2話
やっと片付いた、と桔梗は額に滲んだ汗を拭った。
朝から森の中で待機を余儀なくされていた所為か、汗と埃塗れで気持ちが悪い。おまけに、最後の戦闘で返り血を真面に浴びてしまったのが良くなかった。
ツン、とした血の匂いに、桔梗は顔を顰める。
今が冬でなければ、川の中に飛び込みたい衝動を抑えられなかっただろう。
早くシャワーを浴びたいと、帰路に向けての一歩を踏み出す。
――ガササッ。
すぐ隣の木から大きな物音がしたのに、桔梗は眉根を寄せた。
もしかすると、まだ男たちの仲間が森に潜んでいるのかもしれない。
刀の柄に手を置き、慎重に辺りの気配を探る。
チッ、と頭上で鳥の鳴き声が響いた。
何かを威嚇する鳴き声に、桔梗が警戒を強めた、その時――バキバキっと激しい音と共に子供が上から振ってきた。
「何っ!?」
驚きのあまり、つい刀を抜きそうになって、腕が伸びるのが数秒遅れる。
だが、難なく子供を受け止めることに成功すると、桔梗はゆっくりと地面へ子供を寝かせた。
年は十四、五歳くらいだろうか。顔半分に朱色の紋様が施され、青々と茂る葉を思わせる色の髪が全て編み込まれている。
その独特の色合いに染まる髪を見て、桔梗はハッとした。
(この子、森の民だわ)
世界の中心に聳え立つ大木――世界樹。その根から生まれた新たな森を守る一族、それが森の民だった。
生まれてから死ぬまで、決して森から出ることはなく、森に害なすものを決して許さないと言われている希少な民族で、人々は彼らに敬意と畏怖を込めて「森の民」と呼んだ。
鹿や猪、様々な生き物の毛皮で作られた民族衣装――森の毛皮と呼ばれるものを身に纏った少年は、小柄なことも相まって野に出たばかりのリスのように思えた。
ふと、衣の隙間から見えた肌が血で汚れていることに気が付く。
よく見れば、顔や足にも傷があり、中でも酷かったのは左腕の熱傷だった。皮膚が爛れ、化膿している。
「酷い怪我。それにこの火傷は……」
自分の魔法では治すことが出来ないと判断を下すと、桔梗は副官の名を呼んだ。
「リラ! すぐに来て!」
桔梗の呼びかけに、副隊長はすぐに彼女の元へとやってきた。
地面に横たわる少年を見るや否や、慌てて回復魔法を施す。
腕の火傷が治り、本来の肌の色に戻ると、少年の呼吸は幾分か穏やかなものに変わった。
「……じ、ちゃん……きょ、こそ……村長……に、」
何か夢を見ているのだろうか、時折苦しそうに零される寝言に、桔梗とリラは顔を見合わせる。
「傷は塞いだとは言え、体力が回復した訳ではありません。この子も一緒に連れ帰った方がいいと思います」
「そうね。大佐の方には私から伝えておくわ。ありがとう、リラ」
「では」
一礼して、自分の持ち場へ戻っていくリラを見送り、桔梗は再び少年を抱えた。
男の子にしては随分と軽い身体に、知れず眉間の皺が深くなる。
現場保存や押収した魔導銃の確認をしたかったのだが、傷付いた少年を放ってそれは出来そうになかった。
どうしたものか、と桔梗が口をへの字に曲げて考えていると右耳のピアスが受信したことを意味するジジッという鈍い音を繰り返す。
「……ハイ、桔梗」
『隊長、早く戻ってきてください! 大佐が村長の胸倉を掴んで今にも放り投げそうなんです! 私たちでは手に負えません!』
村役場に残してきた部下からの悲鳴に、桔梗はまたか、と項垂れた。
――一体、何度同じことをすれば気が済むんだあの上官は。
深い溜息を吐きながら、部下を宥めると直ぐ行くと言って腰のポーチから、片手ほどの大きさの水晶を手に取った。
地面に向かって勢い良く叩き付ける。
パキン、と水晶の割れる音と同時に煙が噴き出し、あっという間に風景が変わった。
さっきまで土煙舞う森の中にいたというのに、木造でできた商店の立ち並ぶ場所に立っている。
半泣きの表情で桔梗を出迎えた部下(待機組)に少年を任せると、村の広場の方で聞こえる怒号に渋々近付いていく。
