第40話 新しい年度は「いつも通り」に始まる
新年度が始まってまだ数日しかたっていない。
しかしミリアは次の長期休暇が待ち遠しくて仕方がなかった。
大学では新しい顔をちらほらと見かけるようになった。
新入生が入学してきたのだろう。
ミリアはいつも通りではない毎日をすでにひと月以上過ごしている。彼女にとっての「いつも通り」というのはもちろん、放課後にあの個室でキールと待ち合わせ、二人でああでもないこうでもないと古代文字の解読にいそしむ毎日だった。
ミリアはその「いつも通り」が遠い過去になったようで、また、「いつも通りでない毎日」がミリアにとって「いつも通りの毎日」になることが怖かった。
それで、いまでも放課後は王立書庫の個室へ向かって、「ひとりで」魔法書の解読に精を出していた。ミリアが個室の扉を開けた瞬間、いつもの席にあの人が座っていて、「ただいま」と言ってくれるようなそんな日を待ちわびていた。
しかし、今日もあの人はいなかった。
ミリアはいつも通りに自分の席について魔法書『魔術錬成術式総覧』を開いて目を落とす。
この書はキールがある実践訓練の日に突然ミリアに送ったものだ。
この書の著者、エドガー・ケイスルは『七色の魔術師』という異名を持つ太古の大魔術師だ。
彼は錬成「3」という制限の中で、術式のそれぞれの割合、順序、発動タイミングを緻密に組み合わせた錬成魔術の達人だった。
通常、錬成魔術というのはその威力までを計算して掛け合わせることは非常に高度な技術であり、おそらくそこまで緻密な錬成を可能な魔術師は今の世には存在しないだろう。
殊に、3つ以上の術式の錬成など、錬成「3」以上の魔術師はメストリア国家魔術院にも数名存在するが、おそらくだれもできないと思われる。
錬成値というのは、同時または段階的に術式を発動させる能力の値であるが、単純に同時に複数の魔術式を発動させるのと、その魔術式を組み合わせて錬成術式を発動するのとでは全くと言っていいほど意味合いが変わる。
この、エドガー・ケイスルはそれをさらに個々の術式の威力、順序、発動タイミングまでも緻密に構成し、錬成術式を編み出した。
まさしく、天才である。
ミリアはすでにいくつかの錬成術式の解読に成功していた。しかし、未だ一つとして成功させるに至っていない。それを成し得るだけの力量がまだ備わっていないのだろう。
(私はこの書の中の一つでも成功させることができるのだろうか――?)
ミリアは常にその不安と、
(せめて、一つでも成功させて、キールの驚く顔が見たい)
という、希望のはざまでしのぎを削っていた。
しかし、この訓練はミリアにとって非常に良い恩恵をもたらしていた。出来ないことに挑戦し続けていることは一見無駄、無意味に見えるかもしれない。しかし、思いもよらぬ「贈り物」がもたらされることもある。
「ミリアくん。最近の君の魔法なんだが、とてもいい傾向が見え始めているね。とてもよく訓練しているのだろうね」
ニデリック国家魔術院院長が、ある時ミリアにそう言った。
「え? どういうことでしょう?」
ミリアには全く理解できていなかった。
「非常に精度が高くなってきている。また、術式発動までの速度もこれまでに比べれば格段に上がっている。魔法の訓練というのはそんなに目に見えて成長することなどほとんどないに等しいのだ。でも君は、大学に入ったときから今までの1年間で数段向上している。これは驚異的なことだよ」
そう言って、ニデリックはミリアに微笑みかけた。
ニデリックの隣にいつもいるネインリヒ秘書官もこれについては同じように見ていたと言った。
「なぜそうなったのかは、私にはわからないが、君がたゆまぬ努力と研鑽を重ねた結果だということは明らかだ。君には
ニデリックはそう言ってミリアの頭をぽんぽんと軽くたたいた。
本当はこの方はとてもやさしいお方なのだと、心からそう思う。この方ならあるいはキールを救えるのではないか、むしろいっそそのように願い出てみた方がいいのかと心が揺らいだ。
しかし、ミリアは踏みとどまる。
(そんなこと、あの人が望んでいない。あの人が望まない以上、私はあの人を信じて待つと決めたんだ――)
「はい、
そうミリアは答えておいた。
ニデリックは一瞬沈黙したが、
「そうかい。その方はとても優秀な魔術師なんだろうね」
と返した。
「何をおっしゃってるんですか、今私の目の前においでではありませんか」
とミリアは返しておく。
「ふふふ、ありがとう。君にそう言われると、私も少し気分がいいね」
そういってニデリックは去って行った。
(あぶなかった――。思わずこぼしてしまいそうだった。気をつけなければ……)
ミリアの言う、「私が目指す方」がニデリックではないことはいまさら言うまでもない。
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