第7話  腐る前の彼と、腐ったような過去と


 ――三体式の構えから、半歩踏み出し拳を繰り出す。同時、引きつけた後足が床を踏み鳴らす。筋肉が盛り上がる腕には血管が青く浮き出ていた。どこも腐ってはいなかった。十年少し前のマーチは。


 紅く夕陽が差す広間の中、さらに踏み出し、左の崩拳。また踏み出しては右の崩拳。繰り返し素振りする、その拳は血にまみれていた。その腕も。身につけたジャケットも。サングラスをかけていない顔も。体には斬りつけられたような傷がいくつも口を開け、今も血を垂れ流していたが、彼の体を染めた血は、それだけでは足りない量だった。


 踏み込みの音だけが、赤い絨毯の敷かれた広間に響いていた。絨毯は所々、明らかに紅過ぎる色に湿っていた。マーチが足を踏み締めるたび、辺りに転がる黒檀の椅子が、割れて散らばった豪奢な酒器が、震えて音を立てた。横倒しになった幾つもの円卓が、天井から下がる錆びかけたシャンデリアが、軋んで揺れた。辺りに転がった幾人もの人間、これはもう、動く者はいなかった。口から鼻から、ある者は目から血を流し、息絶えていた。


 ある者の胸板は打ち抜かれたようにへこみ、ある者の喉は引きちぎられたように破れ、ある者の首は真後ろを向いていた、砕けた前歯を辺りにまき散らして。皆、何らかの武器を手にしたまま死んでいた。短刀、棍棒、片刃の曲刀柳刃刀、稀に拳銃。


 テラスから生ぬるい風が入り、店の中にたちこめる血の匂いをかき混ぜた。乾いてしまうな、とマーチは思った、変わらず足を踏み込みながら。血でぬかるむ足場での鍛錬も、実戦には必要だというのに。


 階下から、叩きつけるように扉を開ける音がした。続いて何人もの足音と、わずかなどよめき声が。足音はさらに続き、マーチのいる二階へと上る。怒鳴り声が響いた。


「てめえっ……マーチ! 何してくれてやがる!」

 声を上げたのは頭の両側を刈り込んだ、口髭のある男。大きく襟の開いたシャツの下から、日月をかたどった白黒の刺青いれずみ――零地址リンディズゥの紋――をのぞかせている。後ろには何人もの男たちが従っていた。

 手にした柳葉刀を顔の前に振り上げ、男は言う。

「いいかオイ、確かに抗争出入りを手伝えとは言った、だがな。誰が一人で襲えカチこめッつッた! あ?」


 変わらず拳を振るいながら、合間にマーチは口を開く。

「誰が言った。一人で襲うカチこむな、とよ」


 男は顔を引きつらせ、口を開きかけたが。

 マーチはそのとき足を踏み込む、一際高く音を立てて。

 次の瞬間。床が震え壁が震え、天井で揺れるシャンデリア、その根元にひびが走る。崩れる土台ごと落ちたそれは床の上で、音を立ててガラスの飛沫を飛び散らせた。男の目の前で。


 頬から血を流す男を見ながら、ようやくマーチは手を止めた。天井を見上げてつぶやく。

「古い店だ。……マシな相手を用意してから、一人前の口をきくことだな」


 空気が無くなったみたいに口を開け閉めする男へ手を差し出す。掌を上に向けて。

「現金《カネ》。出せよ、いつものとおり。現場で現金と極上の火酒《ウォトカ》、約束のはずだ」


 未だ呆ける男に向け、顔をしかめて息をつく。

「後で取りに来いってェのか? ……いいんだな? お前ん事務所《とこ》、ここみたいに古いだろう。いや、ここより古い。更地にする予定があるなら、まずは安心だろうがな」


 口元を引きつらせた男は血を拭いもせず、後ろの者らにあごをしゃくる。若い男が進み出、膨らんだ封筒と透明な酒瓶を渡した。

 マーチは瓶の封を開け、火の点くような酒を喉へ流し込む。瓶の底を天井へ向け、四口ほど。それから深く息をつき、再び構えて拳を振るった。


 呆れたように見る男たちの中から、作業着を着た年かさの者が進み出る。白髪の多い、芝生のような髪をした男。

「お前さん、どう転んでも長生きできねぇぞ。せめて、どうだ。こういうのを仕事に使っちゃあ」


 手にしていた銃器を差し出してみせる。細長い箱を組み合わせたような、単純な形の小型機関銃サブマシンガン二丁。拳銃に近いくらいのごく小型。

 マーチは鼻で息をつき、引ったくるようにそれを取る。


「おい、くれてやるたぁ言っ――」

 顔をしかめる男の喉に突きつけた。銃口ではなく人差指を、喉の肉と気管の間へ、差し込むように。そこは鍛えようのない急所。気管ごと引き裂くことはたやすかった、その気になれば。


