第232話 夜中の訪問者


 ネインリヒのもとに異変が伝えられたのはその出来事から数十分後のことだった。


――クリストファー・ダン・ヴェラーニが消えた。


 夜中にたたき起こされて聞かされたその情報にネインリヒは驚愕し、冷や汗があふれ出る。


「どういうことだ!? いったい何があったというのだ?」


 ネインリヒは時間も顧みず報告してきた諜報員に大声を上げてしまった。


 報告によると、クリストファーの監視の最中に何者かに魔法を掛けられ、意識を失っている間にクリストファーが部屋から消えたというのだ。


「ま、誠に申し訳ございません!」

その者が平伏して謝罪するが、こうなっては後の祭りだ。


「――分かった。とにかく街道に斥候を放って情報を集めろ。すぐにだ! 明日の朝までに報告をまとめろ」

そう言って放してやる。


(とにかく、院長に報告しなければ。くそっ、亡命か? それとも拉致か? いずれにしても大失態だ。魔術師の仕業ともなれば、拉致の場合はもう追っても足取りを知ることは出来ないかもしれない――)


 ネインリヒは身支度を慌てて整えると、ニデリックの部屋へと向かった。



――――――



 それから数十分後のことだ。まだ夜は明けていない。


 エリザベスはシャワー室から出て髪をとかし、もうひと眠りするかどうか思案していた。夜明けまでにはまだ時間はある。ベッドに横になればすぐにでも眠りにつけるだろう。


 その時不意に扉をたたく音がした。


 さすがに濡髪のまま出て行くわけにもいかず、脱衣所の扉を開けて、


「はあい、こんな時間にどなた? クリス? 入っていいわよ?」


と、声を上げて応じる。


「いえ、国家魔術院院長秘書官、ネインリヒ・ヒューランです。ヘア教授、こんな夜分に恐れ入ります。こちらにクリストファー・ダン・ヴェラーニは来ていないでしょうか?」


 扉の向こうから聞きなれた声が返ってきたが、こんな時間に来るような人ではない。


「クリストファーは来ていませんが、どうかなさったのですか?」


 ようやく髪をとかし終ってシャワー室からでて、教授室の扉へ向かいながら声を掛ける。


「――じつは、クリストファー君が何者かに連れ去られた疑いがあります」


 扉の前まで到達したエリザベスの耳に扉越しにネインリヒから驚愕の言葉が告げられた。


「なんですって!? いったいどういう事なのです!?」

言いながら扉をあけ放つと、そこには深刻な表情をしたあの秘書官が立っている。


「ヘア教授――、あ、ああ、タイミングが悪かったようですね、なんなら少し後にしましょうか?」

ネインリヒは彼女の姿を見てさすがに戸惑う。濡れ髪にバスローブという格好で、かなり際どい。顔はまだ湯の熱気に充てられて上気しているようにも見える。


「え? ああ、構いませんよ。どうぞ中へ」

「いや、でも――」

「なにを躊躇っておられるのです? クリストファーが居なくなったってあなたがおっしゃったのでしょう? そんな時に何か別のことを考えるような人ではないでしょう?」

「まあ、そうですが――。さすがに少し、目のやり場に困ります。出来ればお着替えをお願いしてもよろしいでしょうか?」


 あくまでも平静を装ってネインリヒがエリザベスに促した。


「着替えながら聞きますので、中に入ってください。それともここで着替えろと?」

少し意地悪い言い方だが、エリザベスにしてみれば自分の恰好よりクリストファーのことの方が気になるのだ。さっさと話の続きを聞きたいというのが本音だ。


「で、では、失礼します。――実は、クリストファー君には魔術院のものが常に付いておりますのですが、その者の目を盗んで、出奔したという報告が先程届きました。亡命なのか、拉致なのか、ただの外出なのか――。それで、先生なら何かご存知かと思いまして……」


 エリザベスは何も知らない。


「わたしは、何も知りません。――し、なにも聞いていません。あの子には随分と期待しているのです。私の研究を引き継ぐのは彼しかしないと思っているのです。彼も、おそらくそのつもりだと思っています。そんな彼が自分から姿を消すなんて――。少し考えにくいことです」


 言いながら、教授室から隣の部屋へ入っていく。扉は開いたままだ。


「ええ、おそらくそうでしょう。私もそうだと思っておりますが、そうなると、何者かに拉致された可能性が高まります。つまり、より危険度が増すという事です」


「――そう、でしょうね。……でも、誰が彼を?」



 ごそごそと物音をさせながらエリザベスが返してくる。おそらく着替えをしているのだろう。

 それにしてもさっき、「クリス? 入っていいわよ?」って言わなかったか? あの恰好でいながら、いくら弟子とはいえ年頃の男を部屋に招き入れたり、今も扉を開けっぱなしにして着替えをするなど、貴族家の女たちには考えられない行動だ。やはり学者と言うのは少し異質の人種なのかもしれないと、ネインリヒは思う。


「――いえ、全く見当がつきません。ところでクリストファー君は先生の研究をどのあたりまで知っているのでしょう?」

ネインリヒが聞きたいのは実はそのことだ。


 もし仮に他国へ拉致されたとした場合、エリザベスの今の研究内容が他国へ漏れる可能性がある。

 もちろん、クリストファーの身を案じる気持ちがないわけではないが、国家魔術院としてはそれよりも情報の漏洩ろうえいの方が一大事であるのだ。


「――なるほど……。あなたが知りたいのはの方なのですね。――ネインリヒさん、少しがっかり致しましたわ」

エリザベスは着替え終わったようで、部屋から姿を現すと同時に辛辣しんらつな言葉をネインリヒに向けて投げた。


「――そう、ですね。そうおっしゃられて当然だと思います。私ももちろんクリストファー君の身を案じる気持ちはあります。ですが、今私は職務として参っているのです。私の職務は国家に尽くすことです。残念ですが、それはあとけません」


「全部よ――。あの子は私の研究を私以上に熟知しているわ。おそらく何もないところからでも、今のメストリルの技術までは数週間で到達できるでしょう」


 エリザベスはそう静かに答えた。

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