「はい、すみません。通ります! ごめんなさーい」
村人の群れを縫うように進むと、漸く騒ぎの中心に辿り着いた。
そこには先程、部下から報告があった通り、上官であるシアン大佐が村長の胸倉を掴んでいた。ただし、村長の身体は宙に浮いていて、胸倉を掴むという可愛い事態で済まされるものではなかった。
「大佐」
「……桔梗か」
「取りあえず、場所を変えましょうか?」
桔梗の言葉に漸く周りの状況を把握すると、シアンは舌打ちを零しながらそれに従った。村人たちを散らすように手を振れば、野次馬根性満載の彼らには物足りないのか渋い顔のまま家や店の中へと戻って行く。
「それで? 何があったんです?」
場所を村役場の中会議室に移動して、桔梗が口を開いた。シアンの眉間に常の二割増しで濃い皺が刻まれる。
「……村人じゃないからと、森の民の依頼書をこちらに回していなかった」
「はあッ?」
素っ頓狂な声を上げたのは無理もない。
村役場と銘打ってはいるが、村人しか騎士団に依頼を出せないという決まりはないのだ。むしろ旅行者や商人たちからの依頼も受理できるように各村、各町によって対応は様々だが誰でも騎士団に依頼が出せるよう義務付けられているほどである。
従って桔梗の「はあッ?」は正しくそれに対するものであった。
「い、いやそのそれは……」
先程はシアンに胸倉を掴まれていたのではっきりとした容姿が分からなかったが、よく見れば中肉中背の村長の額に脂汗が浮かんでいる。ねっとりとしてそうなそれが照明の光によって、鏡のように光を反射していた。
「どういうことですか? この村は森の民が住むラディカータの森と目と鼻の先。彼らがここから依頼を出そうとするのは当然のことでしょう?」
凛と耳に心地良いソプラノであった桔梗の声が、少し低めのアルトに変わる。鋭い眼光のオプション付きとなれば村長の娘と同年代であろう彼女でも凄味があった。
他人事のように桔梗と村長のやり取りを見ながらシアンが小さく笑う。
目上の相手でも動じず、不平があれば正そうとする桔梗の正義を好ましいという思いからの笑みであった。
「まあ、今更何を言われた所で言い訳にしか聞こえませんけど。それよりもその依頼者をここに連れてきてください」
「で、ですが」
「まさか、私たちの前で森の民が現れると不吉の象徴だ等といった戯言を言うつもりではありませんよね?」
有無を言わさぬ口調だった。美人が怒ると怖いというが桔梗は殺気まで放つので尚悪い。
村長は顔中を汗でびっしょりと濡らし、慌てて部屋から飛び出して行った。
「おお、怖い」
「何がです? 私は大佐の食べている不可思議な物体の方がよっぽど怖いですけど」
「お前、これの良さが分からないとは……。かわいそうに……。人生の八割は損してるぞ」
シアンがこれと称したのは彼の手に持たれているパフェのことである。だがそれは普通のパフェではなく、納豆――この地方で冬に食べられる豆を発酵させたもの――がかけられた、所謂「ゲテモノ」と称される類のものだった。
桔梗の顔が苦悶の表情になる。
食べている本人は良いかもしれないが、周囲の人間からしたらいい迷惑である。見た目に加え、匂いも殺人的なのだ。
昼食をまだ食べていなくて、逆に良かったかもしれないと桔梗は一人ごちた。
「…………あの」
シアンがパフェを綺麗に平らげた頃。控えめなノックと共に一人の少年が入室してきた。
彼は、桔梗が森で介抱した少年だった。
燃えるような緋色の目が真っ直ぐに桔梗とシアンを見つめる。
「先程は、助けて頂いてありがとうございました。それで、その――ど、どっちが『赤鬼』さんですか?」
まさかこんな子供にまで、その名を呼ばれるとは思っていなかった、と桔梗はその場に脱力した。シアンが、ぶっ、と小さく噴出したのを睨むことで黙らせる。
「その名前で呼ばれるのはあまり好きじゃないのだけれど。……一応私が赤鬼って呼ばれている方よ」
