4話

 事態が落ち着く頃には、学術都市ミーティスの美しい石壁づくりの街並みは見る影もなかった。辺り一面に崩れた建物の残骸と、世界樹の根によって負傷した人々が倒れ込んでいる。


「騎士科所属、第十三班入ります」


 憔悴したエルヴィにこれ以上あの惨状を見せるわけにもいかず、学長室へと連れてきたわけだが、虎のように鋭い視線を向けてきた学長を見て、判断を誤ったかとシュラは肝を冷やした。


「それが、例の?」

「はい。『世界樹の蕾』です」

「……ふむ」


 平均的な男性よりも頭一つ分は高い身長を持つ学長、レノーアが高級な革張りの椅子からゆっくりと立ち上がる。次いで、眼前まで歩いてきたかと思うと、エルヴィの首を無造作に掴んだ。


「学長!? 何を……ッ!」


 血迷ったのか、と長刀を抜きかけたシュラを、後ろで控えていた桔梗が押さえる。


「落ち着きなさい。学長先生は脈を計っているだけよ」


 レノーアの手は人よりも大きい。その所為でエルヴィの首はすっぽりと覆われていて、一見すると首を絞められているようにも見えたが、彼女の呼吸は平常時と変わらず穏やかなものである。


「どうです? 先生」

「思った通りだ。これに世界樹が反応を見せなかったと言ったが、その逆だろう」


 レノーアは面倒くさそうに、ロマンスグレーの髪を掻きあげて額を出すと、なおも鋭い視線をエルヴィに向けたまま告げた。


「ネイヴェスやヴァルツから上げられた報告書のものよりも魔力数値が上がっている。世界樹と力関係がいつ逆転してもおかしくはないだろうさ」

「だとすると、先程の暴走は……」

「蕾に栄養を送るだけなら、あそこまで無差別に襲わなくても良かっただろう。効率を重視するなら、それこそ私ら魔導士を襲えば済む話だ」


 レノーアの指摘した通り、世界樹の根は理性を無くした獣のように、建物や人を無差別に襲っていた。蕾の魔力を補いたいのであれば、魔力の質が良いものや、魔力量の多い場所を襲った方が効率も良い。


「世界樹は、知性を失いつつあると判断した方がいいだろうな」


 少ししゃがれた、けれども凛とした声が残酷な事実を突きつける。

 訓練生たちは、ただ茫然と学長の言葉を受け入れるしかなかった。

 ただひとりだけを除いて。


「どうすれば、世界樹の暴走を止めることができますか?」


 先刻は己に向かって抜刀しようとしていたはずの青二才が、獰猛な光を宿した瞳をこちらに向けている。それがとても可笑しくて、レノーアは思わず彼の母親の肩を力いっぱい叩いた。


「ちょ、痛い! 痛いですって先生!」

「だーっははは! 桔梗。主の倅はシアンに似て、余計なことに首を突っ込むのが大好きらしいな!」

「他人事だと思って爆笑していますけど、私は全然笑えませんからね!?」


 ぎゃん、と学生時代を彷彿とさせる勢いで噛みついてきたかつての教え子を見て、またレノーアの笑みが深まる。


「ふふ、ああおかしい。それで? 何だったかな? ウェルテクス長兄。『どうすれば暴走を止められるのか』だったか?」

「……はい」


 散々に笑い飛ばされて、もはや怒る気も起きない。

 むしろ、どうすればそこまで笑えるのか、と一周回って尊敬の念すら浮かんでしまう始末である。

 白い目で学長と母を見るシュラの腕を、エルヴィが絡めとった。


「……っ」


 不安の二文字を顔にデカデカと張り付けたエルヴィと目が合う。

 大丈夫だと言い聞かせるように、そっと掌を握り込めば、生温かい視線を感じて、ぎくりと肩を震わせた。


「へえ?」

「ほう?」 


 大人二人の視線を一身に受けて、シュラの項を冷たい汗が流れていく。

 同輩たちに助けを求めるも、彼らは我関せずと言った様子でこちらに向けて合掌していた。


「すっかり懐かれちゃってまあ」

「こ、これは、ちが」

「桔梗よ。構いたくなる気持ちも分かるが、今は止せ」


 レノーアが肩を竦めながら、重厚な造りの椅子へと再び腰を下ろした。

 てっきり追撃をされるとばかり思っていたレノーアから助け舟を出されて、シュラはこれ幸いとそれに乗り込むことにした。


「優先すべきは、世界樹の抑制だな。何らかの方法で世界樹の活動を封じない限り、世界樹は魔力を求めて手あたり次第に襲い掛かってくるだろう。私らの使った結界魔法陣が有効かもしれん。あとで、結界石にして、騎士団に手配するから好きに使うといい。そして、先程も言ったが、世界樹の蕾の魔力が上がっている。恐らく、そのことも世界樹の暴走と何か関係していると考えた方がいい」

