第3章『開花の刻』

1話

 シュラとエルヴィがクラルテに戻ると、ジェットたちはまだ帰ってきていなかった。

 桔梗に銀青の伝言――シュラの怖がりようを面白がった蒼月が勝手に話したのである――と水晶を持ち帰った報告をすれば、見たこともない、無垢な子どものような表情で笑い始めた彼女に、思わず瞑目を返す。


「あはははっ! おかしい! 銀青ったら、相変わらず素直じゃないんだから!」

「……そんなことより、これはどうすればいいんですか?」

「ああ、これ? 随分と大きな水晶を持たされたのねぇ。欠片だけでも十分効果は期待できるし、せっかくだから記念に取っておきなさいよ。お揃いのアクセサリーとかにしたらいいんじゃない?」


 そう言うや否や、パキンと貴重な水晶を躊躇なく割った母に、シュラは頭を抱えた。

 苦労して取ってきたものをそんな簡単に差し出されると、逆に受け取り難い。

 うんうん、唸り始めた息子と、その隣できらきらと目を輝かせるエルヴィを交互に見て、桔梗が再び笑い声を上げたのは言うまでもない。

 そんな母から逃れるように水晶をひったくると、シュラはいち早くその場から逃げ出した。

 慌てて後ろを追いかけてくるエルヴィも無視して、仮眠室に向かい、ずんずんと歩みを進める。


「…………アクセサリーって言われても、そんなに詳しくないぞ。どんなのが良いんだ」


 首とか耳とか、手首とか、色々あるけどと、言葉尻が小さくなっていくシュラに、エルヴィがぱちり、と瞬きを一つ落とした。


「これ、いっしょがいい」


 そう言って、エルヴィが指を差したのは、シュラがいつも身に着けている髪飾りだった。


「こういうのが欲しいのか?」

「うん」

「ふーん……」


 どちらかというと質素な装飾を好むシュラにとって、それはありがたい申し出だった。

 けれど、何か物足りない気がして、思わず唇を尖らせる。


「分かったよ。後で作ってやるから、少し休ませてくれ」

「うん」

「お前も休憩しろ。俺はソファで寝るから、ベッド使っていい、ぞ……」


 くん、と服を掴まれて、シュラは動きを止めた。


「いっしょがいい」

 