苦笑しながら言えば少年は慌てたように頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!! 『赤鬼』って呼ばれているから、てっきり男性の方だとばかり思っていて!」
堪えられないといった様子でシアンが盛大に噴出す。ソファで腹を抱えて笑い出した上官に桔梗の額に青筋が浮かんだ。
村長の不手際に気が付いたのはこの上官であったが、少年を連れてくるように言ったのは自分である。事後処理が苦手なくせに面倒事ばかり起こしてくれるこの男を心底蹴りたくなったのも無理はない。というか気が付くと、身体が踵落としの体勢に入っていた。
それも騎士団から女性騎士に支給される通常のブーツではなく、桔梗の蹴り用に特化した特別仕様の物を、段々と高い位置に持ち上げる。
雷魔法を扱う彼女は怒ると無意識に魔力を帯びることがあった。バチバチと物騒な音と美しい金色の光を纏った踵落としがシアンの太腿へと吸い込まれるように綺麗に決まる。
「あら、失礼」
「お前……! 後で絶対泣か、す……ッ!!」
若干焦げ臭くなったシアンをソファの端に追いやると、桔梗は固まったままの少年に向かいのソファへ座るよう促した。
「村長から貴方が依頼を出したいということを聞きました。受理するかは本部と相談して決めることになるけれど、話だけでも聞かせてもらえないかしら?」
桔梗が微笑を浮かべながらに言えば、少年は少し照れたように頬を染めた。それからきゅっと口を一文字に結んで硬い表情になったかと思うと、真剣な眼差しで桔梗とシアンを見つめる。
「実は、その、俺たちの住む森が枯れているんです」
「……何?」
シアンが怪訝そうに表情を歪める。
「最初はそういう年もあるからと気にしていなかったんですが、枯れた部分が段々と広がっていて……」
「どういうこと?」
「自然な現象だったら俺たちが察知できないわけがありません。俺たちは森で生まれて、森と過ごし、森で死ぬ者。――母なる森の異変に気付けないなんてこと、あるわけがないんです」
少年の目が不安げに揺れた。何と言っていいか分からないと、その表情が雄弁に語っている。
「それで調べてみたら
「祠守には守もり人びとが居るはずよね? その人の体調はどうなの?」
「全身が火傷を負ったように熱いと寝たきりになっています。これはいよいよ、まずいぞと思ってこうして依頼に来たんですが……」
なるほど、それを村長にそのまま話せば追い返されもする。見るからに我が身が可愛いタイプの村長のことだ。少年の話から疫病の可能性を考え、彼が村に留まることを良しとしなかったのだろう。桔梗とシアンは村長の様子からそう納得した。
「枯れているとなると、私たちでは対処しかねるかもしれませんね」
「ああ。だが、本部に帰っている間に、ここにも影響が出たらどうする」
「……一度、通信を入れてみます。それから考えましょう」
取り敢えず一旦お開きでと桔梗は片手を上げて、提案の意思を表示した。
これにはシアンも少年も賛成だった。
シアンと桔梗は先ほど任務を終えたばかりで疲れていたし、聞けば少年も森から徒歩で三時間の距離を一時間という短い時間で走って来たらしく、休めると聞いてほっとした表情になった。
◇ ◇ ◇
二時間後。シャワーを浴び、少しの仮眠を取った桔梗が会議室に戻ってきた。
ふわりと香るのはこの村特産の入浴剤である。長湯だったのか、彼女が歩く度に湯の香りが鼻を擽った。
「通信してみたら、帰りのルートを変更して調査しろとのことです」
「他に動ける隊はないのか?」
「現状一番近くに居るのは私たちですからね~。近くに居るのなら寄ってこいって」
桔梗の口振りから指示した人物を特定したのか、シアンは軽く溜息を吐き出す。
「団長が?」
「はい」
「本当無茶振り大好きだよなー。あの人」