 

 学長の言葉に、訓練生たちの目の色が変わった。

 それまでのふざけた空気はどこかへ消えさり、代わりにピンと張り詰めたような緊張感が張り巡らされる。


「――暴走」


 シュラは、その一言がずっと気になっていた。

 カグラの街で世界樹の根が街を襲ったとき、建物に多少の被害はあったものの、それには理由があった。街の結界石を狙うため、最短ルートで結界石に手を伸ばすかのように、根が地面を割り、その上にあった建物を破壊していたのである。

 建物の中には人も居たのに、今回のように襲われていなかった。


(暴走のきっかけになった『何か』があるはずだ)


 カグラの街を訪れたあとにあった出来事を順番に頭の中で辿っていく。

 ふと、ナーガの死体を前にエルヴィと会話した光景が頭を過った。

 あのとき、エルヴィは何と言ったのだったか。


『母に捧げる』


 エルヴィの声が頭の中ではっきりとそう告げた。


「あーーーっ!!」

「な、何よ、急に! びっくりした……!」


 滅多なことで驚かない桔梗が、自分の息子の奇声に目を丸くするという、それこそ滅多に見ることの出来ない奇妙な場面に居合わせたジェットとラエルも同じように目を丸くした。そして、奇声を発した本人に視線を向ける。


「世界樹に魔力を送ったんです。それも、ナーガの死体を大量に……!!」


 レノーアと桔梗がハッとしたように顔を合わせる。


「浄化処理は?」

「していません。俺もエルヴィの言葉をすべて理解する前に、世界樹へ魔力として送られてしまったので……」

「力の弱った状態でナーガの毒素が大量に詰まった魔力を処理できるわけがない。十中八九それが今回の暴走を引き起こした原因だな」

「でも、エルヴィに悪気があったわけじゃありません。彼女はただ、弱っている母親を少しでも元気にしようとしただけで」


 腕に回ったエルヴィの掌から震えが伝わってくる。

 シュラはそれをあやすように彼女の細い腰を抱き寄せた。


「……私も古い文献を一度読んだことがあるだけだから、確かなことは分からないが、世界樹の代替わりには確か条件があったはずだ」

「それなら、よく知っている人たちを知っています」

「はあ?」


 今度はレノーアが目を丸くする番であった。

 桔梗が茶目っ気たっぷりにウインクを落とすと、両手を組んで祈りのポーズを取る。


「お二人とも聞いていましたよね? どうか私たちに知恵をお貸しください」


 突然、宙に向かって呟いた桔梗に、シュラは「げ」と顔を曇らせた。

 どちらか一人だけでも厄介であることに変わりないのに、一歩転べば災厄にもなりえる存在を二人も呼び出そうというのだから、桔梗の神経は世界樹の幹並みに太いと言っても過言ではない。


