ハーメルンのギター弾き

忌川遊

ハーメルンのギター弾き

 厚い雨雲に遮られる満月の光。その僅かな光に照らされる夜に聞こえてきたのは、微かなギターの音と男の声。

 

 一人の少年がその音を辿り歩く。


 急に人通りの多いところに出た。思わず少年は脇に隠れる。


でも、ここだ。ここに間違いない。


 ギターを持って歌う一人の男がいた。170cm程の背。どちらかと言うと「渋い」顔。横を刈り上げた髪型は俗に言う「モヒカン」に近いが、少年はその呼び名を知らない。その声は、見た目とは裏腹に少し高く艶っぽい。 

 



十年以上前、成人式の夜、俺はミュージシャンになることを目指し、独り夜行列車で東京に来た。その日からギターを弾き、歌い始めて十年。ただ一つの事務所から声を掛けられることも無く、未だ路上で活動する日々。二十代の頃は、立ち止まり聞いてくれる人、拍手をしてくれる人、応援してくれる人がいた。しかし、一目見て分かるような三十代の男を応援する人など、誰一人もいない。時には白い目で見られ、大抵は無視して通り過ぎていく。


別に、有名になりかった訳ではない。


俺が子供の時、俺にとって唯一の救いだった音楽がくれた感動を同じように届けたい。ただそれだけだった。



今日は酷い一日だった。飲み終わりの若いサラリーマン達に公然と罵倒された。モノも投げられた。


「不快なんだよ!」

「騒音なんだよ!」


周りにいた人達の内、幾人かは同意の表情をしていた。


これ程自分が惨めな奴だとは思っていなかった。だからこれで最後にしよう。

 


「次が…最後の一曲です。幼いころに死んだ私の本当の父が、一番好きだった曲です。聞いてください…」


俺の言葉に立ち止まった会社員が二人いた。確かに彼らは世代だろう。俺は精一杯歌った。心を込めて歌った。


 「…ララララララ、ランララーラ…」


二人は拍手をしてくれた。幸せだ。十分だ。なんとも華々しい最後ではないか。



俺は一礼し、足早に立ち去っていった。




今、俺はただ歩いている。この街で一番高い場所に向かって。


俺は人生をやりきった、というよりは疲れた。とりあえずそこに行こう。で、もしその気になれば…。どうせ、悲しむ人などいやしないのだから。


ふと後ろを見ると一人の少年がいた。中学二年くらいだろうか?暗くてあまりよく顔が見えない。


「どうしたんだ、こんな夜遅くに。外になんか出てないで家に帰りな」


「あのさ、家、連れてってよ…」


ハァ?何を言ってるんだ、こいつは。



俺は前を向き、歩きながら言った。


「ふざけたこと言ってないで早く帰んな」


だが少年は付いてくる。もう一度振り返った時、街灯に照らされた彼の顔がはっきり見えた。そして気付いた。


「お前、どうしたんだ?その傷」


彼の顔にはいくつか傷がある。そして何かを訴えている様な、救いを求めるような、そんな目をしている。


まるで昔の俺を見ているようだ。まだ東京に来る前のような、あのクソ義父といたときのような。…いや、もしかしたら彼はそれ以

上かもしれない。


「家連れてってよ」


もう一度少年は言った。俺の心は揺らいだ。


この子は今、確かに俺に救いを求めている。俺は彼を救う必要があるのではないか?だが、確かこの場合は確か誘拐になり懲役に……。いやいやちょっと待て。さっきまで自殺すら考えていた俺が、罪になることなんかを心配しているのか?なんだか可笑しくないか?