 まただ。

 どこでスイッチが入るのか分からない『一緒がいいモード』に、蟀谷に激痛が走る。


「起きたときに殴られるのはごめんだ」

「な、なぐらないもん」

「三回連続で殴られているから、言っているんだけど?」

「うっ」

「ほら、さっさと離せ。俺は疲れているんだ」


 シュラが溜息交じりにエルヴィの手を外そうとするが、彼女がそう簡単にあきらめるわけもなく、するりと逃れた手はシュラの腕に絡まった。


「いっしょがいい」

「……お前な。そんなことばっかり言って、襲われても知らないぞ」

「おそう?」

「俺に好き勝手触られるの、嫌だろ?」


 じーっと黙ったまま見つめてやれば、エルヴィの異なる二色の眼がゆらりと揺れたような気がした。


「シュラなら、いい。シュラは番だから」

「そう簡単に許すなよ。勘違いするだろ」

「かんちがい?」

「……お前が俺のことを好きなんじゃないかって」


 ひとつ、ふたつ。

 それから、みっつ、と瞬きが落ちる。

 次いで、エルヴィの頬にうっすらと朱が滲んだ。


「エルヴィ、シュラのこと、好きだよ?」

「世界樹がそう思わせているだけだって、何回も説明しているだろ。お前が俺を好きになる理由なんて、どこにも……」

「シュラ、いつも優しい。エルヴィのこと、守ってくれる」

「はあ?」


 どう解釈したら、シュラのことを優しいなどと言えるのだろう。

 むしろ、嫌われているとは思わないのか、と今度はシュラが瞬きを繰り返す番だった。


「じゃあ、何しても怒らないのか?」

「?」

「いやいやいや……。お前、もうちょっと危機感持てよ」


 船でエルヴィに迫られたときのことを思い出し、シュラはたじろいだ。

 好きにしていいと言わんばかりに、ぎゅうと強く絡められた細い腕に見入ってしまう。


「シュラ?」

「本当に、何をしても怒らないんだな?」

「い、痛いことするの?」

「痛いことはしない、と思う。多分」

「じゃあ、いいよ」


 はいどうぞ、と言わんばかりに両腕を広げたエルヴィに、シュラは吸い込まれるように手を伸ばした。

 頭一つ分ほど開いた身長差も相まってか、小さな身体はシュラの腕の中にすっぽりと収まってしまった。そのまま引きずるようにして、ソファを目指す。

 ぽすん、と可愛らしい音と共に着地したエルヴィの胸元に顔を埋めると、心臓が脈打つ音が衣服越しに伝わってくる。


「エル」


 シュラの呼びかけに、エルヴィは不思議そうにこちらを見下ろしている。


「それ、エルヴィのこと?」

「ああ」

「エルヴィ、違う。どうして?」


 どうして名前をきちんと読んでくれないのだ、と不満を伝えてくる彼女に、シュラは言葉を詰まらせた。


「…………と、」

「と?」

「特別だからだよ」


 もう、認めるしかない。

 シュラは、深い溜め息と共に、エルヴィを抱きしめている腕に力を込めた。

 床に膝をついてエルヴィの胸に頭を預けていたシュラは、抱きしめる力を強めたことによって、柔らかい何かが頬に触れていることに気付いてしまった。

 くそ。

 胸の内で小さく毒吐くと、様子を窺うようにこちらを見下ろしていたエルヴィと視線がぶつかる。


「とくべつ? なに?」

「……大事ってこと」

「だいじ」

「お前の好きと、一緒ってことだよ!! だーッ! 言わせるな! 恥ずかしい!!」


 自覚したばかりで、というか、認めたくなくて避けていたはずの気持ちを暴露させられて、シュラは混乱の極致だった。


「シュラ、エルヴィ好き?」

「だから、そうだと言って、」


 疑問符を投げかけられて、顔を上げたのが良くなかった。

 息が掛かるほど近くにエルヴィの顔が迫っている。


「嬉しい」


 ぱあ、と向日葵が花を咲かせたような明るい笑顔を向けられて、心臓が一際大きく跳ねた。