『騒々しいと思えば、ナーガの死体を魔力に変換しただと? 馬鹿も休み休みに言え、この馬鹿者』


 ぐあ、と案の定、咆哮を上げながら姿を見せた旭日から、シュラは逃げるように視線を逸らす。


『まあまあ、旭日。元はと言えば、貴方がきちんと身体を与えなかったことも原因の一つなのですから……』

『だが、華月……!』

『反論は認めませんよ?』


 笑顔で片割れを攻撃する華月こそ、真に恐ろしい。

 その場に居た全員が背筋を凍らせていることに気付かず、当の本人は初めて見る世界樹の蕾に興味津々といった様子である。


『はじめまして、次代の世界樹。そして、私たちの新しい妹』

「え?」

『あら? 言ってなかったかしら?』


 華月の目が弧を描く。


『私たち創世龍は、女神と共にこの世界を造った。そして、最初に造った創造物がこの世界樹なの』


 ふわり、と微笑んだ華月の手が、エルヴィの頬に優しく添えられる。


『あら、かわいらしい。桔梗に似せて造ったの?』


 そう言われて初めて桔梗は、エルヴィが自分に似ていることに気が付いた。


「本当だわ。旭日様ったら、私のこと意外と気に入ってくれていたんですね」

『たわけ。我はお前に似せたのではない。お前がメディに……』


 それだけ言うと華月にはすべて伝わったらしい。

 彼女は何かを懐かしむように口元を綻ばせた。


『ふふ。そうね。桔梗がメディ様に似ているのよね』


 よしよし、と今度は桔梗を撫で始めた華月に、旭日はフンと鼻息を鳴らした。


「んんっ。華月様? そろそろ本題に入っても?」

『やだ、ごめんなさい。久しぶりの外だから、ついはしゃいでしまって……。ええと、世界樹の代替わりに関することだったわね』


 咳ばらいをした桔梗を撫でていた手を止めると、華月は考え込むように瞼を落とした。


『条件は二つ。一つは、先代世界樹の魔力量を超える魔力量を持つこと』


 言葉を発するのと共に姿を見せた金色の目が真正面に立つ番を捉える。


『そして、その魔力と同化することだ』


 双龍は互いを見つめ合いながら、人間たちに言い聞かせた。


「現在の世界樹の魔力がどれくらいなのかは分からないんですか?」

『知性を失いつつある今、蕾の方が魔力は高いと見て間違いない。そんなことも分からないのか』

「いちいち言い方がトゲトゲしいんですよ。それくらい、私たちにだって分かります。聞きたいのはそういうことじゃなくて……」

『猶予がどれくらいあるのか知りたいのよね?』

「はい」


 生まれた時から過ごしているからか、旭日よりも正確に桔梗の言いたいことを引き継いだ華月は口元を綻ばせた。


『旭日。妾たちは、桔梗に借りがあります。今こそ返すときなのでは?』

『華月』

『創世龍の名は飾りでないことを証明しましょう』


 番にそこまで煽られては、旭日も否を唱えるわけにはいかない。

 反論しようと開いた唇を閉ざし、乱暴に前髪を掻き上げた。


『……分かった。暫しの間、世界樹は我と華月が引き受けよう。お前たちはその間に対策を練るが良い』

「よろしいのですか?」


 桔梗が驚いた声を上げれば、旭日は緑色の独眼をスッと細めた。

 次いで、八重歯を見せてカラカラと笑ってみせるものだから、桔梗は思わず琴線に触れてしまったのか、と額に冷汗を浮かべる。


『我の番が決めたことだ。「破壊」の龍に逆らうことは、それ即ち死を意味している』

『旭日?』

『怒ったお前も美しいな、華月……!』


 柔らかく微笑んだ旭日の表情などという、身の毛もよだつ場面に遭遇してしまった一同は、思わずスッと瞼を落とした。万が一、目でも合ったら目潰しなどという可愛いものでは済まされない。それこそ、眼球を抉られた上で、記憶を消される可能性がある。『創造』の力を司りながらもやることがえげつないと定評のある旭日である。

『触らぬ旭日に祟りなし』――先人は偉大な言葉を残してくれたものだ。


「それでは、私たちはもう一度、エルヴィを通して魔力を変換できるか試してみますね」

「分かった。こちらの方でも解析を進めておこう」


 本部に戻る桔梗に同行することになった一同は、レノーアに一礼すると足早に部屋を後にした。扉の隙間から見えたレノーアの白銀の瞳がこちらを真っ直ぐに見つめていたのが、少しだけ気に掛かったシュラであった。


 かつて、ホロが第三小隊の隊長を務めていたときから存在する実験棟には各分野のスペシャリストが集められていた。魔法陣の解析学者から始まり、果ては魔力質量の専門家まで広い中庭で餌を待つ雛鳥がごとく、喧騒が渦巻いている。