俺は少し笑って言った。



「いいよ、家に来いよ」

 

するとさっきまでは街灯に照らされていても暗かった彼の顔が、にわかに明るくなった。


「どうせ、捨てるはずの命だったではないか。音楽で大して多くの人を救うなど出来なかった。それならせめて、自分のことなど顧みずに目の前の人を救おう」


そう心から思ったのだ。


家に着くとすぐに飯を作ってやった。彼は目を輝かせ、夢中で食べた。

 

食べ終わった後は背中を流してやった。少し驚いたのは、彼の体つきは年の割に筋肉質であることだ。


風呂から出ると彼は居間で寝てしまった。少し話をしたかったが、まあいい。長いこと歩いていたのだろう。


俺は彼を持ち上げ布団に連れて行った。肥満なわけではないが、やはり彼の体はずっしりと重かった。


翌朝、二人で朝飯を食べているときに俺は聞いた。


「なあ少年、お前名前なんて言うんだ?」


「なあ少年」という言葉の響きが彼には少し可笑しかったようで、彼は微かに笑った。そしてすぐに真顔になり一言言った。


「自分の名前、好きじゃない」


 分からなくもなかった。確かに、自分を虐待する親の呼び名は嫌なものだろう。


「両親は?家族構成はどんな感じなんだ?」


彼はうつむき、黙ってしまった。


「ごめんな。いいぞ、無理に言わなくて」


俺は言った。


「いいよ、こういうことはちゃんと言わないと…」


「いや、ホントに大丈夫だから…」という俺の言葉を遮り少年は話し始めた。


「僕は生まれたすぐに捨てられたらしいんだ。どうしてもお金が必要だった両親にね。で、その売られた先が…犯罪組織で…」

(おいおい大丈夫なのか?この話…)

「で、そこで育てられた、一流犯罪者にするんだって言われながら。…勿論僕は人殺しはしない、したくない!でもトレーニングとか生活指導?食事とか色んなマナーとかさ、嫌々学ばされてたんだよ。「言って出来ないヤツには体で教える」とか言われながら」

(なるほど……)

「…あんな生活嫌なんだよ!もっと自由に楽しく暮らしてみたい。だから抜け出して街に出て、それでおじさんがいて…」

「…で俺についてきたのか」

「うん」


まるで俺は人攫いの笛吹だな。


俺の漏れ笑いを見て、彼は少し落ち着いたようだ。


「学校とかも行ってないのか?」

「うん」

「義務教育だろ、バレないのか?」

「聞いてみたらさ、コセキ?すらないからな、って言われた。殴られながら」

「…そうだったのか」


「ところで、何で俺なんだ?」

「ギター?弾いて歌ってるの聞いてさ、一番自由で楽しそうだなって思ったんだ」

俺は苦笑した。すると彼も笑った。俺は彼が笑顔になってくれたことが嬉しかった。


だが、俺はあることに気付いた。


「お前、「犯罪組織」」って言ったよな?」

そう聞くと彼は急に怯えたような顔になった。俺は慌てて言った。

「ああ大丈夫だ。お前を通報したりはしない。ただそいつらが警察に通報するのはないとして、お前のことを捜しには来るのか?」

「多分…来る」

「そうすると俺の…」

命が危ない、と言おうとした所でまた気付いた。

(だからどうせ無くなるような命だったではないか。俺は命を張ってでもこの子を守るべきではないのか)


そうだった。


「悪い、何でもない」


 そう言って俺は笑った。少年は不思議そうにこっちを見ている。

「どうした?」

「いや、僕のこと怖くないっていうか、信用してるんだなって思って」

「確かになかなか聞かない話だが、お前が本当のこと言ってることは分かるんだよ」

「どうして?」

「俺と目が似てるんだ。俺も子供の時はよく殴られてたからな、でも今は幸せだ」

「…そうなんだ」


 少年は納得したようだった。俺が幸せなのは本当だ。久しぶりに人と話すのは楽しい。


「…ねえ、名前つけてよ」

「うーん、そうくるか」


俺は少し考えた。


「ハジメ、だ」

当たり障りのない思いつきだが、少年は嬉しそうだった。


「おじさんは?」

「ゲン、だ」

「じゃあゲンさんだね」

少年はまた笑った。俺も少し恥ずかしがるように笑った。


二人で暮らす日々は質素な暮らしだが、平和で楽しい日々だった。少年、いやハジメの顔にも笑顔が多くなった。俺もとりあえずは生きる理由を見つけた。


 

