第3章『人と龍』

1話

 雫ノ宮しずくのみや様。

 呼ばれた名前は確かに自分のものであったが、その名前を紡いだ声に雫は聞き覚えが無かった。

 ちらり、と若干警戒心を抱きながら振り向いた先に居たのは、先日父の友人として紹介された恰幅の良い男性――アレン・ウェルテクス将軍だった。


「こんにちは、ウェルテクス将軍閣下。こんな雪山に、何の御用でしょうか」

「相変わらず御父上に似て皮肉がお好きですなぁ。いやなに、姫様はなかなか都の方に足をお運びにならないとお聞きいたしまして、愚息の紹介に参上仕りました」

「はあ」


 お運びにならない、と言う辺り、アレンも皮肉屋だと雫は唇を尖らせた。

 お運びにならないのではなく――なれないのだ。雫はこの霊王宮から出ることを禁止されているのだから。

 その理由を知っていているくせにそんなことを言う彼の方が余程質が悪いのではないだろうか。雫はバレないようにそっと小さな溜め息を吐き出したのであった。


「おや、御簾面みすめんはよろしいのですか?」

「構いません。将軍には失礼かもしれませんが、どうせ一度や二度顔を合わせる程度の方たちですもの。見られたところで困りません」

「ははは。確かに。それは言えておりますな」


 アレンは幼い少女の物言いに若干眉根を寄せたものの、それっきり黙り込むと、息子たちを待たせている霊王宮の門前まで雫の手を引いて歩いた。

 雪の中、煌びやかに光る不思議な髪色の少年たちが雫の前に膝を折る。


「アレン・ウェルテクスが長子、シアン・ウェルテクスです。後ろに控えますは、弟のレオンと申します」

「レ、レオンです」


 はっきりとした物言いのシアンとは対照的にレオンはどこかおどおどとした様子で雫の方を窺った。


「表を上げてください」


 雫の言葉に、海のように青い四つの眼が彼女を仰いだ。


「東の国、国王藤月とうげつが第一子。雫ノ宮です。あまり会うことはないかと思いますが、どうぞよろしくお願い致します」


 形ばかりの挨拶を終えると、雫は早々にその場から去ろうとした。

 だが、アレンは何か思うところがあったらしく、握る小さな手へと力を込める。


「お待ちください、殿下」

「……まだ、何か?」

「よろしければ、息子たちと手合わせをして頂けないでしょうか。武術の国の姫君と手合わせ出来るのは人生で一度あるかないか、分かりません。貴重な体験をさせてやりたいのです」


 彼は東の国と西の国の親睦を深めるために「交換滞在」という名目でこの国を訪れている要人だった。付き人が居ないところを見ると、既に父にも話を通しているのだろう。 恐ろしく断りにくい文句を並べられて、雫は口元が引き攣るのが自分でも分かった。

 はい、とそれだけ絞り出すことが精一杯で、返事を返してから数秒で自責の念に駆られる。


「先に一本、つまり相手に一太刀入れることが出来た方が勝者です。武器は木刀ですが、魔法は使って構いません」


 よろしいか。

 雫の問いに、まず相手を務めることになったレオンが眼鏡の奥で瞳を揺らしながら勢い良く首を縦に振った。

 ふう、と軽く息を吐き出した雫と、木刀を構え直したレオンを見て、審判を買って出たシアンが「始め」という声と同時に手を上げる。

 雫は、足場を確認するように何度かトントンとその場で足を鳴らした。

 次いで、勢い良く地面を蹴る。

 びゅう、と風を切る音が鳴った。

 一瞬で間合いを詰められたレオンは、慌てたように木刀を右へ左へと振り回すが、身体の軸がぶれている所為で雫には当たらない。

 ひたり、と首筋に固い木の感触が触れた。


「ま、参りました」


 へなへな、と情けなくその場に座り込んだレオンを見て、雫は肩を竦める。


「将軍のご子息だから、と少しだけ本気を出したのですが……。期待しすぎたようですね」


 雫がそう言って微笑むと、レオンは少しだけ目に涙を溜めて父親の背に隠れてしまった。

 雫と同じ歳らしい彼はどこか幼く見えて、少しだけ苛立ちが募る。

 敵に背を見せて逃げるだなんて、と手合わせが終わったにも関わらず、一目散に父の元へと走っていった少年を睨みながら雫は眉間に皺を寄せた。


「次は、俺の番ですね。お手柔らかにお願い致します」

「……よろしくお願いします」


 父親に似て、言葉遊びが好きらしい。

 シアンが笑顔を浮かべながら木刀を構えた。

 両の手をほとんど重ねるように木刀の柄を握った見慣れない構え方に、そう言えば西の国で主流とされる武器は少しだけ形状が違うことを思い出す。

 東の国では片刃の「刀」と呼ばれる武器が一般的なものとされているが、西の国では両刃で「剣」と呼ばれる武器を扱うのだと先日やって来たばかりのアレンが聞いてもいないのに教えてくれた。