「うっわ、凄いな。魔力質量学の扇博士に、魔法陣構築の権威、ルキナ魔導士まで来てる」

「教科書で見たことある人たちばかりだ」


 ほう、と呆けた様子で中庭を見下ろしている訓練生たちに、桔梗は苦笑を噛み殺した。

 これからあの中に入って、世界樹の現状とエルヴィの身体について、詳細を説明しなければならないのだが、果たしてその自覚があるのだろうか。


 結論として桔梗の心配は杞憂に終わった。

 それというのも、幼少期から王族や貴族などの親戚と接する機会が多かったおかげか、妙に場慣れしているシュラと、弁論大会で優勝したことのあるラエル――これについては、意外としか言いようがない――がテンポ良く、簡潔に説明をまとめてしまったからだった。


「ご質問のある方は、配布した書類を参考にしていただけますと幸いです」


 簡潔な説明に加え、書類まで、と息を飲んだのは言うまでもない。

 こちらは、事務作業が得意なジェットの担当だと後から知って、班編成を間違えたのでは、と首を傾げるばかりであった。


「……では、一点だけ」


 用意周到な訓練生に物怖じしながらも、片手を上げた学者が居た。――先程、シュラたちが注目していた学者の一人、扇博士だ。


「世界樹の蕾、こちらのエルヴィさんを通して魔力循環を試みる場合、彼女の身体が対応できる魔力量を計算した方が良いかと。許容量を超えてしまうと、それこそ世界樹に何が起こるか分かりません」

「確かに。一理ありますね。それでは、負荷を減らす魔法陣や結界石の構築も視野に入れてみましょう」


 扇博士の問いに、すかさずルキナ魔導士が応える。

 それから、訓練生たちが口を挟む猶予はなく、あっという間に必要な物資と魔導士や聖騎士の人数が報告された。


「それでは、実験は一週間後ということで。我々は物資の準備に取り掛かります」

「分かりました。こちらのことは、私と扇博士にお任せください」

「助かります」


 桔梗はルキナ魔導士に一礼してから、訓練生たちに近寄った。

 半ば放心状態となった彼らを見て、学者たちの熱気にやられたな、と苦笑を零す。


「さて、諸君。今から二組に分かれて素材を準備してもらうわよ」

「は、はい」


 母の声に、シュラがいち早く正気を取り戻した。

 続いて、ジェットとラエルも桔梗の方に姿勢を正す。


「東の国にある霊峰キリから『宵闇の雫』と呼ばれる水晶と、西の国にある真珠の入り江から『暁の珊瑚』を採取してきなさい」

「霊峰キリ……」


 かつて桔梗が暮らしていた華月の宮『霊王宮』が存在する、東の国でも厳重区域にあたる場所だ。ぴくり、と強張った息子の表情を、桔梗が見逃すはずもない。


「シュラとエルヴィは霊峰キリに、ジェットとラエルは真珠の入り江へ。必ず明後日までに素材を集めてくること。いいわね?」

「はっ!」


 威勢良く敬礼をした訓練生の三人に、桔梗の口元に笑みが綻ぶ。

 そして、シュラの肩を叩くと真剣な眼差しで息子を射抜いた。


「水晶は澄んだ瞳を持つ者にしか分からない場所にある。けれど、大丈夫よ」


――貴方なら、きっと見つけることが出来るわ。



◇ ◇ ◇


 銀雪舞う気高き霊峰キリ。

 東の国でも限られた者しか入山することを許されない神秘の山である。

 この山には常に雪が降り続けている。

 東の国を守護している創世龍の華月が同胞を隠すために術を施しているのだという者がいれば、雪国の最北端に位置しているため、一年中分厚い雲が覆っているのだという者もいた。

 その真偽は定かではないが、今シュラが言えることは一つである。


「寒すぎる」


 その一言に尽きた。

 母である桔梗が東の国出身だからとは言え、シュラは決して寒さに強いわけではなかった。幼少の頃はクラルテで過ごすことが多かったため、極度の寒暖差にはむしろ慣れていない方である。

 あまりの寒さに鼻の頭を真っ赤に染めながら、右を見て、左を見てと視線を忙しなく動かしたシュラは、どこまでも続く白銀の大地に低い唸り声を上げた。

 麓の警備隊が巡回に行くついでに、と途中まで一緒に案内してくれたところまでは順調だったが、エルヴィと二人になった途端、吹雪に見舞われて道を見失ってしまったのだ。

 柔らかい新雪は彼らの膝元まで達しており、歩くたびに雪がブーツや下衣に染み込んで、一歩一歩が重くなり、徐々に体力を奪われていく。いつの間にか隣を歩いているはずのエルヴィの気配さえ、轟々と身を切るように吹き荒む吹雪の中では分からなくなりつつあった。


