女王の林檎


 もしかすると私は、大人になりたくなかったのかもしれない。ずっと子どものままでいられたら。

 いいえ、そうではなくて、もっと、おおきなこと。

 そうだ。あの時のまま、私はあの頃のすべてをそのままにしておきたかったのだ。男の子と間違われることの多かった私。女の子のように可愛らしい顔、声をしていた弟。背筋をピンと伸ばし、自信に満ちた偉大な父。

 そして何よりも、若くて美しかった母。

 日焼けなど知らないのかという程に白く透き通った肌。それは肺炎を患っていた母をより一層儚く仕立てあげた。そしてその、いっそ青く光ってすらいた肌と対照的な真赤な唇。私の頭を撫でてくれる柔らかな手。その手はいつも微熱のせいで温かかった。

 その頃着せてもらっていた服は、今でも一つとして忘れていない。クローゼットから消えても、アルバムと私の記憶の中にはしっかりと残っている。

 母の趣味で、子どもが着るにはやや渋い色味のものが多かった。モスグリーンの毛糸のワンピースは、真っ白な大きな襟がお気に入りだった。ベージュのコートは袖が寸足らずになって、肘より少し下までしか寒さから守ってくれなくなっても無理に体をおし込めて着ていた。

 夏には薄桃色のノースリーブの服が大活躍していたが、ある日、桃の果汁がべったりと染み付いてしまい、外に着ていくことができなくなった。

 そんな服たちもいつしか私の体を拒むようになった。どれだけ頑張っても頭は出てこないし、前で留まるはずのボタンは弾け飛んだ。

 私はあれ以上大きくなりたくなかった。今でも、少しでもいい、あの時からかけ離れたくないと願っている。私の体が大きくなるにつれ、  男の子と間違われることはなくなり、弟の声は可愛さの欠片もない程低くなった。父の背は少しずつ曲がり始め、母は肺炎にならなくなり、その肌は健康的な褐色になった。もう、あの手に頭を撫でてもらうこともない。

 あの時のまま、すべてを留めていたくて、進んでいく時間をまざまざと見せつけてくる体の成長を憎んだ。体の時間をとめたくて、私は冬になる度に大量の林檎を口にする。

 どれかひとつでいい。女王様の毒が入っていることを願って。

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嘘と林檎 夜水 凪(なぎさ) @nagisappu

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