 両手でグッと木刀を握りしめ、こちらを見据えるシアンに、雫は控えていた侍女にもう一本木刀を持ってくるように命じた。


「ほう。姫様は双刀を扱えるのか。レオン、お前はまんまと準備運動の相手にされたらしいぞ」


 カラカラ、と笑うアレンの声が雫の耳に届く。

 強ち間違いでもないな、と肩を竦めながら、届けられた木刀を受け取った。


「そのような構えを見るのは初めてですので、こちらも奥の手を使わせて頂きます。構いませんよね?」

「勿論」


 力強い返答に、雫は一瞬だけ眉根を寄せたが、すぐに木刀の柄を握った。

 逆手に持つ独特の構えを前に、シアンの顔に驚きが広がる。


「双刀遣いと戦うのは初めてですか?」

「ええ、まあ。レイピアと短剣、という組み合わせなら見たことがありますが、長物を扱う人を見るのは貴女が初めてです」

「私も、そんな構え方は初めて見ます」


 雫はちら、とシアンの後ろで控えるアレンに視線を送った。

 彼は雫の言わんとしていることを理解したのか、「始め」という威勢の良い大きな声が響き渡る。

 最初に動いたのは、シアンの方だった。

 先程、審判を買って出たのは、雫の動きを観察するためだったらしい。

 先手に回っていたのを見た彼は、雫が動くより先に仕留めれば良いと判断したようだ。

 雫のように身軽、というわけではなさそうだったが、放たれた矢のような速さでこちらへの距離を詰めるシアンに雫は笑みを深めた。


(半分正解。だけど、私は……)


「飛び込んできた相手の懐に入って、一撃で仕留める方が得意なのですよ!」


 踏み込んだシアンの身体は、すぐに態勢を変えられない。

 雫はとん、と小さな足音を鳴らして、数舜で彼の懐に潜り込んだ。

 左手で蟀谷、右手で鳩尾を狙う。

 ゴンッ、と鈍い衝撃が腕を襲って、思わず後ろへ飛び退く。

 避けられないと判断したシアンが雫の木刀を受け止めたのだ。

 これには雫も面食らった。

 低い体勢で懐を狙ったにも関わらず、突き出していた木刀を瞬時に戻して攻撃を受け流されたのだ。初めての感覚に、知れず喉が鳴った。


「あっぶねぇ……。喉、掠っただけでも、痛いな」


 赤くなった喉を撫でながら言うシアンに、雫は瞬きを繰り返す。


「驚いた。今のを避けられるとは思いませんでした。先程の彼より、数段上手ですね」

「それは光栄です、と言いたいところですが、俺は貴女やレオンよりも三歳上ですからね。上手と思って頂けなければ騎士の名折れだ」

「不備がなければ、続けますが」


 まだやりたい、と言外に伝えれば、シアンは青く澄んだ海のような眼を大きく見開いてそれから、雫の攻撃を掠った喉を逸らして笑った。


「姫様のお気が済むまで、付き合います」

「では、」


 構え直した二人の間を、アレンの声が再び通り抜ける。


「始め!」


 次に先手を決めたのは、雫の方だった。

 やられっぱなしは性に合わない。

 爛々と瞳を輝かせながら、雫の足はトントントン、と小刻みにリズムを刻んでいく。


(何だ? 一体、何の音……!?)