「大丈夫か?」


 麓の警備隊から防寒具を借りたとはいえ、肌を突き刺すような冷たい突風の所為で、二人ともすっかり身体が冷えきっている。


「どこかで休むか?」


 シュラの問いに応えるのも億劫なのか、エルヴィはふるふると力なく首を横に振った。

 今は人の形をしている所為でうっかり忘れそうになっていたが、彼女の元の姿は世界樹と同じ『植物』である。本来、植物は寒さに弱く、それ故に元気を失っているとしたら、直に動けなくなってもおかしくはないとシュラは眉間に皺を寄せた。


「もう少し歩けば、小屋があるはずだ。それまで頑張れ」


 先程見つけた看板にはあと一キロで小屋があると記されていた。

 顔色の悪い彼女をこれ以上歩かせるのは本意ではなかったが、ここでシュラも体力を消費しては後のことが怖い。

 どうしたものか、と首を捻って、シュラが思い立ったのは、自身の身体に宿る龍の姿だった。


「蒼月……! エルヴィを運んでくれ……!」


 シュラの声に、蒼月がゆらり、とその姿を現した

 青と銀が混ざりあった独特な色合いの長い髪を靡かせて、蒼月がフンと鼻を鳴らす。

 本来の姿である龍の形で呼び出せば、魔力が一気に持っていかれてしまう。だが、最初からこうして人の形で召喚すると魔力の消費も抑えられるのでは、と考えたのである。


『霊峰で俺を呼び出すとは、お前もなかなかに命知らずだな』

「え?」

『気にするな。独り言だ』


 随分と大きな独り言だな、とシュラが文句を言いながら、蒼月にエルヴィを運ぶように指示を出す。彼は渋々といった様子でエルヴィを背負うと、それっきりおとなしくなって、シュラの後を静かについてきた。

 明かりのついた山小屋が見える頃には、シュラも我慢の限界が来ていて、我先にと暖炉に薪を投げ入れ、炎を起こす。


『蕾は眠ってしまったようだぞ』


 蒼月が静かにエルヴィを下ろすと、すうすうと可愛らしい寝息が小屋の中に小さく木霊した。


「慣れない雪の中を歩いたんだ。疲れたんだろう」

『そういうお前も、東の民でありながら、随分とくたびれているようだ』

「仕方ないだろう。実を言うと、歩いて登るのは初めてなんだ」


 シュラが唇を尖らせれば、蒼月が牙を見せて笑う。

 暫く笑いの波が引かずにいた蒼月だったが、不意に吹雪が窓を叩いたのを合図に、真剣な面持ちでシュラの瞳を真っ直ぐに見つめた。


『……それで? 霊峰キリに何を探しにきたのだ』

「宵闇の雫って呼ばれている水晶なんだけど、」

『また面倒なものを』

「そんなに珍しいものなのか?」

『只人は入ることが許されない場所にある』


 蒼月の問いに、シュラは首を振った。

 そして、蒼き龍は瞼をゆっくりと下ろすと、短く息を吐き出して、龍の死後について語り始めた。


『我ら龍は死して尚、その魂は地上にあり、消えることはない。肉体が消滅しても魂となり、永久を生きる華月様や旭日様のお世話をするためだ。だが、稀にその魂が人に宿ることがある。俺とお前のように引き寄せられる者がいるのだ』


 そういう人と龍のことを『対』と呼ぶ。

 蒼月の声は常に増して低く、そして重い音色でシュラの心臓を穿った。


『かつて、華月様は旭日様に依り代である神子を殺されたことがあった。それを嘆いた華月様が自身に魔力の近い性質を持つ東の王族と盟約を交わしたのだ。魂となった龍と契りを交わし、神子を守るように、と。旭日様との因縁が絶たれた今、盟約は終わりを迎えたはずだった。だが、俺はお前に引き寄せられた。何故か分かるか?』

「まさか、」

『お前は最初から世界樹に目を付けられていた。いや、この言い方は正しくないな。桔梗様とシアンの「子ども」は東と西の両方の質を併せ持つ。それ故に、全員が世界樹の守り人となる基準を満たしていたのだ』