 男の顔が固まる。ゆっくりと両手を上げながら、引きつった表情で笑みを浮かべた。


マーチは火酒をあおって言う。

「助かるね。売っ払えば、いい飲みしろになりそうだ」

 ベルトに無理矢理銃を挟むと、口を開けたままの男たちを残し、その場を後にした。


 潮気を含んでべとつく夕風はぬるかった。遠く港では、貨物船が老いた犬のようにゆっくりと、小さな曳舟タグボートに曳かれて外海へと向かうのが見えた。山の手に建ち並ぶ建物は見上げるように高く、港側の街はいずれも、浅瀬に張りつく貝のように地にこびりついていた。その間をマーチは歩く、火酒をあおりながらことさらにふらついて、人へわざわざ肩をぶつけて。絡まれるたび待ち受けていたように笑って、拳を振るって。


 マーチ・グァンはいつもこうだ。それは少年の頃、西洋人の母に捨てられた時からか。自分たちを捨てて祖国へ帰ろうとする母を、見送る父があきらめたように笑うのを見た時からか。父の横面を殴ったその日に家を出た時からか。形意拳シンイーチュエンの道場を覗き見、来る日も来る日も稽古を真似続け、やがて入門を許された時からか。マーチはいつもこうだった。


 やがて日が沈み、瓶の半分以上が空になったところで家に帰りつく。家というよりもねぐらねぐらというよりも巣穴といった方が似合う場所だった。酒場街の片隅、板壁の隙間からアルコールと吐瀉物のにおいが漂う部屋。窓はなく明かりもなく、湿った土間と、木箱の寝台と、黴臭い毛布があるばかりの部屋。


 子供でも蹴破れそうな板戸を、音を立てて押し開けた。回りの悪くなった舌で声を上げる。駄犬を呼ぶように、暗闇に女の名を呼んだ。

「おゥ、帰ったぞ。おゥ、エイミア、エイミア!」


 板壁の隙間から入る外の明かりに、蜂蜜色の髪が揺れる。エイミア・エニアックは今日も顔をわずかに伏せ、菫色の目だけを上げて、泣きそうな顔で笑っていた。


 だから今日も、マーチは彼女の頬を張った。残り続ける痣の上から。


 何も無い女だった、何も無くした女だった。西洋から越してきた貿易商家の娘、事業で黒社会ヘイシャーホェイに借りを作り、強請ゆすられたかられ何もかも消え、家族に売られた女だった。

 マーチは以前客となり、どうにも虫が好かなかった。だから彼女を買い上げた、娼館主から拳と金で。

 エイミアの笑みは、どうにも昔の自分のようで。父のあの、あきらめた笑みのようで。だからマーチは、見るたび殴った。目を背けることができなかった。殴ることの他、マーチは何もできなかった。


 横面を張られ、そのままの姿勢でエイミアはいた。マーチより頭一つ半低い体をこわばらせて。

 マーチは眉をひそめる。妙だった。いつもならエイミアは身を引きながら、いっそう曖昧に笑うばかりだった、顔を伏せて。


 あのね。

 消え入るような声でエイミアが言う。

「あ?」

 マーチの声に被さるように、再び小さな声が上がる。

 あのね。もうね、出ていこうと思うのね。


 マーチの表情は変わらなかった。エイミアがそう思わないはずはないと分かってはいたが。それを口に出したことが、信じられなかった。

「……あ?」

 促されたと思ったのか、エイミアが言葉を継ぐ。

 だからね。さよなら。

「おッ、い、待て。待て!」

 エイミアの腕を取る。


 エイミアは顔を背けたまま、食い込むマーチの指に手を添えた。振りほどこうともせず、言った。はっきりと。

「あなたではね。父親には、なれない」

 ……あ?

