第5話  彼と、娘とその義父と


 ジニアは横たわっている自分に気づいた。目をつむっていることにも。身じろぎをすると、覚えのある固さと弾力が下から返ってくる。自宅のソファーの上に寝ているらしかった。

 ひどい夢を見たと、目を閉じたまま思う。マーチと初めて会ったときのことはともかく、その前の夢。追われたり、マーチがゾンビのようになっていたり。あれはひどいにおいだった、夢の中だというのに。


 そこまで考えたところで、そのにおいが今もすることに気づいた。幾分マシになり、何か消毒液の匂いが混ざっているけれど、確かに同じ。腐れた生ゴミのようなにおい。

 目を開けると。こちらに背を向け、椅子に座ったマーチがいた。服は夢の中のものでなく、古いコートを羽織っていた。


 父はその前で、何やらマーチの体に包帯を巻いていた。丸眼鏡をかけたその目がこちらを向く。

「気がついたか。もう少し横になっていろ」

 マーチもジニアの方を振り向いた。その目は、歯を剝いた口元は、額の穴は。夢の中と同じだった、腐れていた。血肉こそ拭われていたものの。


 魚のように口を開け閉めしながらマーチを指差すジニアに、父は首を横に振る。

「はしたない。失礼に当たることだぞ、母さんの祖国ではな」

 ジニアは思わずソファーをはたく。

「そうじゃないでしょ! その、マーチ、マーチが、死ん、あの……」


 いつものように眉間に皺を寄せたまま、父はまた首を振った。

「騒ぐな。稀にあることだ、死体が歩き出すことはな。話したことがなかったか?」

 首を横へ振り回すジニア。


 表情も変えずに父は言った。

「葬儀屋なぞやっとれば、嫌でも何度かは目にする。わしも見た、ガキの頃と十五年ほど前だな。一人は婚礼前に事故死した若僧。もう一人は大往生した爺様だった」

「何それ、何、それ、なんで、なんでそうなんの」


 父はまた首を横に振る。

「さあてな。たまたま、だろう。さっき言った若僧、あれには未練があったろうな。蘇えった後も嫁さんの所へ行こうとしとった……向こうさんの家族に火をかけられて、また死んだが。もう一人の爺様はただ、日なたで土に還るのを待っておった。――どちらも、立派な死に様だったよ」

「はあ……へ、え……?」

 顔をこわばらせるジニアをよそに、父はまた包帯を巻く。

「さ、これで良し」


 何をしているかはジニアにも分かった、消毒液の匂いや、ビニールを敷いたテーブルの上、容器の中で煙を上げるドライアイスを見て。

 スオン葬儀店ではごく簡素な遺体防腐保全エンバーミングも行なっている。今度もそうしたのだろう、消毒して防腐剤を打つなり、消臭剤やドライアイスを仕込むなり。そんな光景には慣れていたはずだったが、さすがに頭が痛くなる。

 服を着せ直しながら父がマーチにささやく。

「多少はマシなはずだ、そのまま腐れるよりはな。それと……心配するな、忘れ物は隠しておいた。あそこにな」


 マーチはうなずくように小さく頭を下げた。体の具合を確かめるように、手を握っては開き、腕を曲げ伸ばしする。その左掌にはナイフの傷口が細く口を開けていた。ただ、そこから血が流れ落ちることはなく、青白い肌の中に肉が薄赤くのぞいているだけだった。

 じっとその手を見た後、マーチは立ち上がる。腰を落として構えを取った。ゆっくりと腕を振るい、振り上げた掌を打ち落とす。踏み込んだ後脚が、同時に軽く床を鳴らす。続けて下から拳を打ち上げる、やはり後脚を引きつけると同時に。それらは大きな動作ではあったが、黒服たちを倒したのと同じ動きだった。