ある日はハジメにお願いされ、あの日歌っていた歌を教えてやった。俺のギターに合わせて二人で歌った。


「ねえゲンさん、あれ何?」

「あぁ、懐かしいな。俺が小学生、いやお前と同じだった頃くらいに使ってたリコーダーだ」

「どうやって使うの?」

「これを使えばな、自分の力で綺麗な音が出せるんだ。良いモンだろ」

「ゲンさんのギターと同じだね」

「ハハ、やめろよ。恥ずかしいじゃねぇか」


「僕も、綺麗な音出してみたい」

「よし!今吹き方を教えてやる」

「うん!」



そうしてもう一週間以上経った


 

二人で買い物に行った帰り道、突然一人の男が現れた。


「あぁ、やっと見つけた、さあ帰るぞ!」

そう言うと男はハジメに飛び掛かった。俺はハジメを守ろうとした、が反応が遅れた。


 

男は崩れ落ちた。


驚くべきことが起きた。ハジメがあっという間に倒してしまったのだ。ハジメが俺の手を引いて逃げようとする。俺は戸惑いながらも必死に走った。



「ゼェ、ゼェ、ゴホッ」

「ハッ、ハッ、ハァー」


俺はともかくとして、ハジメは体力があるがにも関わらず、なんだか辛そうだった。


だが俺は、

「なあハジメ、先に帰っててくれ。ちょっと寄る所あるから」

「…一緒に行く」

「いや、先に家帰って…鍋でお湯沸かしといてくれないか?」

「分かったよ」

意外にもハジメはあっさり引き受けた。俺は一言「ありがとう」と言い、ハジメと別れた。



本当はハジメと一緒にいるべきなのだ。でも、今の俺には出来ない。戸惑ってしまったのだ、あまりの強さに。あんな姿を見て、なぜだか一緒に暮らすことが難しいように感じた。それにこれからもあのようなことがあるだろう。俺はハジメを守りきれるのだろうか?


とにかく俺は少し一人になりたかった。


 

 ゲンと別れたハジメ。帰り道の途中に公園があった。多くの親子連れが楽しそうに遊んでいる。ハジメはそれが無性に羨ましく感じた。


自分にも、本当なら家族で過ごす楽しい日々があったのかもしれない。


 今まではこんな景色が本当にあることすら知らなかった。だからこそ今は悲しさのような、切なさのようなものを感じてしまうのだった。

 

 確かに今、彼にはゲンがいる。それでも時々考えてしまうのだ。


「自分はゲンさんを本当の父親のように思っている。でも、ゲンさんは自分をどう思っているのか?」


 ハジメに答えを見つけることは出来ない。それでも、子を見つめる親の顔に眩しさを感じ、そう思わずにはいられない。


 ハジメはしばらく公園の前に立っていたが、一人の親が自分をチラチラ見ていることに気付くと、立ち去ってしまった。


俺はまだ歩いている。歩きながらひたすら考えている。


奴らは俺の家を突き止めるのだろうか?俺は殺されるのではないか?もりかしたら、本当はヤツらがハジメを送り込んだのでは……いや、それはないだろう。


有りもしないことまで考えてしまう。


第一奴らが俺を利用する理由など一つもないではないか。


下らないことを考える自分に苦笑した。それでもやはり、自分の身の危険を案じずにはいられない。


 家に着いてすぐにハジメはお湯を沸かした。しばらくはガスコンロの揺らめく炎を見ていたが、直ぐに飽きてしまった。その時ハジメは棚の中に一束の原稿用紙があるのを見つけた。小さな窓から差し込む陽光を含み、暖かい色を放っていた。ハジメはそれを手に取った。