 衝撃は突然シアンを襲った。

 ごうっ、と耳のすぐ横を何かが駆け抜けたかと思うと、両手が痺れ木刀を取り落としそうになる。


「失礼。出力を調整したつもりだったのですけれど、強すぎたようですね?」


 はあ、と背後で雫の声がするのに、シアンは動けなかった。

 手足の痺れもそうだが、握っている木刀が少しだけ焦げている。


(さっきの音。どこかで聞いたことがある。あれは確か、)


「考えている暇があるのなら、第二波を避ける準備をした方が良いですよ!」


 ブン、と木刀が襲い掛かってくる音に、反射で前に転がり込んで、何とか事無きを得る。

 不敵な笑みを浮かべる雫に、少しだけ顔を顰めるとシアンは先程の音の正体に漸く合点がいった。


「雷、魔法」

「ご名答。正解した貴方には私の戦法をお教えしましょう。微弱な静電気を足の裏に発生させて、その反発を利用して瞬く間に相手の懐に飛び込む。『縮地』と呼ばれる伝統の技をアレンジしたものです。雷属性は我が一族が最も得意とする魔法。息をするのと同じようなものなので、意識せずとも扱えます」


 道理で間を取るのも上手いと思った。

 シアンは与えられた情報量の多さにどっと疲れたような気分になった。

 ふう、と軽く息を吐き出して、再び小刻みにリズムを刻みだした雫の動きをじっと見つめる。


「まあ、仕組みが分かったところで捉えられるとは思ってもいませんが!」


 スッと、音もなく眼前に現れた雫に、思わず身体が固まった。

 この速度で突っ込まれたら、今度こそ気絶してしまう。


「そっちがその気なら……!」


 シアンは木刀に意識を集中した。

 灰色の魔法陣が彼の周りに次々と浮かび始める。


「空気と舞え――《重力因子グラビティ・チャイルド》!」


 魔法陣から現れたのは、可愛らしい子供の姿をした精霊だった。

 見たこともない魔法に雫は距離を取って、シアンの出方を窺う。

 すると、精霊が降り立った場所がバリバリという激しい音を立てて抉れた。


「……なるほど」


 精霊が触れた部分を重力で押さえつけているらしい。

 互いに手の内を晒した、と思っているシアンに対し、雫は静かに笑ってみせた。


「当たれば一溜りもありませんが、当たらなければ良いだけのこと!」


 雫は再び地面を蹴った。

 トーン、トーン。

 雫が歩を進める度、小さな反響音がシアンの耳を擽った。

 精霊を器用に躱しながら、雫の姿が眼前に迫る。


「私が何の意味もなく、飛び跳ねていると思いました?」

「!?」


 やはり、意識して飛び跳ねていたらしい。

 一際高く飛びあがったかと思うと、雫は刀を十字に合わせて急降下した。


「轟け――《鳴神なるかみ》!!」


 雫の刃が突き刺さったのは、シアンのすぐ脇、最初に雫が立っていた場所だった。

 ゴゴゴ、と何かが地を伝う音が辺りに響き渡る。

 次いで、勢い良く地面から飛び出してきた雷の蛇がシアンを襲った。

 突然のことに受け身を取ることも忘れて呆けていた彼を救ったのは、審判を務めていたアレンだった。


「それまで!」


 もう少しで真正面から雷を浴びるところだったと冷汗をだらだらと流す息子を見て、アレンは溜め息を出す。

 たった三歳しか変わらないというのに、こうも実力差があるとは思わなかった。

 はあ、と父親が吐き出した溜め息にも気が付かずに、シアンは雫が手合わせ開始当初から魔力を地面に送っていたことに気付いて感嘆の声を上げる。


「お手合わせ、ありがとうございました。もしかして、レオンと戦っているときから既に魔力を溜めていたのですか?」

「ええ、まあ。トントン、と音が鳴っていたでしょう? アレは地面に魔力を送るときに地層が雷の魔力に反応して音を響かせていたんですよ」

「勉強になりました。また、機会がありましたら、ぜひお願い致します」

「こちらこそ、とても楽しかったです。それでは」


 一礼して去っていく雫の背中はどこか寂しそうで、シアンは首を傾げた。


「雫ノ宮様は、またやりたくなかったのかな? 楽しかったって言ってくれたのに」

「あの御方は東の王族の中でも稀有な存在だからな。私たちのような者と気軽に会うことは難しいのだよ」

「でも、うちの王子様たちは普通に遊びにくるよ?」


 兄の問いに続いてレオンがそう問えば、アレンは苦い顔をするしかなかった。