「シュラと同じ好き。嬉しい。エルヴィもシュラ、好き」

「わ、分かった。分かったから、落ち着け。そんなに騒ぐと、」


 かちゃり、と不自然に響いた音に、シュラの身体が強張る。


「そんなに騒ぐと?」

「俺たちに見つかっちゃうもんな?」


「だーーッ!!!!」


 同輩の姿を視認するや否や、シュラは顔を真っ赤にして喚いた。

 さながら、癇癪を起した三歳児のようだったと、ラエルとジェットの手によって数年後までネタにされることをこの時のシュラは知る由もない。



 散々二人に揶揄われたことですっかり拗ねてしまったシュラを引き摺りながら、一行は実験棟に向かった。

 実験を行うのが明日ということもあって、聖騎士を始め、学者や魔導士たちが忙しなく動き回っている。

 ふと、その中に見慣れた朱色を見つけて、シュラは思わず彼の名を口に出した。


「ホロ先生」


 小さな音も聞き逃さないのが、ネイヴェス家の怖いところである。

 金色の目が、人波に埋もれているシュラを容易く捉えた。


「ちょうど良いところに来たね。ちょっと、試運転を手伝ってもらえないかな?」

「え、」

「桔梗ちゃんには許可を貰っているから、大丈夫だヨ」


 語尾が上擦っているのが若干気になったが、シュラは隣に立つエルヴィとホロを交互に見比べて、「はあ」と是とも否とも言い切れない曖昧な返答を漏らした。


「それじゃ、雷に耐性のあるシュラくん。そこに入って」


 そこ、とホロが示したのは、これでもか、と配線が繋がれた透明なケースだった。

 人が入れるように造られているらしく、入り口と思しき箇所を横にスライドさせて、そっと中に滑り込む。


「入りましたけど」

「はい。じゃあ、みんなは一歩下がってね」


 ホロの目が妖しく光った。

 あ、これやばいやつ、と思っても後の祭りである。


「えい」


 可愛らしい掛け声と共に、ホロがボタンを押した。

 次の瞬間。

 シュラの全身を雷が駆け巡る。


「ぐ、ぐあああああ!?」


 身体を引き裂かれるような激しい痛みに、シュラは叫んだ。

 劈くような悲鳴を聞いて、異変を感じ取った桔梗がすっ飛んでくる。


「何しているのっ!! ホロ!!」


 桔梗の膝がホロの背中に炸裂するのと、ジェットが電源に使われていた水晶を外したのは、ほとんど同時だった。

 黒焦げになる一歩手前で助け出されたシュラに、エルヴィが駆け寄る。


「最大出力は試さなくていいって言ったはずよね?」

「……はい」

「シュラじゃなかったら死んでいたわよ」

「はい」

「……誰か、ユタを呼んできて」

「そ、それだけは勘弁してよ、桔梗ちゃん!」

「いいえ。こればっかりは許しません。こってり絞られてください」


 息子を殺されかけた母親は、にっこりと笑いながら、ホロに天罰を下した。

 そして、すっかり伸びて使い物にならなくなってしまったシュラに頭を抱える。


「魔法陣の構築を手伝ってもらおうと思っていたのだけれど、この分じゃ難しいわね。貴方たちだけでも残って手伝ってくれる?」

「わ、分かりました」

「エルヴィは、シュラに付いていてあげて」


 パチン、と桔梗が指を鳴らした。

 シュラとエルヴィの姿が煙と共に消えてしまったのを見て、ラエルたちが「空間魔法だ」と目を輝かせる。


「準二級に昇級すれば、貴方たちも使えるわよ」


 桔梗の言葉に、訓練生たちは一様に肩を竦めた。


「訓練生は五級だから、使えるようになるのはまだまだ先じゃないですかぁ~」

「そうねぇ。でも、まずは卒業認定を貰わないと無理じゃないかしら?」


 ふふ、と笑った彼女に、ラエルとジェットは顔を見合わせた。

 すっかり忘れていたが、目の前に居る上官は自分たちの卒業を左右する権利を持っているのだ。慌てて、魔法陣構築チームの元へと走り出した彼らに、桔梗が声を立てて笑ったのは言うまでもない。



