第32話 職場に押し掛けるって、ねえ


――クルシュ暦366年3月下旬


 キールがこの街カインズベルクに移住してから、早くもひと月が過ぎようとしていた。

 キールは少し前まで休暇日を除いて一日ほとんど同じルーティンをこなしていた。


 朝、目が覚めると、着替えをして仕事に行く準備を済ませたら階下へ降りる。朝ごはんはメイリンさんの手作り料理をみんなで頂く。こうしているとまるで家族のような感覚だ。デジムとセフィはいつもの調子で飛び出してゆく。その後キールも下宿宿を出て職場へ向かう。

 職場は結局、ケリー牧場に決まった。労働局を出たあとそこへ向かい直接交渉をすると、是非にという事で即決だった。我ながらうまく行ってほっとした。

 牧場主のケリーさんは50代半ばの男性で、マリアさんという奥さんと二人で牧場を経営している。そこに、露店販売員として、一人女性を雇っていたがやはり一人ではという事で募集をしていたという事だった。本当はもう少し「ガタイのいい男」が欲しかったのだが、そうも言ってられない。マリアさんとその従業員のハンナさんの後押しもあって、決定したというわけだ。

 仕事が終わるのは夕方よりずいぶん前になる。というのも、街道露店なので日が暮れるとなにかと物騒なのだ。それで、昼過ぎで人通りが引けてくるころには閉店作業に入る。

 その後、ハンナさんと二人でケリー親方のところへ売上金を持っていって終了だ。


 キールはその後、カインズベルク大図書館に行き、魔法の勉強をつづけた。

 そして、夜が更けてくると、ネール横丁で食事をして帰宅する。

 そんな日常が何も変わりなく過ぎ去っていった。


 少し前まで、と言ったのは、大学が年度末試験を終え、春休みに入ったからだ。大学が休みになると同時に、デジムはどこかへふいっと旅に出ていった。セフィもこの期間はいつも実家に帰るらしく、今は下宿宿にいない。

 今下宿宿にいるのはメイリンさんとキールの二人だけになってしまっている。


 やはり、二人だけというのは少々寂しい気がする。朝ごはんも二人きりなのでたいして話も弾まない。メイリンさんはいつもの調子で話しかけてきてくれるが、やはり横槍を入れるものがいないのはなかなかに寂しいものだ。


「今日も、お仕事? キールくん、最近少し、体つきがよくなってきたんじゃない?」

メイリンさんが唐突に言う。

「え? そうですか? 自分ではあまり気付かないんですけど、結構重い物持ったりしてるからかな?」

キールは自分の体を見下ろしながら答えた。

「ふふふ。まあ若いからね。すぐに身につくんでしょうね。私ぐらいになるとちょっとやそっと動かしたぐらいではダレていく方が速くて追いつかないのよ?」

そう言ってメイリンさんは笑った。


 ふと思ったのだが、この人結構な美人だと思うのだが、どうしてお相手がいないのだろう。それともいるけど、どっかに行ってるのだろうか?


「そうなんですか? そんなふうには見えないですけど?」

キールは社交辞令で返す。そりゃそうだ、ここで「ほんとですね」などと相槌を打つ男はさすがに無神経というものだろう。


「そう、なの。女ってそういうものなのよ。ってところでキールくん?」

「はい?」

「きみ、いいヒトはいないのかい?」

「え? あ、ああ、残念ですが今はいませんね――」


 と、言った瞬間しまったと思った。やられた! 罠だ!


「はは~ん。今は、ね。ってことは前はいたってことかな~?」

「は、はは……。そんないいもんじゃないですよ」

「じゃあ、なんなのよ、いってごらんなさい?」


「あ、いや、メイリンさん? まだ朝ですよ? まさか、飲んでないですよね?」

「な、わけないでしょ! こら、言え、言いなさい!」

そんなふうに言いながらメイリンさんはキールの首を絞める。


「ぐえ……。くるじい、です、メ、イリン、さん――」

「あ、あら。ごめんなさい。つい――って、こらあ、逃げるなぁ――」

キールはメイリンさんが慌てて手を離した瞬間を狙って、席を立ち玄関へと走った。

「ぼ、僕、仕事の時間なんで! 行ってきま――す!」


 キールはその足で止まることなく下宿宿を飛び出た。

 

 そうだ、そんなにいいものじゃない。思わず漏らしてしまったミリアへの想いで、胸がチクりと痛んだ。




――のに、なんで、お前ミリアカインズベルクこんなところにいるんだ!?


「キール! 見つけたわよ!? このろくでなし!」


 その声に驚いたハンナさんが、思わず商品の牛乳を落っことしそうになる。

 キール自身もあまりに唐突なミリアの出現に開いた口がふさがらなかった。


「やあ、ミリア。久しぶり、だね……? ははは」

というか言わないうちに、ミリアが眼前に迫り、鋭い平手打ちがキールの左頬を襲った。


パァン――――!


 と、高々と破裂音が響き渡る。


 キールは自分の左頬に衝撃を感じたが、次の瞬間、それ以上に驚愕する感触が唇を襲った。


 ハンナさんはその光景に、落っことしかけて慌てて掴んだはずの牛乳瓶を、また手から滑らせてしまった。


パリィィン――――……。


 と、今度はもう戻らない崩壊の音が響く。



 数秒? いやそんなになかっただろう?


 ミリアは重ねた唇をそっと離す。キールが見つめるミリアのその目からは大粒の涙があふれ出していた。 


「ご、ごめん。ミリア、僕――」

キールはその先の言葉をつなげずに押し黙ってしまった。 


 

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