第2話 小湊 美沙


ーー交通課一係



「小湊くん。警視監殿がお呼びだよ」

「ええ〜っまたぁ?!」


「文句いわない。早く行け!」

「はいはい…」




先輩警官に軽く敬礼をすると、小湊 美沙 ( こみなと みさ ) は小走りで


警視監が待っているであろう例の場所に向かった。




例の場所とは2階廊下にある自動販売機の前である。




「…来たか……」

「いつもいつも自販機の前で待ち合わせなんて、警部も芸がないですねぇ…」




階段横にある自動販売機の前に立っているひとりの男性は


逆光で表情がよく見えない。



「……警視監だ」



美沙を待っていたのは


最近昇進したばかりの黄道 潤 ( おうどう じゅん ) 警視監だ。




「きどうさん! 慣れてなくってすみません!」




階段を急いで上がりながら、美沙はその男性に声をかけた。




「おうどうだ…」




男性は少しイライラしたように声を荒げる。



その声に驚いて美沙は階段の途中で足を止めた。



「あ……お、おうどうけいしかん……す、すみませ…」

「君は…」黄道は溜息混じりに続けた。「……何度俺の名前や役職を間違えれば気がすむんだ?」


「その…『何度』…と言われましても…」




美沙は言葉に詰まって自分の足元を見る。




この男は…24歳の美沙より僅か三つしか年上でないというのに


最近、《警部》から《警視》、《警視正》、《警視長》…なるものを全てすっ飛ばし、いきなり警視監になったという恐ろしい経歴を持つ。





その上、そのままとんとん拍子で《警視総監》になるのではないか……と影では密かに噂をされていた。




そもそも、本来はここ( 警察庁 ) ではなく警視庁で働いているのだが


何故か時々こうして古巣である警察庁に用もないのにわざわざ出向いて来る。




足を運んだついでに


ここに勤めていた時と変わらず、当たり前のように決まって昼食後、自動販売機の前に美沙を呼び出す。



話しの内容は美沙の勤務状況についての報告だが。



どうやら美沙の上司だった癖が抜けないらしい。



せっかく出世したのに面倒くさい奴……と美沙は内心思っていた。




しかし


意外にも彼は美沙に向けて手招きをする。



「……なんでしょうか?」

「いいから。こっちに来い」

「……」



ーーガコン!!