言い出したらきかないところは大佐も団長といい勝負ですよ、と桔梗は胸の中にそっと零した。
すぐに出発の準備に取りかかろうとシアンと桔梗が揃って部屋を出れば、村長が誰かと揉めている声が聞こえてきた。
また例の少年と揉めているのかと二人して眉を寄せながら、そちらへ向かう。
「だから、お通しできませんと言っているでしょうが!」
「いいからそこを通せ。私はお前ではなく、騎士殿に用があるのだ」
静かだがよく通った声が耳に木霊する。叫んでも、荒げてもいないのに、耳元まではっきりと聞こえた声に、桔梗は思わずスッと目を細めた。
「何事ですか?」
桔梗の声に驚いた村長が慌てたように両手を振って何でもない風を装う。
だが脂汗を滲ませている時点で、すでに取り繕っている意味がないことに村長は気付いていない。それを見た桔梗とシアンは顔を見合わせて苦笑した。
「そちらの方は?」
今度はシアンが問うた。一瞬だけ村長の肩が強張った気がしたが、それで質問を止めるシアンではない。
村長の後ろにいた恰幅の良い初老の男性を、青い海のような色の眼で見つめる。
昼間の少年と同じ紋様を顔に施し、これまた灰色がかった緑の髪を編み込んだ独特の髪形をしていた。
狼の毛皮を肩に巻いた男性が、シアンと桔梗に対し、深々と頭を垂れる。
「サパン・クレイグと申す。騎士殿に調査をお願いしたく、ラディカータの森から参りました」
今度は桔梗とシアンが驚く番だった。森の件は既に少年から依頼されたというのに、まったく同じことを老人の口から聞くことになろうとは思ってもいなかったからだ。
「その件なら、既に少年が依頼に来ていますが……」
「はい?」
桔梗の言葉にサパンが怪訝そうに首を傾げた。どことなく昼間の少年を思わせる目の光に、桔梗が眉根を寄せる。
サパンは彼女の軍服の色を見て、ハッとした表情を浮かべると桔梗を凝視した。
だが、彼はすぐに何かを思い出した風な表情を浮かべて、桔梗から視線を逸らしてしまう。
あまりにも自然な動きで視線を逸らしたものだから、気の所為だったのか、と桔梗が眉間に皺を寄せるとサパンが小さく溜息を吐きだした。
片手で両の瞼を抑えて動かなくなってしまった彼に、桔梗が困ったように笑いながら声をかける。
「昼間来た子も、貴方と同じ緑の髪に朱色のを顔に施していました。もしかして、親類のお子さんだったりします?」
「……緑髪に朱の刺青とくれば、我が森の一族の特徴です。その童の背丈はこのくらい、でしたかな?」
彼が己の肩より少し低い位置に手を振って見せるのに、桔梗はこくりと頷いてみせた。
「家で待っておれと言ったのに」
「彼も森が心配だったのでしょう。叱らないでやってください」
溜息を吐きながら、握り拳をつくるサパンをシアンは咎めた。次いで、後ろでこそこそと挙動不審な動きをしていた村長に鋭い視線を向ける。
「さて、村長。俺たちはこれから依頼を受ける訳だが、依頼書は作成してもらえるのかな?」
「ひっ! も、もちろんです!!」
鬼神さながらの笑みで振り返られては、断る術がない。光速で首を縦に振ると村長は事務室へ飛び込んでいった。
「大佐も
「何がだ?」
「さっきの顔、子供が見たら泣き喚きますよ」
ひたり、と自分の頬に触れながらシアンの顔が強張る。
「そんなにヤバかったか?」
「はい。ワ―ウルフも怯えて逃げ出すレベルで」
「仮にも上官に向かって言う台詞じゃないぞ」
「あ、一応上官の自覚はあるんですね。安心しました」
「どういう意味だ、コラ」
軽口を叩き合う騎士二人を見て、サパンは静かに笑みを零した。
「お二人は仲がよろしいのですね」
「……どこをどう見て、その結論に至ったんですか」
「今回ばかりは俺もお前と同意見だ」
同時に顔を顰めた桔梗とシアンに、サパンがまた可笑しそうに笑った。
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