 父が言う。

「懐かしいな。形意拳シンイーチュエン……お前もわしも、あの流派ではしごかれたものだ。お前は強かった、特に――」

 マーチは続けて右拳を振るう。後脚の踏み込みと同時、斜め下へと突き込む縦拳。最後の黒服へ放った技、ジニアが夢の中で見たのと同じ技。

「――崩拳ポンチュエン。お前のそれを受けて、立っていられる者などいなかった……あるいは、息をしていられる者など、な」

 マーチは構えを解く。小さく首を横に振り、わずかに肩をすくめた。


 父もマーチの目を見ながら、首を横に振る。

「さて、と」

 洗面器の水で手を洗い、入念に消毒した後。父は煙草に火をつけた。ジニアを横目に見る。

「それよりも。お前、何かしたか。おっかない連中に」

 ジニアが激しく首を横に振ると、父はテーブルに何かを置いた。ナイフ。刀身の根元に三又の矢印が彫られた、黒服がジニアに突きつけていたもの。


「この紋。三尖会トライデントのものだ……妙なことにな。黒蓮ヘイリァンは奴らの縄張りシマではない。抗争だのといった話も聞かん」

 ゆっくりと煙を吐き出し、煙草を灰皿に置いてジニアの目をのぞき込む。

黒社会ヘイシャーホェイは、あれで中々社会性のある連中だ。野良犬よりは多少な。わざわざ縄張りを侵してうろつきはせん、三尖会トライデントがここにいる理由が無い。……お前、何をした?」


「んなこと言われたって……」

 ジニアは苦く笑ってみせたが。父はじっとジニアを見ていた。

 笑みを消し、顔を歪ませ、ジニアは力なくかぶりを振る。

「ホントに、分かんない。分かんないよ」


 マーチが手を伸ばし、指でテーブルを、こつ、と叩いた。それからその手を自分に向け、胸と腹を指で叩く。人差し指で、す、と切り裂く動きをした。

 父が言う。

「臓器、か……確かに三尖会トライデントは、そうしたものも売買している。しかし何故、ここで」


 ふと思い出して、ジニアは口を開いた。

「あのさ、そういやなんか、あいつらがさ。持ってたんだ、写真。前にあった健康診断の時撮ったの。あたしにだけ丸印つけて」

 父は目を見開いて、それから煙草を口にくわえた。噛み潰しながら、口全体で煙を吐き出す。

「そういう名目で、適合者を見繕っていたわけか……? 糞め」

 灰皿ににじった後、新しい煙草に火をつけた。鼻から煙を昇らせて、歪めた顔から力を抜く。


「縄張りの外でまで探すとは解せんが……やれやれ、お前を買いたいのはよほどの金持ちか? まったく」

 手を伸ばし、ジニアの頭を引き寄せてなでた。骨ばった手でごりごりと。

「そうと知っとれば、とっとと売っ払ってやるところだわ。ん?」

「ちょっ――」

 ジニアは顔をしかめ、手を払おうと腕を上げる。

 なでていた手を返し、ジニアのその手を父は握った。

「冗談だ。どら娘め、お前を親父以外の所にやりはせん。婿さんの当てができるまではな」

 口を開け、父を見て、それからジニアはうつむいた。

 パパ。そう言いたかったけれど。

「……ん」

 ただ曖昧あいまいにうなずいた。頬が少し熱かった。

 顔を上げると、マーチが、じっ、とジニアを見ていた。ただれた顔に表情はなく、白く濁った目からは、どんな感情もうかがえなかった。


 ジニアは父に言う。

「それより、あのさ。…………何で死んじゃったの、マーチ」

 一度マーチに目をやり、また父を見上げる。

「何で死んじゃって、何で、それにどうすんのこれから! ……どうなんの。ねぇ、ねぇ――」

 さえぎるように、マーチが掌を突き出した。消毒液の匂いがする大きな手。掌に爪跡が残る他、色のない青白い手。黒服たちを打ちのめし、殴り潰していた、手。

 思わず、身を引いてしまった。弾かれたように素早く。

 マーチは姿勢も表情も変えず、濁った目でジニアを見ていた。そしてゆっくり、顔をそむける。


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