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        決心                

         3年C組2番 植村 元


 俺の実の父親は、俺が小学四年生のとき、病気で死にました。あの時は一晩中泣きました。辛い夜でした。それからしばらくして、新しい男が家に来ました。

 新しい男は俺のことをよく殴ります。俺にとって家での生活は辛い時のほうが多いです。それでも、父のおかげで生きる目的が出来ました。

 俺の父は音楽が大好きでした。幼い頃から父の好きな曲をよく一緒に聞きました。その影響で私も父の聞く音楽が大好きになりました。その時は歌詞の意味もよく分かりませんでしたが、その歌を一緒に歌うのが大好きでした。父は

「これじゃあ皆と趣味が合わないなぁ」

と言いつつ、本当は嬉しそうでした。

 俺の誕生日の日。父のプレゼントは少し変わったものでした。なんと父は俺のための誕生日曲を作りました。低くても優しさのある声で、小さな電子ピアノと共に歌ってくれました。聞くことが好きであることと、作ることとは別のことだと思います。それでも父は作りました。あの時は、「感動した」というよりも、ただただ「びっくりした」覚えがあります。

 しばらくして父は死にました。俺への手紙の最後には、あの日の歌詞がありました。

 それから、普段の生活で辛いことがあった時、痛い思いをしたとき、近くの海に沈む夕陽を見ながらこの歌を歌いました。父は死んでも尚、音楽を通じて俺を何度も助けてくれました。

 俺は決心しました。大人になったら俺も誰か救える人間になること。それは、音楽を使って、俺と同じように辛い思いをしている人を、同じように音楽を通じて救うこと。

 これからは父が残してくれた歌は歌いません。その代わり、俺が自ら歌を作り、他の人に届けていきます。

 ミュージシャンになること、それが俺の夢であり、決意です。

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 ゲンは普段、自分のことをほとんど語らない。ハジメはゲンの歌が好きだが、彼は今まで、ゲンが歌を歌っているのはただ歌うことが好きだから、楽しいからだと思っていた。今までは、ただ好きなことをあんなにもたくさん出来るゲンが羨ましかった。


ゲンさんにもこんな強い思いがあったんだ。

 

 これを読まなければ、彼自身の「一応」の誕生日がそろそろであることも思い出せなかった。やはりハジメはゲンが羨ましかった。彼には父との「美しい思い出」がある。それだけは多分どうやっても手にすることは出来ない……。


 急に寂しくなった。

 

 ハジメは笛を手に取り、教えてもらった曲を吹き始めた。いつもなら笛の音にギターの音が重なる。彼の歌声が重なる。だが今はか細い笛の音だけが鳴っている。ハジメは吹くのを止めた。

「ゲンさん、早く帰ってきてよ」

そう一言呟いた。


歩いていくうちにいつまにか見覚えのある場所に辿り着いた。左手に公園、右手に住宅街、俺の家の近くまで来てしまったのだ。立ち止まり公園の方を見る。休日の公園には親子連れが多くいるが、一人の四歳ほどの男の子を背負う母親の姿があった。男の子の膝には大きな擦り傷が出来ていた。このくらいの歳になればそれなりの重さがあるはずだ。にもかかわらず母親は笑って彼を慰めながら、歩いていく。今度は、ふたりの赤ちゃんを抱く父親がいた。やはり笑顔で二人をあやしている。

 

 

そうだ、今ハジメを守るべきなのは自分しかいないではないか。名前まで付けておきながら自分は何と無責任なのだろうか!