 目を覚ますと、窓の向こうはすっかり暗くなっていた。

 夕暮れの名残も残さない真っ暗な空に、ぽつぽつと星々が小さな光を放っている。


「……ん」


 息苦しさと全身に走った痛みに、シュラの顔が歪んだ。


「ここは、」 


 先程、エルヴィと訪れた仮眠室だとぼんやりとした頭で認識する。

 不意に、右手が引っ張られているような感覚に、シュラの視線がそちらを辿った。

 すうすう、と可愛らしい寝息を立てて眠るエルヴィの姿が飛び込んできて、思わず男子にあるまじき悲鳴を上げそうになる。

 初雪のような白さときめ細やかさを持つエルヴィの華奢な指先がシュラの手を掴んで離さない。そのおかげで逃げることも出来ず、飲み込んだ悲鳴が溜息となって宙を舞った。


「……普通の女の子にしか見えないのにな」


 ぼそり、と呟いた声に、エルヴィの睫毛が微かに震えた。


「シュラ?」


 小さな声であったというのに、シュラの声だというたったそれだけの理由でエルヴィの瞼はゆっくりと持ち上げられる。

 金色の髪から覗く二色の目をシュラはじっと見つめた。


「皆は?」

「魔法陣。作っている」

「そうか。なら、俺たちも行こう」

「桔梗が、シュラの身体、治ったらきていいっていった」

「もう治ったよ」

「本当に?」

「本当に」


 オウム返しのように言葉を繰り返すエルヴィが可笑しくて、シュラは目を細めて笑った。

 そんなシュラの様子が不思議だったのか、未だうつぶせに寝転がったままの体勢でエルヴィはシュラを凝視している。


「ほら、起きろ。お前が居ないと始まらないんだから」

「うん」


 思っていたよりも素直に頷いたエルヴィを連れて、夜だというのに昼間のような喧騒が眩しい実験棟の中庭へと急いだ。



 学者十四名、魔導士十三名、聖騎士(訓練生含む)二十余名の共同作業が功を成し、徹夜で作業が行われて魔法陣と魔力抑制の魔法が刻まれた水晶が完成した。

 早速、エルヴィの協力の元、世界樹で魔力循環を行うことになったのだが、ここで一つ問題が発生した。

 聖騎士団きっての問題児、団長シアンが自分も同行すると駄々を捏ね始めてしまったのである。

 面倒くさい気配を察知した上官たちは聞こえないふりを決め込み、準備を進めていたそうなのだが、腐っても聖騎士団団長を任される実力の持ち主は、己の魔法に物を言わせて、準備を中断せざるを得ない状況を作り出した。


「いい加減にしなさい、シアン」


 仕方なく、というか他に頼る術が無かった一同は、伝家の宝刀――副団長ユタを召喚することにした。


「俺が同行できないなら、お前たちが丹精込めて作ったこの機材を一式無駄にすることになるぞ」


 それでも一向に引き下がる様子を見せず、あろうことか、重力魔法で宙に持ち上げられた荷物を人質に脅迫めいた台詞まで並べ始めた団長に、彼の妻である桔梗が雷を纏ったまま声を荒げた。


「シア~ン?」

「……人手は多い方が良いだろ」

「貴方には貴方のするべきことがあるでしょう?」

「もう終わった」

「あのねぇ」


 文字通り、ピリピリと桔梗の放つ静電気と緊張感漂う空気の中で、シュラだけが死んだ魚のような目をして両親のやり取りを遠巻きに眺めていた。


「いつもあんな感じなの?」

「……ああ。あの感じは長引くやつだ。飯でも食いに行こう」


 経験者は語る。

 憔悴しきった顔のシュラに何も声を掛けることが出来ず、ラエルたちは大人しく彼に従うことを選んだ。

 背後では英雄と名高い夫婦の怒鳴り合いが続いていた。


「それにしても意外だったな。お前は仲裁に入ると思っていたよ」

「お前は俺に死ねって言うのか? 雷耐性があったとしても、母さんの雷は特殊だからさっきのホロさんとは比べ物にもならない。最悪、一週間は寝込む」


 一応、止めに入ったことはあるらしい。そのときのことを思い出したのか、シュラがげんなりとした表情を浮かべ、虚空を見つめる。


「食堂のおばさんに簡単なものを頼んでくるから、貴方たちはここで大人しくしていなさい。いくわよ、ジェット」

「えー?! 俺もか?」

「当たり前でしょ。四人分の料理をアタシ一人に運ばせる気?」


 ラエルが半ば強引にジェットを引き摺り、食堂へ向かった。

 手持無沙汰になったシュラとエルヴィは渡り廊下の端に設置されているベンチに座ることにした。

 二人きりになった途端、先程のことが頭を過って、シュラは面映ゆい気持ちで胸がいっぱいになった。何を話せば良いのか分からず、以前はどういう風に話をしていただろうかと必死になって思い出そうとしたが、気付いたことがあるとすれば、真面に会話をしたことがないという悲しい事実だけである。


「シュラ」


 掠れたソプラノがシュラの名前を呼んだ。

 何だ、と答えるより早く、エルヴィの頭がシュラの肩に着地する。


「ふふ」


 何が楽しいのか、独りでに笑い始めた彼女の横顔をシュラはじっと見つめることしかできない。

 静かな渡り廊下に、小鳥の囀りのような笑い声が反響する。


「エル」


 慣れない音で彼女を呼ぶ。

 嬉しそうに破顔したエルヴィの頬に、そっと顔を寄せた。

 ちゅ、と可愛らしいリップ音が響く。


「……何だよ、その顔」

「ちゅーした」

「そうだな」

「……ちゅー、した」


 真っ赤に頬を染めたエルヴィに釣られて、じわり、と身体が熱を帯びるのを感じた。


「もう一回」


 甘く囁かれたそれに抗うことが出来るわけもなく、今度は額に軽く口付けを落とす。

 ふわりと笑ったエルヴィを見て、照れくさくなったシュラは困ったように眉根を寄せるのであった。

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