地獄は日と無縁
前野とうみん
前編
ぎぃ、ぎぃ。錆びついた防火扉を開ければ、湿ったコンクリートの壁面は、揺れる錬化バイオ鉄の裸電球で照らされてぬらぬらと。カサカサ。ぽたぽた。どくどく。灯りの直下には、悪趣味なコラージュみたいな、大きくて複雑で不定形なシルエット。この閉じていて、くさくて、生暖かい部屋には、ざっとニ十種類くらいの生き物――哺乳類から虫まで――がひしめきあってダンスか性交をしているような音がたった一匹から鳴っていて、わたしはその中のたった一人に会いに来ていた。
「ロミコ」
わたしの声に反応すると、音はぴたりと止み、言い訳みたいに回っている換気扇の回転だけを感じるようになる。この静寂を愛していた。反転まで、三秒。二。一。間もなく、ロミコの身体中が激しく
「ごめんね。ごめんね。ごめんね。せんせい、ごめん、ゆるしてね。いたいよね。ああ、どう、どうしたら、どう、いいのかな。ええと、ええと、ええと」
ぼうっと、そこには、感覚器としての舌に同化して、彼女がいる。肉の洞の中に、裸で白のショートカットの少女の上半身だけが生えているところを想像してもらえればそれが近い。毎度ながら、わたしの脚から流れた血液を探知しては謝罪の言葉を壊れたみたいに垂れ流すのがロミコだ。もし許さなかったらどうだというのか。彼女の意志次第で――そんなことは、万が一にもあり得ないが――たった一度の咀嚼だけで潰える命を前に、謝罪はいたって真面目に、真摯に、愚鈍に。その暴力性も自覚せぬまま。だからわたしは、許してあげる。
「だいじょうぶだから。ほら、もってきたよ。たべな」
「やった、や、あ、あり、ありがとう。うん、あり、がと、ございます。え、へへへ」
ロミコは不器用な笑みを浮かべながら、筋張った肉だけで構成された両の腕を突き出し、わたしがジャケットから取り出した固形食を受け取る。お馴染みの大陸国軍のおさがり
「うれし、うれし、い。みんなも、って。ありが、って。て。うん。にへ、へ」
「そっか。よかった。じゃあ、お話しよう。今日はどんな夢を見た?」
わたしはランタンを持っていない方の手で少女の頬を撫でてやる。剥き出しの肉への刺激にびくりと口内の全てが痙攣して、けれどロミコは幸せそうだ。刺激が記憶を刺激する。もっとも、彼女の記憶がどこに格納されるのか、この娘を切り開いたことがないわたしは分からず、ただ彼女が睡眠をとることと、夢をみることだけを知っている。
「えっとね。うんと、ええと、お、おそら。あお? だっけ? いろ。たぶんそれが、ひろくて、いっぱい、およいで? およぐ? あってる? おそらで、およぐ?」
「空だったら、とぶ、かな」
「とぶ、とぶ、そう、それ、いいたかった、うん。とんでた。とんでた。わたしのあしと、せなかの、ええと、はね、はねが。あって、いっぱいうごいてて、きもちよかった」
「良かったね」
「そう。うん。そうなの。ふふ。へ、それで、だから、とんでるから、からだの、ぜんぶ、きもちいいの。うごいて」
「風がきもちよかったの?」
「かぜ?」
「ほら、前に教えたじゃない。ふぅっ、て」
わたしはロミコに近づいて、首元に――別にどこにやっても変わらないのだが――息を吹きかけてやる。すると、立っていられるかギリギリになるほど彼女の身体は揺れて、
「そう! そう! そう! かぜ!」
にこやかに笑う。無邪気にかき回されたわたしは口内中から分泌された極めて弱い酸性の、粘度の高い液体にまみれながら、ロミコに言う。
「思い出せた! えらいね」
「えらい? えらい、はね、いい。きもちいい。からね、やった。やった、だからね、もっと。えっと、そう! せんせいもいた」
「……わたしも?」
ロミコは今日で一番たのしそうに。
「えへへ。うん、うん、うん。それが、きもちいい? きもちい、じゃなくて、えと、えと、うれし! うれし、かった! うれしかったうれしかった! これがいい!」
「それは、なんで……」
「いま、じゃなくても、おはなし。おはなし、よくて、そう。そう、そうそうそう。ねー。いっぱいおはなしがいい。ねー」
「そう……」
そろそろ潮時か。彼女が、一人であったロミコが数十種類のうちの一種類でしかなくなる。他のおともだちとの会話が楽しくなってきたらしい。
「それじゃあ、今日はこのくらいかな」
「えー、でも、あー、そっかー。わかった! うんうんうん。うん。うん。うん。うん。うん」
わたしに向けられた言葉はたぶん、「でも」までだろう。興味はすっかり内側に移ったらしく、わたしは静かにジャケットの内側から、注射器と、靴ベラほどの長さの金属板を取り出して、麻酔をしてから歯の隙間に板を差し込む。すると、生理的な反射反応で、彼女に痛みを感じさせることなく口内から出ることができる。
「またね」
口内から出る直前に、そう呼びかけるけど。ロミコにはきっと、聞こえていない。紅い闇で満ちた部屋の中に、少女はまた、ひとり。
扉が閉じられる。分厚い扉に刻まれているのは、もう存在しない機関の紋章と、「101」の文字。