 

俺は再び歩き出した。そうだ、ハジメが前から食べたいと言っていたものを作ろう。まずスーパーでパスタソースと粉チーズを買った。そしてハジメが待つ二人の家に向かって歩き出した。


 家の呼び鈴が鳴った。ハジメは直ぐに立ち上がり、玄関に向かった。


「お帰り!」

「ああハジメ、ただいま。遅くなって悪かったな。退屈だったか?ごめんな」

「そんな、謝る必要なんてないよ」

そう言いながらも待ち遠しかったハジメは、嬉しさでいっぱいだった。そして続けて言う。

「ねぇゲンさん、この作文って何?」

「うん?それは…中学卒業する時の作文だが…読んだのか?」

「うん、読んだ」

「そうか~、読んじゃったのか」

ゲンは子供のような照れ笑いを浮かべた。

「ゲンさん、作文上手いんだね。すごく、感動した」

「ハハハ、やめろよ。恥ずかしいじゃねぇか。…腹減ったろ、すぐに夕飯つくるからな」


ハジメが沸かしておいたお湯は冷めてしまっていた。カルボナーラを作るつもりだったのだ。ハジメはまだ食べたことがない。きっと気に入るだろう。俺はコンロに火を点した。

 

俺は一旦椅子に座った。玄関に居たハジメも椅子に座った。ちょうど夕陽が指す時間だ。


「ねえゲンさん。今度さ、どこか行きたい」

「行きたいって、どんなところだ?」

「じゃあ…ゲンさんのおすすめ!」

「おすすめ、か…」

窓の外を見てしばらく考える。

「分かった。今度行こう」

ハジメは満面の笑みだ。

 

パスタを入れようとしたとき、呼び鈴が鳴った。

「頼むハジメ、出てくれ」

ハジメは玄関に向かい、覗き窓を見た。

「!」

 ハジメは凍りついた。

「どうした?」

「どうしようゲンさん!……あいつら来た」

俺も一瞬固まった。だが直ぐに考えた。

「鍵は閉まってるな。とにかくそのまま閉めとくんだ」

「ねえゲンさん、どうすればいいの」


どうすればいい?どうするのが正解なんだ?


奴らはドアを蹴り始めた。マズイ。こんな古いドアは簡単に壊される。


「ハジメ!先に逃げろ」

「どうして?一緒に逃げようよ」

「今からじゃ追いつかれる。ホラ早く!」

戸惑うハジメを無理矢理窓から外に出す。

「分かったよ…あの場所にいるよ!」

「よし、そこで会おう。約束だ」

俺は頷いてすぐに窓を閉めた。まだ何か言いたそうだったがもう何も聞こえない。


 ハジメは戸惑いながらも走り出した。俺は再び玄関を見る。そろそろドアが壊されるだろう。俺は熱湯が入った鍋に手を掛けた。


ドアが蹴り倒され三人の男が入ってきた。

「ガキはどこだ!どこに隠した!」

俺はかまわず鍋を振る。奴らに熱湯が降りかかる。そして力の限り殴る。蹴る。だが直ぐに抑え込まれ、腹と顔を続けざまに二発ずつ殴られた。

「舐めたことしてくれるじゃねぇか、え?おい、ガキはどこだ!」

「知るかよ」

もう一発殴られた。

「ムカつく声だな。おい?どこだよ!」

また拳を振り上げた。

「あ、三嶋さん!あいつです!今逃げてる子供」

「何ぃ、よし、追うぞ!」

「こいつどうしますか」

「こいつも法律上は誘拐犯、直ぐバレる。通報なんてしやしねぇ。追うぞ!」

二人は出て行った。

「ハジメ、逃げろ!」

届くはずもないが必死に叫んだ。三嶋は腹立たしそうにまた二発殴り、直ぐに出て行った。ゲンも外に出ようとした、しかし力無く崩れ落ちた。


 ハジメは後ろを振り返った。ゲンの声が聞こえた気がした。だが見えたのは男三人がこっちに向かって走ってくる姿だ。


大丈夫、まだ距離はある。


 ハジメは前を向いた。


今はただ逃げるだけだ、後で必ずゲンさんに会える。


 街灯の少ない夜の道をただ一人、小さな少年が走り抜ける。



 

