。

 涙はやがて、海になる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

淡水の海 終める @mel0330

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