「……じゃあ、俺があの日、蕾に引き寄せられたのは」

『偶然ではないだろうな』

「でも、どうして今になってそんな話をするんだ」

『龍の墓場に入るために必要なことだからだ』


 蒼月の目がジッとシュラを見つめていた。

 見たこともない真剣な表情で自分を凝視する彼に、シュラが渇いた咥内を潤すため、唾を飲み込む。


『忘れるな、シュラ。お前は選ばれた。お前の本意でないにしろ、お前は我らとその王に選ばれたのだ』

「王って、誰のことだ」

『行けば分かる。墓場に入るために必要なことは二つ。龍の炎と、己を信じる心を持つことだ』


 蒼月はそれっきり黙り込むと、シュラの右手にある刺青の中に戻ってしまった。

 残されたシュラはと言えば、心の中で蒼月に声を掛け続けたが、彼が応えることはなく、小屋の中を静寂が満たす。


「只人が入ることを許されない場所……龍の墓場、か……」


 霊峰キリには多くの龍が生息していると聞く。

 知性の高い彼らは、人と関わることを嫌い、同族以外を決して寄せ付けない。そんな警戒心の強い龍の元へ向かうのは勿論、彼らの墓場と呼ばれる場所へ辿り着けるのか否か、シュラの身体を仄暗い不安が包み込んでいた。


