第9話 ジニア・スオンは急に旅立つ
翌朝早く、ジニアが目覚めると。父、ユンシュは古ぼけたスーツケースを引っ張り出していた。ジッパーのついた丈夫な帆布張りのもの。キャスターが付いた、いつでも夜逃げできそうに大きなものを二つ。
空のそれらを叩きながら父は言う。
「さて。パパと旅行だ、どら娘よ」
ジニアは息をついてみせる。
「要は逃げるワケね、そりゃあいいけど……そんな大荷物でどうすんの」
そのとき。機械のように力強い何かが後ろから襟をつかむ。抵抗する間もなく、子猫のように吊るし上げられた。
「ちょ、や、え?」
吊るし上げた張本人、マーチは片手でスーツケースを開ける。無言のまま、持ち上げたジニアをそこに入れようとする。捨て猫をダンボールに入れるみたいに軽々と。
突然のことで、しかも首筋に触れた手には体温が無くて、鳥肌が立った。身を縮めながらジニアは足をばたつかせる。
「ちょ、ちょ何、何、何してくれてんの!」
「早く準備しようってのは分かるが。説明ぐらいしてからにしてやれ」
父は笑い、それから手短に話した。なんでも、
「で? なんでこの人はあたしを、シーズンの過ぎた冬物みたく折り畳もうとして下さるワケ?」
なおもスーツケースに押し込もうとするマーチの手をかわし、あるいは両手ではたきながらジニアは言った。すでに下半身を突っ込まれたままで、
妙ににやにやと笑いながら、父は煙草に火をつけた。
「それに乗って行くからだ、お前がな。相手の狙いがお前なら、そのままじゃあ目立ち過ぎる。何だ、昔は好きだったろ? 乳母車代わりに押してやったら、きゃっきゃと喜んでいたろうが」
「知らねえよいつだよ、どんな子育てして下さってんだよ。で、だったらそっちのは何。乗り心地のいい方選ばしてくれんの、わー親切」
そのとき、マーチに両肩をつかまれた。一度持ち上げられ、すぐにずぼりと、首まで中に押し込められる。
「ちょ……」
首をめぐらし顔を上げると、マーチと目が合った。濁った瞳と剝き出しの歯茎が見えると、どうしても顔が固まる。
青白い顔のまま険しい表情をしたマーチは、何か熱心に口を動かしたけれど。その口からは生ゴミに似たにおいと煙草のにおい、消臭剤の不自然な香りがするだけで。声は一つも出てこなかった。
マーチは不意に口を止め、眉間を歪めた。そのまま顔を背ける。
小さく息をついて父が言う。
「……そんなものに隠したところで、やはりばれるだろう。だから二手に分かれる。わしと空のケース、お前とマーチ。それで多少は追手もばらける」
「え?」
把握するまで時間がかかって、それからすぐに身を乗り出す。
「それって、そんな、危ないじゃん! それより三人で――」
煙草をくわえたまま、父は眉を上げてみせる。
「わしの心配か。珍しい、親も長いことやってみるもんだ。大丈夫だ……わしが昔殺し屋に勝ったという噂、聞いたことがあるか? あれはな、嘘ではない。もう二度と勝てやせんだろうがな」
父は顔を上げ、口の端を上げてマーチに笑いかける。
「なあ? マーチ。娘を頼むぞ、先に行く」
「パパ!」
スーツケースの縁に手をかけ、ジニアは立ち上がろうとする。押さえようとするマーチの手を振り払い、ケースから片脚を出したところで。
父の骨ばった手が、頭に置かれた。そして撫でてくる、いつものようにごりごりと。
「ぐずったときはな、マーチ。撫でてやれ、こう、骨を揉むようにやるのがコツだ。軽くだぞ」
ジニアが何か言う前に、父は戸口へと向かった。振り向かずに言う。
「何も心配は要らん。お前の親父は強い」
空のケースを引く音を残し、外へ出ていった。
そうして家の中には、ケースから片脚を突き出したままのジニアと。体温のない男だけが取り残された。