「あれはまあ、うん。私が剣術指南をしていることもあるからなぁ。王族と言っても十把一絡げ。色々あるものだ」


 もう会うことはないのか、と若干残念に思いながら、シアンは雫の後姿を見送ったのであった。

 久しぶりに胸躍る手合わせだった。

 満足そうに頬を緩めて、顔を洗う雫の隣に、黒い影が落ちる。


『随分と楽しそうね、雫』


 その人は、コロコロと鈴が転がるような音で笑うと雫の頭をそっと撫でた。


「はい、華月様。久方ぶりに手合わせで心が躍りました」


 常ならば、侍女の誰かが相手を務めてくれるのだが、王族という身分もあってか皆本気で相手をしてくれない。怪我をさせるという恐れもあるのだろう。

 ここ最近は張り合いのない手合わせばかりだった。

 少し前に国に帰ってしまったユタ、という歳の近い侍女が居た頃は毎日の手合わせが楽しみで仕方なかった。

 ぼんやりと彼女のことを思い出して、雫は胸の辺りが締め付けられるような痛みを覚えた。


「……ユタは大丈夫でしょうか」


『あの子は妾の魔力と相性が悪かったのでしょう。この場所を出れば、きっと大丈夫なはずですよ』


 そう言って微笑む華月の表情にも心配の色が滲んでいる。

 ユタは、かつて霊王宮に属していた遠縁の伝手でやって来た少女だった。

 回復術を学びたいと言って熱心に教えを乞うていた彼女が倒れたのは、軽い貧血をおこしたからであったが、その原因は彼女の身体に流れる血液にあった。


『ここは東の地。ユタは西の国の生まれですから、妾の領域に長く滞在したために魔力循環が不調を起こし、心臓に負荷が掛かったのかもしれません』


 そう言われてみれば、霊王宮の周りを固める兵士も、雫の身の回りを世話する侍女たちも皆出身は東の国であった。

 帝都・ミツバでは中央の国、西の国からやって来た者が王の配下に加わったと聞いたことがある。

 どうして、と視線で問いかければ華月は困ったように笑った。


『妾が守護するのは東の国。東の国に住まう者以外には妾の魔力は毒となるのです』

「じゃあ、今日来たウェルテクス将軍たちも、」

『短い時間なら大丈夫ですよ。最近は愚図って嫌がっていた手合わせも彼らとなら出来そうなのでしょう? 私から藤月に掛け合ってあげます』


 どうやら見抜かれてしまっていたらしい。

 うぐ、と言葉に詰まった雫の頭をもう一度だけ優しく撫でると、華月の身体はすぅと空気に溶けて消えてしまった。

 もう二度と会わない。

 そんなことを最初に口走った手前、雫はアレンと彼の二人の息子たちを前にして聊か緊張した面持ちで彼らを出迎えた。

 華月直々に声が掛けられたこともあってか、今日は雫の父・藤月も同伴し、雫の様子を窺っている。

 いつもの着物から道着に着替えるために部屋に戻った雫だったが、待てど暮らせども一向に顔を覗かせない。

 心配した侍女が藤月を連れてくるのに、そう時間は掛からなかった。


「どうしたのだ、雫ノ宮。主が手合わせをしたいと言うから、会議の間を縫って将軍に来て頂いたと言うに」

「わ、分かっております……。ですが、先日その、無礼な態度を取ってしまったので……」

「主が生意気なことなど疾うに知っておられよう。醜態の一つや二つ増えたところで誰も笑わんよ」

「ち、父上!」


 カラカラと笑いながら娘の手を引いて登場した藤月に、アレンは暫し瞬きをして驚いていたようだったが、彼に手を引かれて顔を真っ赤にしている雫を見ると、すぐに歯を見せて笑った。


「一昨日振りでございますね、殿下。その様子ですと、ご機嫌はあまり麗しくない様子で」

「……っ」

「はは! ほんに主はアレンが苦手よなぁ。隠そうともしないところがまた何とも可愛らしい」


 大人二人に揶揄われて雫の頬はますます赤みを増す。

 今にも泣きだしてしまうのではないかと思うほど眼を潤ませてこちらを睨む幼気な少女に、しまったと藤月が口を噤んだ。


「すまぬな、雫。冗談が過ぎた。ほれ、早う行って鍛錬してまいれ」

「はい」


 たったった、と軽い足取りでシアンとレオンが待つ道場の方へ走っていった雫の後姿を、藤月が眉間に皺を寄せながら見送る。


「王よ。如何なさいましたか?」

「……いや。あれが自ら手合わせしたいと言うたのは初めてでな。余程、貴公のご子息たちを気に入ったらしい。父としては喜ぶべきなのだろうが、手放しで喜べぬ複雑な心境でのう」