「……起きろ、エルヴィ」


 だからといって、ここで立ち止まるわけにはいかない。


「ん、」

「歩けそうか?」

「うん」


 うつろな表情でシュラを見ながら、頷いた彼女の腕を自分の方に引き寄せる。

 たとえば、もっと違う出会い方をしていたら。

 自分は素直に名状しがたいこの想いを口にすることが出来たのだろうか。


「行こう」


 扉を開けると、再び銀世界が二人の視界を占領した。

 けれど、ひとつだけ違うことがある。

 手袋越しに伝わる体温が、互いの存在をはっきりと伝えていた。


 小屋を出てから、どれくらい歩いただろうか。

 頂上にある霊王宮が微かに見え始めたことを考えると、中腹辺りまで何とか進むことが出来たらしい。

 はあ、と白い息を吐き出しながら、シュラは辺りを警戒するように見回した。

 どこを向いても、同じような景色が広がっている。


「シュラ」


 不意に、エルヴィがシュラの手を引いた。

 くん、と引っ張られた拍子に肩が傾いで、エルヴィの方に身体が引っ張られるのが分かる。


「あそこ、光っている」


 エルヴィの視線を辿ると、雪に覆われた中で、不自然な光を放つ山肌が目に入った。

 蒼月に似た魔力――龍の魔力を感じて、静かな足取りで、そこへ向かった。

 青白い光を放っている岩肌に、シュラがそっと掌を重ねる。

 どくり、と鼓動のように、触れている部分が不自然に脈打った。


「ここか」


 桔梗は澄んだ瞳を持った者にしか分からない場所に水晶があると言った。

 そして蒼月は、龍の墓場へ入るには『龍の炎』と『自分を信じる心』が必要になると告げた。

 水晶は、この壁の向こうにある。

 この壁の向こうが、龍の墓場なのだ。

 シュラは、そう確信すると、深呼吸を繰り返した。


「エルヴィ」


 少女の名前を呼ぶ。

 もう何度目になるのか分からない。

 母が付けた彼女の名前は、『花の乙女』と呼ばれた古の魔導士に由来するものだった。

 いつの間にかすっかり舌に馴染んだその音を、シュラはもう一度繰り返す。


「エルヴィ」


 きつく握り込まれた手と、シュラの目を、エルヴィは交互に見つめた。


「シュラ」


 名前を呼ばれる、それだけで。

 痛いほど高鳴った心臓が答えを告げているようなものだった。


「俺を信じろ」

「うん」


 いつだって、エルヴィはシュラの隣に、時には背後で――傍に寄り添ってくれた。

 ここは安心できる場所なのだと、そう告げるように。


「我に宿るは蒼き龍。その焔をもって、不浄を焼き払わん」


 シュラの身体を、蒼月の炎が覆う。

 熱さや恐怖心はない。

 それは、蒼月と己を信じているからこそ成せる技だった。

 龍の炎で自身を覆うなど、自殺行為も良いところだ。

 通常の炎と違い、龍の炎は骨すらも残さず、すべてを溶かしてしまう。

 龍だけに与えられた特別な魔力で編まれた炎だからだ。


『……お前なら、出来ると思っていた』


 蒼月がどこか誇らしげに笑いながら、姿を見せる。

 そして、シュラが岩肌に重ねたままの掌に、己のそれを重ねた。

 次いで、突風がシュラとエルヴィの二人を襲った。

 雪が混ざった強風に、思わず瞼を閉じていた二人だったが、次に視界へ飛び込んできた景色に息を飲む。

 天井から地面に至るまで、黄昏を煮詰めて溶かし込んだような不思議な色の水晶が辺り一面を埋め尽くしていた。


「すごい」


 どちらからともなく漏れ出た感嘆の声に、蒼月が牙を見せて笑った。


『ここへ入ることを許された人間は、桔梗様に次いでお前だけだ』


 ケタケタと悪戯が成功した子どものように破顔する蒼月に釣られて、シュラも思わず口元を綻ばせる。


「母上はどうして俺に水晶を取ってくるように言ったんだろう」

『お前にこの景色を見せたかったのだろうさ』


 どこか懐かしむように天井を見上げた蒼月の横顔が、桔梗を見つめる旭日のそれに重なる。


『蒼月か』


 それは、夜空を割く彗星のような、美しい響きの声だった。

 どこからともなく聞こえてきた声に、シュラとエルヴィの肩が小さく撥ねる。

 てっきり、自分たち以外に誰かがいると思わなかったため、すっかり油断していた。


『龍王様』


 蒼月によく似た銀色の髪を靡かせて、二人の前に姿を現した男性に、シュラは目線を奪われた。この龍を、知っているような気がしたからだ。


『……お前が、姫神子の子か』


 姫神子。それが誰を指し示しているのかを思い出して、ハッと息を飲む。


『初めて会ったときの姫神子によく似ている』


 くくく、と楽しそうに笑った彼の着物の隙間から見えた左胸には、動いているのが不思議なほど、大きな穴が開いている。


『ああ、これが気になるのか? これは旭日様に付けられたものでな。魂の姿になっても、これだけは治らなかったのだ』


 流石は創世龍よな、などと呑気に牙を見せる男性に、背筋を冷たい何かが這ったような気がして、シュラは身震いした。


『それで? 一体何の用があって、龍の墓場にやって来た?』

「す、水晶を分けていただきたく、」


 異質な気配を放つ龍に、シュラは戦々恐々とした様子を隠そうともせず、短く言葉を告げた。

 三日月に細められた目が、静かに揺らいでいる。


『なるほど。我らが墓を荒らしにきたと』

「!?」