後ろから肩を叩かれる。振り向くと、マーチがスーツケースを指差していた。
「待って。待ってって、荷物ぐらいあるんだからさ」
スーツケースを飛び出して自分の部屋に行き、父に言われて荷造りしておいたリュックを取る。もしかしたら二度と帰ってくることがないんじゃないかと、部屋をもう一度見渡しかけて。かぶりを振り、すぐにマーチのところへ走った。真っすぐ見るには多少なり覚悟がいったが、目を見据えて言う。
「行こう、すぐに! パパのとこ」
跳び込むように、スーツケースに肩まで入ったというのに。マーチは聞こえていないかのように、煙草に火をつけただけだった。
「ちょっと、聞いてるの! 耳まで腐ってるワケ!」
剝き出した歯の隙間から煙を漏らして、マーチは肩をすくめた。それから親指で、額の傷穴の横を叩く。どうやら、腐っているのは脳みその方らしい。
「あ・の・ね。あたしは準備できた、とっとと追いかけて!」
マーチはゆっくりと、首を大きく横に振る。濁った目は何か悲しげにジニアを見下ろしていた。
ああ、とジニアは思う。二手に分かれるってパパが言ってた、だからか。すぐに出たり合流したらその意味がない、ってこと? そんなのどうでもいいじゃない。
スーツケースから出ようとしたが、冷たく大きな手がそれを押さえ込む。
「離して、離せ!」
ジニアは拳を握り、マーチの手を、体を叩いた。
マーチが何か考えるように掌を見て。それからおずおずと、ジニアの頭へ手を伸ばす。
その手が髪の先に触れたところで、ジニアは振り払う。
「触んな死体っ!」
固まったようにマーチの手が止まり、まるでしおれるみたいに力なく引っ込められる。顔もうなだれるように背けられていた。
その隙に飛び出そうとしたけれど、マーチの反対側の手は別の生き物のように動き、ジニアの肩を押さえていた。
ため息をついてスーツケースの中に腰を下ろす。
「……オーケー。オーケー、分かったからもう。パパと約束してるワケね? どうしても二手に分かれて行くって」
うつむいたままのマーチは視線を向けようともしなかった。
居心地の悪さを感じながらも、謝れないままジニアは言う。
「あ~……じゃあ、うん、それでいい。けど、あたしとも約束して。パパもあたしも無事で帰れるようにするって。マーチも――」
そこまで言って思い当たる。既に死んでいる人間に、無事も何もあるのか? そもそも死んだのならこうして動いているのは何なのか、いつまでこうしていられるものなのか?
視線を泳がせながら続けた。
「――マーチも、無事で」
マーチが下を向いたまま、目だけを向ける。小さくうなずくのが見えた。
ため息をついた後ジニアもうなずく。それから素早く、マーチのコートへ手を伸ばした。ポケットをまさぐり、煙草とマッチを抜き取る。口にくわえ、火をつけながら言う。
「そういうワケで、よろしく。さっさと行こう、できるだけね」
その言葉が終わると同時。顔に覆いかぶさるように、青白い手が広げられた。その手は火がついたままの煙草を引っさらい、音を立てて握り潰した。
「ちょ……」
口を開き切る前に、震える拳が鼻先に硬く押しつけられた。
「痛! ちょ、痛い!」
背けた顔の前で手は広げられ、粉々になった煙草を落とす。その手はそれから目の前で、再び拳に握られた。
掌をマーチに向け、顔を遠ざけながら言う。
「ごめん、ごめんって! 返すから」
煙草とマッチを突き出しても、マーチは拳を引っ込めなかった。
「分かった、もうしない、吸わないから!」
マーチは拳を開いた。煙草をポケットに収めながら、小さくうなずく。
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