「うちには娘が居ないので、何とも分かり難い感情ですが……。そうですねぇ。ご息女に友人が出来たことを素直に喜べば良いのではないでしょうか」

「雫が主を嫌う理由が少しだけ分かったかもしれぬ」


 少しだけ拗ねたように唇を尖らせた藤月に、今度はアレンが声を立てて笑う番であった。


「ははは! これは参りましたな! 国王陛下に嫌われてしまっては、私はこの国に居られなくなってしまう!」


 カッカッカ、とアレンの大きな笑い声が雪深い霊王宮の中に木霊した。



◇ ◇ ◇


 雫とレオンが十二歳、シアンが十五歳を迎えた年の冬。

 すっかり仲良くなった彼らは、互いの父親たちの目を盗んでは霊王宮で毎夜、くだらない話に花を咲かせていた。

 今宵もまた、いつも通り。

 何事も無く眠りを迎えるのだ、と雫が厠から、シアンたちが待つ広間まで戻ろうとしていた。


『見つけた』


 それは最初、風のように小さな音だった。

 霊王宮は霊峰キリの頂上に建設され、夜は常に吹雪に苛まれている。

 別段気にすることもなく、廊下を行く雫を遮ったのは、華月のヒステリックな悲鳴だった。


『雫!! 走って!!』


 急に、どうしたのだ、と疑問を問いかけるより早く、雫を熱風が襲う。

 驚いてそちらを振り返れば、そこには血のように赤い目をした不気味な男が立っていた。


「な、だれ……? どうやってここに、」


 霊王宮には華月の結界が張ってある。彼女の許しを受けた者しかこの建物には入れないはず。

 男は雫の問いには答えなかった。代わりに薄っすらと笑みを浮かべて、こちらに緩慢な動作で近付いてくる。


 血に塗れた装束と、細く紐のように伸びる太刀を月明かりが妖しく照らしている。

 どう見ても、華月がこの男を結界内に招いたとは思えなかった。


『華月』


 男が零した名前に、雫は息を飲んで固まった。

 それは雫がこの世で最も敬愛し、同時に恐れている者の名前だったからだ。


「か、華月様」


 雫の声に華月は答えない。

 ただ、ゆっくりと刺青から姿を現したかと思うと、雫を庇うように男の前に立ち塞がった。


『貴様のような童に呼び捨てにされるほど、妾の名は軽くはないぞ』


 視線だけで、他人を殺せそうな、そんな目をして華月は男を睨んだ。

 鋭くつり上がった目を見て、男が楽しそうに笑う。


『俺だよ、華月。我が愛しの片割れ』


 にやり、と男が口角を持ち上げる。

 その言葉に、華月の表情が強張った。

 指先から震えが全身に走り、夜色の美しい髪が怒りで逆立つ。


『……旭日』


 未だかつて聞いたことのないような低い声を出した華月に、彼女の後ろで呆然としていた雫は思わず引き攣った悲鳴を上げた。

 その小さな声に、華月は雫がこの場に居ることを思い出した。


『十六夜』


 出てきなさい。

 華月の声に、彼女の影から黒い御簾を額からぶら下げた女性が姿を見せる。


『雫と彼女の友人を連れて、今すぐ宮を離れなさい』

『御意』

「い、いや! 嫌です! 私も一緒に……!」


 雫の言葉は最後まで続かなかった。

 十六夜と呼ばれた女性が雫の口を覆って、走り始めてしまったのである。

 いやいや、と愚図る雫を抱え、この場から離れた十六夜の背中を見送ると、華月は再び男の――旭日の方を振り返った。


『どうやって、その[[rb:依り代 > からだ]]を手に入れたのです?』


 旭日の身体は千年前、華月の手によってとある場所に封じられていた。

 絶対に中からは封印を破ることは出来ない。

 そういう風に術式を組んだはずだった。


『千年だ。千年もあれば、内側は崩れずとも外側に綻びが生じよう』

『まさか……』

『そのまさか、だよ。その綻びを修繕するためにやってきたこの者を捕らえた』


 旭日を封じた場所は、特殊な術で覆われており、容易には近付けない。

 だが、たった一つの例外があった。

 術の綻びを直す魔導士のみ、その場所に入れるのである。

 旭日はその魔術師を襲ったのだと言った。