ドヴォルガニカ、という名前の軍事国家があった。かつて大戦争の後に統一され平和が訪れた大陸の中心に突如として現れたこの国は、狂気の独裁者が太古の超技術を手に入れて独立し、大陸国軍ですら歯が立たないほどの力を持った。というのが、当初報道されていた内容。事実は、その大陸国というのがドヴォルガニカの裏で糸を引いていたというものだ。
建国意図は、「国民意識統一のための絶対的仮想敵国の樹立」と「戦争の不在による技術発展不振の解消」だと言われている。発展のための戦争、統治のための戦争のために作り出された、戦争のための幻想の国。その最期は、大陸全土を巻き込んだ科学技術の暴走による大規模な気候変動と飢饉で、大陸の全ては雪で覆われた。大陸国の中枢は麻痺し、無政府状態が続いた後に、戦争と軍事研究のために張り巡らされた地下鉄網に人々は住み着いた。今や、全人口の約95パーセントが地下で暮らしており、実験段階だったオーバーテクノロジー群に生かされ、国を滅ぼす原因になったオーバーテクノロジー群に殺され続けている。地下鉄網の居住可能エリアは実際の地下鉄面積の半分以下と言われており、残りの場所には今も棄てられた実験体やら未知のウイルスやらが蔓延っている。
わたしの仕事は、それら地下に眠る、あるいは暴れるテクノロジーの手綱を握ること。研究者として地下に赴き、調査、実験を行う、学術的トレジャーハンターだ。優秀な科学者たちは皆、ドヴォルガニカで死んだので、わたしらは不良の学者であるわけだが、まあ、生き残った人間は皆不良みたいなものなので、そこは誰も気にしていない。
欲しいものがすぐそこにないと気がすまない
わたしはというと、通り過ぎてゆく風に、頬についた粘液が冷えて乾いたのを、顔を歪めて対処していた。
「酷いしかめっ面です、セオ教授」
「誰が見ていいと言ったよ。黙って前だけ見てろ」
へい、すんません。わたしの前でディーゼル車の運転をする卑屈で小柄な女、アレイナは振り返るのをやめ、逆光の中で金のショートカットの後頭部をさする。わたしが白衣を改造した剛性チタン繊維のジャケットを着ているのに対して、アレイナは煤で汚れ切って真っ黒になったツナギを着ており、そのみすぼらしさはどうにかしてほしいと、常々思っている。土地勘と方向感覚だけはたしかだし、愛嬌はあるから雇っているが。
「で、どうだったんです。様子は」
「特筆すべき要素はなし。いつも通りだ。夢の話をして、いつの間にか帰ってるよ」
「友達がいっぱいってやつですかね」
「どうだか。意識の形態も含めて調査対象だからな。まだ時間はかかる。というか、詳しい話何も知らないだろ、キミ」
へい、まあ。また振り返って愛想笑いを浮かべようとする彼女に「いいから前を見とけ」と釘を刺す。アレイナはそれでも大声で質問を投げかけてきて、
「揺蕩う多面多脚、複合被験体、
「機密……まあ、いちおう、今回の件でわたしを雇ってるのは『未来のための技術保全協会』ってNGOで、なんか言われた気はするんだが」
「ぶっちゃけあそこ金払い悪いし裏は真っ黒って噂っすよ」
「マジか。じゃあよかった。……わたしの見立てじゃあ、ありゃ悪ふざけだね」
「うえー、なーんか嫌そうな話っすね。まあ地下のモンで快いモンなんて無いんですが」
よく分かってるじゃない。そう言って、わたしは煙草を線路上に棄てる。
「あ、ポイ捨て」
「風が強くてね」
「ズルいな、教授さん」
「どーも。それで、あの娘――意思疎通が取れるのが『娘の部分』なんでそう呼ぶがね、あれは性能テストの臨界点だ」
「学者先生の言い方は難しくてどうも」
「……キメラは分かる?」
「あれでしょ、動物と動物をくっつけるっていう。あっしの友達にもいますもん。犬とキツネのなんですがね、いいとこどりかと思ったら悪いとこしか残ってねえんで、でもそれが逆に……」
「主観的だな。本筋と関係ないし。まあでも、そいつは二種類だったんだろう。あれは……」
「うわー、わかっちゃいたくなかったなあ」
「察しが良いと損だろう。諦めな。わたしの仕事を請けたのが悪い」
分かりやすく肩をすくめるアレイナは少し芝居がかり過ぎているような気もしたが、まあ、それがこいつのデフォルトだ。
「分類できたのは三十四種類で、未分類が四十二種類。様々な生き物の、生き物としての特徴が出鱈目に見られたよ。代名詞に困るね。一応、わたしは会話はしてるわけだから、彼女と呼ぶことにはしているが」
「……で、最終的にはどうなるんです、研究やら、調査っていうのは」
詮索するなよ。そう思いながら、
「レポートを書いて、雇い主に提出する」
「それで、あれは結局?」
「そうだな、個人的には」
二本目の煙草は味がしない。
「殺したいなと思ってるよ」
そっすか。興味を無くしたらしい返事が、時速六十キロで過ぎ去っていく。
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