『ここにある水晶は魂の形を忘れ、眠りについた龍たちの成れの果てだ。これを持っていくということはすなわち、同胞の眠りを妨げること』


――お前にその覚悟が、あるか。


 言葉にはせずとも、龍王の目がそう語っていた。

 シュラの肩が、びくりと撥ねる。

 桔梗はこのことを知っていたはずだ。

 龍王とは、龍の墓守。眠りについた同胞たちを守る番人ともいえる。だが、蒼月は先程、おかしなことを告げていた。


『お前は、我らとその王に選ばれた』


 選ばれた、と確かにそう言っていたはずだ。それなのに、この状況は一体どういうことなのだろうか。

 殺気だった龍王を、蒼月は黙ったまま見つめていた。

 口を閉ざしているのはきっと、シュラが出す答えに期待をしているからだ、と長年の付き合いで嫌でも察してしまう。


『答えよ、小僧。同胞の眠りを妨げる覚悟があるのか、と聞いている』


 冷たい光を宿した眼がシュラを射抜いた。

 恐怖心から、今にも逃げだしたくなる身体を必死に押しとどめていたのは、隣で同じように不安に瞳を揺らすエルヴィが居たからだ。


「……妨げたりしません」

『何?』

「俺は、龍だけじゃなく、人々を守るためにここへ来ました」


 龍王の目がこれでもか、というほど大きく見開かれた。

 次いでカラカラと喉を逸らして笑い声を上げたかと思うと、両腕が白銀の鱗でびっしりと覆われる。


『ならばその覚悟を見せてみよ!!』


 問答無用だった。

 振りかぶって突っ込んできた銀青の右腕を、長刀で受け止める。

 金属がぶつかりあう嫌な音が洞窟の中で重く反響を繰り返した。


「きゅ、急に何を!!」

『もとより、この場を訪れた人間を無事に返すつもりはない』

「!?」

『一度入れば最後。我を倒さぬ限り、ここを出ることは叶わんぞ』


 獰猛な獣の光を宿した龍王がシュラの前に牙を剥き出しにして立ち塞がる。

 龍王から発せられる冷たい殺気に、シュラは思わず身動いだ。

 

「シュラ、」


 巻き添えにしないよう突き飛ばしたエルヴィの目が真っ直ぐにシュラを捉える。


「……大丈夫だ」

『軽口を叩く余裕があるとは恐れ入る』


 銀色の髪を鱗と同じように逆立てながら、龍王が再びシュラに向かって突っ込んできた。

 それを『八咫烏』の構えでいなすと、ガラ空きになった背中に剣背を叩きつけた。


『ぐっ!』


 一体どういう原理で物理攻撃が効くのかはこの際さておき、シュラの攻撃は龍王にも有効なようだった。

 魔力体には魔法、という固定観念があったシュラとしては、物理攻撃が効くことが分かって御の字である。

 長刀を低い位置で構えると、龍王の懐に潜り込む。


「俺は、貴方と争うためにここへ来たのではありません!」


 顎を目がけて斬り上げたシュラの斬撃を、龍王は身体を捻ることで躱してみせた。


『お前にそのつもりがなくとも、我は見極めねばならぬ。世界樹がお前を『蕾の守り人』に選んだ理由を……!』

「う、わっ!?」


 豪、と龍王が至近距離で口から火炎の咆哮を放った。

 咄嗟のことに避ける暇もない。

 真面に炎を浴びたはずのシュラだったが、然してその身体に傷は一つもついていなかった。

 エルヴィがシュラを庇うように彼を抱きしめていたからだ。

 背中に炎を喰らったエルヴィが苦しそうに「けほっ」と声を漏らす。


「エルヴィ!」

「……へ、いき」


 短い呼吸を繰り返す少女を抱きしめながら、シュラは龍王を睨んだ。


『……ほう? 蕾自ら身を呈すか。やはり、姫神子の予見に狂いはなかった』


 スッと細められた竜王の眼の色を見て、シュラの脳裏に幼い頃の記憶が鮮やかに蘇った。



『――いくつになった?』

「今年で三歳になったわ」

『瞳の色は、あやつに似たのだな』

「そうね。貴方と同じ、海の色よ」

『……本当に良いのか』

「逃れられない運命なら、当代の龍王に選んでもらった方が安心だもの」

『そうか』

「おかしなことを頼んでごめんなさいね。銀青」


 

 ここに来たことがあった。

 母に手を引かれて、幼い頃に一度だけ。

 ちり、と右手の甲が熱を持つ。

 蒼月が模られた刺青がひどく疼いた。


銀青ぎんしょう……?」


 たどたどしく告げられた名前に、龍王――銀青は満足そうに笑みを深めた。


『蒼の名を与えた龍とその守り手よ。貴様の覚悟、この龍王がしかと受け取った。せいぜい足掻いてみせよ。かつて、お前の母がそうであったように』


 声高に笑ったかと思うと、冷たい吹雪がシュラたちを襲った。

 次に視界が開けると、そこに銀青の姿はなく、代わりに拳ほどの大きさをした夜色の水晶がポツリ、と取り残されている。

 そして、エルヴィの背中に広がっていたひどい火傷も跡形もなく消えていた。


「な、何だったんだ」

『お前の答えを気に入ったようだ。――持って帰れということだろう』


 他人事のように肩を震わせて笑う蒼月の鳩尾に一発入れることで、何とか平静を取り戻すことに成功したシュラは、すっかり怯えて大人しくなってしまったエルヴィを連れて、足早に龍の墓場を去った。


『桔梗によろしく』


 風に乗って聞こえてきた幻聴に知らんふりを決め込んだシュラを見て、蒼月がまた楽しそうに喉を逸らして笑うのだった。

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