 華月の結界は三つの異なる術を持つ血族が揃って、初めて意味を成す。

 それが一つでも崩れてしまえば、遅かれ早かれ本体の封印も解けてしまう。

 サア、と華月の顔から血の気が引いた。


『お前の気に入りだったかな? 名は確か――ネイヴェス。そう、ネイヴェスの子だ』

『よりによって……』


 ネイヴェスは封印術に長けた一族だ。

 その身体が乗っ取られたとなれば、華月も迂闊に手を出すことは出来ない。

 恐らくそれを分かっていて、身体を乗っ取ったのだろう。

 昔から華月が一番嫌うことをする。


『その子の身体を返しなさい』

『そう言われて、俺が返すとでも?』


 頬のすぐ脇を冷たい何かが掠めていく。


『相変わらず、お前の血は甘いなぁ』


 べろり、と太刀に付いた華月の血を舐めながら、旭日は笑った。

 厭らしく細められた独眼に、背筋を悪寒が走り抜ける。

 つう、と頬を伝った血が、床に落ちた。

 赤く汚れた床を見て、華月は唇を噛み締める。


『妾は何をされても構いません。けれど、彼らに手出しするのは止めて』

『ならば、共に行こう。お前が俺と共に来ると言うならば、俺はこいつらに興味などない』

『それに応じたところで、貴方は彼らを殺すのでしょう?』


 瞼を閉じれば、今でも昨日のことのように思い出せる。

 旭日と二人で過ごしたあの日々を。

 だからこそ、悔しかった。

 千年前と変わらない彼の姿を見るのが。


『どうあっても彼らを殺すと言うのですね』

『お前が俺を拒むと言うのならば、それも厭わぬ』

『妾の答えは変わりません』


 華月の声は冷たかった。

 霊王宮の周りに降り注ぐ雪のように冷えた、その声に旭日の眼が愉悦に染まる。


『お前の眼に映る姿が己でないことが残念だ』


 そう言って笑うと、旭日は己の陰に身体を沈めた。


『待ちなさい! 旭日!』


 華月の手が捕らえるより早く、旭日の姿は完全に影の中へと消えた。

 微かな魔力の後を辿れば、それは先程雫が逃げた方向へ向かっていく。

 依り代である人間を殺されてしまえば、華月とてただでは済まない。


『逃がしませんよ!』


 華月も自らの陰に身を落とすと、旭日の後を追った。


『姫様、お早く』


 華月と対峙していた魔力がこちらへ向かってくるのを感じて、十六夜は未だ愚図る幼い主を急かすように促した。


「わ、分かっています!」


 武器を手にすることには慣れている、そう思っていたのに。

 背後から迫る殺気を感じ取ってしまうと、途端に身体が震えて思うような動きを取れなくなる。


「こちらは準備整いました!」

「だから、分かっていますと言っているのに! 皆して急かさないでください!」


 シアンが自分の武器を手に走ってくるのを見て、雫は眉根を寄せた。

 逃げて、とそう確かに伝えたはずなのに、ウェルテクス兄弟は首を縦には振らなかった。

 それどころか、自分たちも残って戦うと言い出してしまって、十六夜は御簾で見えないことを良いことに盛大に顔を顰めてしまった。


『良いですか。好機は一度きりです。私が囮になるので、その隙を衝いて一斉に攻撃してください』


 十六夜の言葉に、雫は静かに頷いた。

 すぐそこまで敵が迫ってきている。

 霊王宮に長く住んでいる雫だからこそ感じ取れる気配に、紅顔が僅かばかりに歪んだ。


「殿下、お下がりください。貴女が傷付けば、華月様のお身体にも障ります」

「言われずとも分かっています。だからこそ、私がアレを仕留めねばならないのです」


 雫が柄を握る手に力を込める。

 冷たい目をした男だった。

 華月が旭日と呼んだあの男は、恐らく雫を殺そうとここへやって来たのだろう。

 赤く冷えた眼は、雫に憎しみと怒りを向けていた。


『ほう。面白い冗談を言う餓鬼だ。お前に俺が仕留められるかな?』


 蔵を背に立つ、雫とシアンたちの前に、男は突然姿を見せた。

 見れば、建物の影を縫って雫たちの後を追ってきたらしい。

 伸びた柱の陰から、うすら寒い笑みを浮かべて男が、旭日が、雫を睨みつけた。