そして


親切にも美沙の好物であるコーンポタージュの缶を自動販売機から取り出した。




つまりは買ってくれたのだ。




「……わたし、お金払いませんよ…」




美沙は、おずおずと黄道の隣りにやって来ながら


顔の前で大きくバツを作った。



「持ってきてませんよ…の間違いじゃないのか?」



黄道の意地の悪い言葉に



「う…」



傍の長椅子に座り込む。



「安心しろ。おごりだ」



黄道は親指と人差し指で摘んでいる缶を


美沙に向けて軽く振った。



「…『おごり』……?」

「そう。おごり」

「『…おごり』…?」

「早く受け取ってくれ。…熱いんだ」




不信な目を向ける美沙に


コーンポタージュの缶を突きつける。




「……もしかして、『ワイロ』…ですか…?」

「違う。なんでそうなるんだ? それに、君は今、酷くお腹が空いているんじゃないのか?」

「……」



美沙は考え込んだ。



ーー…確かに……わたしは今とてもお腹が空いている…。



水分は摂っているが、昨夜から何も食べてはいない。


いや、昨夜から…と言うのは違う。



つまりは昨日のお昼からだ。



この大都会での家賃は高く、加えて衝動買いをしてしまった為に今の美沙はとても金欠だった。



そして給料日まではあと1日…。




「あの……けいしかんが、どうしてわたしが酷く空腹だということをご存知なのでしょうか…?」



物事を疑ってかかるのは警察官としては日常茶飯事的なことだ。



「昨日から見ていたからな。君を…」

「み…見ていた…?」

「ま、そうだ。正確には交通課の峰岸くんが…だが。これ、いるのか? いらないのか? どっちだ?」



ーーくっそ、峰岸……




彼女は美沙の同期で、美沙同様、交通課から刑事課への異動を狙っている。





「ど、どーしてわ、わたしを、み…!」

「…見ていたのか…? これ、いるのかいらないのか? どっちだ?」

「それは…その…」

「あ、そう…」



煮え切らない美沙の態度に


黄道は、缶をもっている手を美沙の目前からすいっと動かした。



美沙は缶の行き先を見つめていたが



「それ…どうするんですか?」

「いらないのなら、この缶の行き先はひとつ」



その缶は、空き缶が捨ててあるゴミ箱へと向かっていく。



「ああっ?!」



美沙はその場に立ち上がった。



「……」



黄道は美沙の表情を観察しながら、くいっと缶を美沙の方へと動かす。



「……どうした? 君はワイロならいらないのだろう?」

「け…けいぶ……それって、やっぱり…わ…『ワイロ』……なんですか?」

「俺は警視監。いらないんだったらこれがどういう道を辿ろうとも君には関係ないはずだろう?」

「それは…そうですけど……」

「じゃあ…」



コーンポタージュの缶は空き缶入れに、無情にもストン…と落とされようとしていた。


「ああっ! けっ、けいしかん!!」



手から放そうとしていた缶が、その場に止まる。



「……なんだ?」



止まった行為に美沙はホッと息を吐いた。



「いらないんじゃないのか?」

「でも…も、勿体無いんじゃ…」

「…勿体無い? 」

「…それに…空き缶の中にひとつだけ中身がある缶が混じっているなんて、明らかに道徳的に間違ってます!!」

「それは、いつも俺の名前と役職を間違える君の口から出る言葉とは思えない程の台詞だな」

「…まあ…そうですけど…」




ーーだって、名前を覚えるの苦手なんだもん…。


人には得て不得手なことがある。


だから人間って個性的だと思う。



わたしはそんな人間が好きなんだ…! と自分に都合のいい言葉を言いそうになり、美沙は慌てて言葉を飲み込んだ。



黄道は美沙を黙って観察していたが



「……」



未だ持っていたコーンポタージュの缶を不意に美沙の方に差し出した。



「……え?」

「やる」

「でも……」

「安心しろ。無理難題は言わない」



美沙はおずおずとその缶を受け取ってプルタブを開けた。



瞬間、ふわっと美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。



「……ほんとに貰ってもいいんですか?」

「いい。ゆっくり飲め」

「い、いただきますっ!!」



ゴクゴクゴク……



缶ごと食べる勢いで、一気に中身を飲み始める美沙。


「そんなに慌てて飲むと味なんてわからないんじゃないのか?」



黄道は美沙の隣りに座り、夢中に飲んでいる美沙の姿を眺めている。



ゴクゴクゴ、……


しかしすぐに飲むのをやめて缶をじっと見つめる。



「……どうした?」

「…不味い」

「冷めたのは俺の所為じゃないぞ。君が早く飲まないからだ」

「……」



美沙はしばらく缶を睨んでいたが、今度は残ったコーンをなんとか全部飲み干そうと缶をぐるぐると振り回して悪戦苦闘し始めた。



そんな美沙を黄道は呆れて見ていたが、やがて小さく溜息をつくと



「右回りだ」

「え…?」



右手首を右回しにぐるぐると回した。


「むやみやたらに回すよりも右に何回か缶を回すと、コーンが缶の中に満遍なく回って飲みやすくなるんじゃないのか? もしくは一箇所に凹凸をつけるか…」



美沙は言われた通りに缶を何度か右に回す。



すると、ポタージュの中、コーンが満遍なく回っていた。



「……ほんとだ…」



美沙は美味しそうに缶の中身を飲み干した。



「…あ、ありがとうございます…」

「君のすることは相変わらず無駄が多い」



美沙に向けて手を出し、飲み終わった缶を受け取る黄道。



「警部は相変わらず意地悪です…」

「…警視監」



黄道は座ったままの姿勢で缶をゴミ箱に向けて投げる。



ーーゴン…!



缶はゴミ箱に吸い込まれるように消えた。「俺は無駄な動きが好きじゃないだけなんだがな」


「……」


























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