 消え入るような声で、マーチはそうつぶやいた。それからようやく声を上げる。

「そりゃ、どういう……おい。おい!」


 小さな肩をつかみ、揺すぶる。エイミアの体はがくがくと揺れ、それでも顔は背けたまま、じっと中空の一点を見ていた。

 マーチの顔が震えるように引きつった。いつものエイミアなら、崩れ落ちるようにしゃがみ込んで泣きながら謝ったものだ。

 エイミアが顔を上げた。泣くような顔で笑っていた。

「ごめんね」


 マーチの顔がこわばった。無意識に右手を握り、腰まで引いていた。それは崩拳ポンチュエンの構え。今日も幾人もの命を奪った技の構え。

 そのとき、戸口から声が上がる。


「やめておけ」

 振り向くと、兄弟子あにでし、ユンシュがそこにいた。戸口から差し込む酒場街の明かりを背に、陰になった顔の中、丸眼鏡だけが光って見えた。

「やめておけ。お前のそれじゃあ、死ぬぞ。腹の子も一緒にな」


 顔のこわばりがやっとほどけ、マーチはきつく顔をしかめた。

哥哥兄者……何であんたが。そうか……あんたがそれの新しい男、か」

 マーチは構えを取る。火酒の酔いでふらつきながら、三体式の構えを。


 ユンシュは肩を落とし、あからさまにため息をつく。煙草をくわえ、火をつけようとして手を止め、マッチを捨てた。エイミアの肩を抱き寄せる。

「そうだ。お前がそう思うならな」

 マーチの顔が、ちぎれそうに引きつる。

「てンンめェェ……!」


 ユンシュは表情を変えず、ただエイミアを下がらせた。ゆっくりと呼吸をし、手を大きく広げて上げる。円を描くようにそれを下ろし構えた。あまりに型通りな三体式。

 同じく三体式の姿勢でいたマーチは、ゆるりゆるりと腕を動かし、小さく足を寄せ間合いを詰める。肩を拳をおこりのように震わせ、酒臭い息を荒く吐いて。


 ユンシュがゆっくりと口を開き、くわえていた煙草を落とす。

 瞬間。マーチが踏み込む。繰り出すのは右の崩拳ポンチュエン。臓腑を破る必殺の武器。

 しかしそれは空を切った。同時、いや、マーチより先に振るっていたユンシュの腕で。

 かき分けるように振り上げたユンシュの両腕。マーチの拳はそれによって、外へといなされていた。体勢を崩されたそこへ。顔と顔とをぶつけんばかりに、ユンシュがさらに踏み込んだ。そして体ごと腹へと浴びせる、両手での掌底。その音が低く鈍く、響く。


「ご……あ……!」

 うめくマーチは、吹き飛びはしなかった。ただその場に崩れ落ちた。虎形拳フーシンチュエンの衝撃はその体内を駆け巡った。胃袋を背骨に叩きつけられたような、その背骨が軋むような。地に膝を着くマーチの中を、かき回されたはらわたが駆け上がり、肺腑へ喉へ絡んで締めつけるような。よだれを垂れ流しながら、そのまま横へと倒れ込んだ。息はうめきとなって出ていくばかりで、吸っても吸っても肺には入ってこなかった。


それでも声を絞り出す。

「何……で、だ……あ……た、なんぞに」


 ユンシュは構えたままでいたが、やがて顔の汗を拭う。大きく息をついた。

「お前は強いよ、わしより、師より。だがな――」

煙草を拾い上げ、くわえた。マッチの火が顔を橙色に照らす。

「――形意シンイー即ち心意シンイー。お前にはシンが無い」

 紫煙を一つ吐き出して背を向けた。促すようにエイミアの背に手を添える。


 引きちぎられるように、マーチの中の何かが軋んだ。引きちぎれるように、マーチの顔は歪み切った。呼吸すらもままならない中、両手だけが別の生き物のように暴れた。ユンシュに向かって指を伸ばし、這い寄ろうと土に爪を立てる。それでも届くはずもなく、歯を噛み鳴らしたとき。両手は思い出していた。


 蛇のように土間を擦りながらベルトをまさぐる。そこに手挟んでいた物を取り出し、地に伏せたままユンシュに向けた。震える手が握るそれは、零地址リンディズゥから奪い取った二丁の機関銃。


 眉をひそめたユンシュの口から、煙草が滑り落ちた。エイミアを押しやり、かばうように前へ出る。つぶやいた。

「そこまで、堕ちたか」

 

 マーチは顔を歪めたまま、ユンシュの顔へと銃を向ける。暴れるように手が震えたのはままならない呼吸のせいか、重さのせいか。


 引き金に指をかけた、そのとき。


 エイミアが歩いた。跳び退くでなく駆け寄るでもなく、ただマーチの方へと歩いた。エイミアはマーチを見ていた。目を伏せてはいなかった、もう笑ってはいなかった。眉根を寄せ、困ったような顔をして。目を開けたまま、泣いていた。憐れむように泣いていた。


「な……」

 銃口をそちらに向けるマーチを見て、首をゆっくり横に振る。傍に来て、しゃがみ込んで、掌をマーチの頬に当てた。手で口づけるように、ひたり、と、長く。そうして片手で、ほぐすように、銃を握った手を取る。冷たくそのくせ柔らかなそれは、ほどなく銃をつまみ上げる。頬から離した片方の手も同様に、難なく銃を取り上げた。


 力を無くした手を土間に放り出したまま、マーチはエイミアを見上げた。もう言葉は出なかった、息は詰まっていた。ただ、手を伸ばした。

 エイミアは迷うように手を出しかけ、それでも立ち上がった。銃を手にしたまま、ゆっくりと、戸口の外へと出ていく。振り向きはせずに。


 ユンシュがつぶやいた。

「……勿体無いな。お前にも、わしにも」

 出口へと向かいながら振り向き、言葉を続けた。

「これだけは言っておく。腹の子はな、お前の子だ。父親なんだよ、お前は」

 口を開けたままのマーチの前で、小さく軋む音を立て、扉は閉ざされた。――


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