『人間とは愚かだな。出来もしないことを、どうしてそう口に出したがるのだ?』


 心底理解できないと言った表情で、旭日は一歩ずつ雫との距離を詰める。

 その前に、十六夜とシアンが立ち塞がった。

 雫の隣には震える手で剣を握ったレオンが泣きそうな顔で旭日を睨みつけていた。


『ここはお通し出来ませぬ。どうか、お引き取りください』

『お前たちはどうしてそう俺が「応」と言わないことを聞くのだ』


 愚かな月の子よ。

 旭日はそう告げると同時に十六夜に斬りかかった。

 布のようにしなやかな太刀が十六夜の御簾を無残にも斬り裂く。


「十六夜っ!」

『平気です。――どうか、今一度お考え直しください。旭日様』


 十六夜の、華月に似た美しい面立ちが月下の下に晒される。

 それを見た旭日の顔が、これ以上ないほどに歪んだ。


『……華月よ。お前とて、俺の嫌がることをするではないか』


 苦虫を噛みつぶしたような顔でそう零すと、旭日は十六夜に再び刀を振るった。

 だが、今度は先程と違った。

 鋼と鋼がぶつかり合う、重い金属音が辺りに木霊する。


「二度もさせると思うな」


 シアンの剣が旭日の太刀を捉えた。

 雫が息を飲む音を背に、シアンは旭日の太刀を弾き飛ばす。


「レオン。殿下を連れて、先に山を下りろ」

「で、でも」

「良いから! ここは俺と十六夜様だけで十分だ」


 構わず行け、とシアンが告げるのに、レオンは動かなかった。

 眼前の男の殺気に中てられて、身体が固まってしまったのだ。


「このグズ! さっさと行けって言っているだろ!」


 シアンがレオンを睨む。

 レオンは兄の声で、震えが止まったのか、ゆっくりと緩慢な動作で雫の腕を引いた。

 シアンと十六夜を残して行きたくないと雫が彼の腕を振り払う。


『ごっこ遊びに興じているほど、俺は暇ではなくてな』


 旭日は微笑みを浮かべると、シアンの方にグッと体重を掛けた。

 薄い金属だとは思えないほど重いそれが、シアンの腕に圧し掛かる。


「行かせねえって言っただろ!!」


――キィン。


 弾き飛んだ太刀を見て、旭日は目を細めた。

 影に戻ってそれを回収すると、カラカラと笑い声を上げて、シアンを見据える。


『面白い。では、これならどうだ?』


 旭日が腕を振るうと、太刀は蛇のようにしなやかな動きで、空中を舞った。

 二撃目が来る、とシアンが腕に力を込める。

 だが、標的は彼ではなかった。

 彼の後ろで動けなくなっているレオンと、雫に向けて凶刃が煌く。


「レオン!! 伏せろ!!」


 兄の声に、レオンはハッとした表情になってしゃがみ込んだ。

 だが、彼がしゃがみ込んだことによって、すぐ後ろに居た雫が無防備になってしまう。

 シアンがレオンを飛び越えて、雫に手を伸ばす。


――ザシュ。


 肉を断つ嫌な音が雫の耳を支配した。

 頬に触れる生温かい液体、雪を汚す赤に、雫は叫んだ。


「シアンっ!!」


 首筋から血を流したシアンが、雫の胸に倒れ込む。

 ドクドク、と早くなっていく心臓が煩わしい。

 震える手で、シアンの身体に触れると、彼の身体が段々と冷えていくのが嫌でも分かった。


「このっ!!」


 雫は震える手で刀を旭日に向けた。

 歯を食いしばり、眼光鋭くこちらを睨む幼子に、旭日は口元を歪めて笑う。


「げほっ……殿下……にげ……ごほっ」


 苦しそうに咳を繰り返すシアンに雫は唇を強く噛み締めた。

 柄を握る手に力が籠る。


『俺を殺したいか?』


 シアンを傷付けた白い刃先が鈍く光り、雫を捉える。


『どうした、俺が憎いのだろう? ならば、その刃で俺を斬ればいい』


 一歩、また一歩、と旭日がゆっくりと雫たちの方へと近付いてくる。

 憎い、とそう心の中で確かに思っているのに、雫は眼前の男が放つ殺気に剣を持ったまま固まってしまった。


『さあ、殺せよ!! その刀で俺を斬れ!!』

「!!」

『出来ないのか? 俺は出来るぞ! 華月と器のお前が手に入るなら、俺はこの世界さえ捨てられる!!』

「ひ……っ」


 その場にへたり込む雫の元にしゃがみ込むと、旭日は彼女の顎を掬い上げるようにして片手を添えた。


『お前たちを手に入れるために、邪魔をするモノは全て排除する。この餓鬼のようにな。お前が俺を拒むと言うのならば、俺はお前の大切なモノを全て屠るまでだ』


 そうしてそのまま雫に口付けでもするかのように顔を近づけて、旭日は急に胸を抑えて苦しみだした。

 旭日の身体から白い光が分離する。


『くそ……。まだ馴染まん』


 倒れた男の身体の周りを浮遊する白い光が憎らしそうに呟く。


『旭日様、今回は手を引きましょう。貴方の魔力が無くては……』


 どこから現れたのか、巨大な白い烏が男の身体を啄んで、白い光を宥めた。


『ああ……』


 心苦しそうに白い光は烏に同意すると再び呆然とする雫の前に姿を見せる。


『忘れるな。お前は必ず俺のモノにする』


――必ず、な。


 ふわり、と生温かい風が頬を撫でるのに、雫は思わずギュッと目を瞑った。

 次に目を開けたとき、そこに男たちの姿は無かった。

 涙を流して兄の名を呼ぶレオンと、雪の中に倒れたまま動かないシアンの姿が目に飛び込んでくる。


「い、や」


 どばどば、と夥しい量の血が雪を染めていく。

 鉄が錆びたような、嫌な臭いが鼻の奥にこびりついた。



◇ ◇ ◇


「いやーーーーっ!!!」


 がばり、と勢い良く身体を起こして悲鳴を上げた桔梗に、ベッド脇の椅子に座っていたレオンが、慌てたように彼女へ近付いた。


「桔梗? 大丈夫かい、凄い汗だよ。何か妙な術でも、」

「……シアンは!? シアンは無事なの? 首の傷は塞がった?」


 レオンの目が大きく開く。


「大丈夫。大丈夫ですよ、殿下。ここはカグラ。旭日はもう居ませんから」

「カ、グラ?」


 レオンの言葉に、桔梗はゆっくりと記憶の中を辿った。

 自分たちが霊王宮で旭日に襲われ、銀青がそれを庇ってくれたことを思い出し、じわりと眦に涙が滲んだ。


「ごめんなさい。取り乱して……。昔の、あの日の記憶が蘇ってしまって」


 カタカタ、と小刻みに震える桔梗の手に、レオンはゆっくりと己の掌を重ねた。


「君が謝ることじゃないよ。悪いのは旭日だ。だから、どうかそんな顔をしないで」


 レオンの優しさがじんわりと桔梗の心を溶かしていく。

 無意識の内に彼へと手を伸ばすと、レオンは困ったように笑いながら桔梗の身体を抱きしめた。

 温かな体温をすぐ傍で感じて、桔梗は呼吸が落ち着いていくように感じた。


「落ち着いた?」

「ええ。本当にごめんね」

「ううん。君の素性を知っているのは限られているから、気にしないで」

「レオン……」


 ごめんね。

 もう一度短くそう告げると、桔梗はレオンの背中に回した腕に力を込めた。

 ツン、と鼻の奥で涙の匂いが弾ける。


「レオン、桔梗の様子はどうだ」


 ノックもなしに部屋へ入ってきたシアンに桔梗とレオンの顔がじわじわと朱に染まっていく。


「だから、ノックしてくださいっていつも言っているじゃないですか!!」


 ばん、と慌ててレオンの身体を突き飛ばすと、桔梗はシアンを鋭い目で睨んだ。


「何だ、今更。見られて困るようなことでもしていたのか?」


「していません!!」

「しているわけないだろ!!」


 レオンと桔梗の声が重なる。

 セクハラだ、変態だ等と罵倒の声を右から左へ流すとシアンはハッとした様子になって窓の外を見つめた。


――バアンッ!!


 何かが爆発した音が窓ガラスを四散する。


「何だ!?」

「分からん! だが、何かが猛スピードで落ちていった!」

「私は大丈夫ですから、行ってください!」


 桔梗の声に、シアンとレオンは顔を見合わせて、追い風に乗った鳥のような速さで部屋を飛び出した。

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