声変わり前の少年の声が聞こえた。


「ハジメ…か?」


俺は意識を取り戻した。あぶないところだった。だが立ち上がることが出来ない。うつ伏せになったまま倒れる直前に聞いた男の言葉を思い出す。


(当たり前だ。警察には通報出来ねえ。捕まるのが怖いわけじゃない。ハジメに会えなくなっちまうだろ…)

まだ強い痛みを感じる。まるであの頃のようだ。親でもない男に散々殴られ、蹴られ、時には、本当に死にたいと思っていたあの頃…、ついこの間までも、いつ死んでもいいと思っていた。

 

だが今は違う。

 

ただただ、ハジメのために生きたい。



俺は痛みを堪えて立ち上がった。


「ハジメを、迎えに行かねぇとな」

奴らより早くハジメに会わなければ。そして……、そうだ!


あることを思いついた。同時に昔の美しい思い出も甦った。重くなり、痛みも残る体でゲンもまた、必死に走り出す。



 夜の工事現場、建設途中のマンションに人は一人もいない。風もない夜、ただ無言でそびえ立っている。ハジメは上に登り始める、彼の運動能力があってこそだ。

 結局、約束の場所に居ることは出来なかった。


ここならあいつらも分からないだろう


約束の場所に来た。あの時、歌っていた場所だ。しかし、ハジメはいない。


無理もないだろう、奴らはすぐにハジメに気付き走っていったのだ。だがあの距離があれば、すぐには捕まっていない筈だ。……今はそう信じたい。

 

腹の痛みは引き始めた。足は悲鳴を上げていたが毎日歌い続けていたからか。思っていたより肺は苦しくない。俺は再び走り始める。


 男三人組はハジメがいる場所の真下に来た。だが、上にいるとも気付かずにまた走り出し、いつしか見えなくなった。ハジメが見つかることはあるまい。だが、ゲンが気づくにはどうすれば良いのだろうか?


 すると、ハジメは家から持ってきたゲンから貰った笛を口に咥えた。そして、ゲンに教わった通りに優しく、力を込め、息を吹き込む。


 三日月がかすみ雲に覆われ、淡い光に照らされる夜。…微かに笛の音が聞こえる。一度立ち止まり、慎重に音を辿り歩く。


聞こえる、俺の一番好きな曲、親父との想い出の曲が聞こえてくる。

「ハジメ!」


俺は音を辿り、走り出す。ハジメと出会った道を抜け、約束の場所を横切り、公園を通りすぎる。公園に三人組が居た。

「三嶋さん、なんか聞こえませんか?」

「あぁ、笛の音だ」

「そういえばあいつ、なんか細長いモン掴んで走っていたような…」

「なにっ!もっと早く言えよ」

彼らは向こうの入口から外に出て、走って行った。


マズイ、早くしなければ。

「待ってろハジメ。絶対先に、迎えに行く」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




海に日が沈んでいく。あの時は、辛いことがあればいつも、近くの海岸に出て、夕陽を見ながら父がくれた歌を、夕焼け空を見ながら歌っていた。晴れた日でも、赤く染まる雲が浮かぶ日でも、中学生だった俺にとって、何よりも好きな時間だった。


俺はギターを構える。そうだった、あの日はこれを背中に抱え必死に走った。


夕陽色のギターの音に声が重なる。

 

 優しく誰かに語りかける様な歌声、いや自分の強い想いを一生懸命伝えているのだろうか。美しく力強い声で彼の新曲が砂浜に響く。


歌い終わる頃、陽はすっかり沈んでいた。月は見えず、一番星が輝いている。



「ありがとう、ハジメ。俺はお前のおかげで生きる希望を貰った。今度カルボナーラ、食いに行こうな。……俺の親父はな、俺の誕生日に歌をつくってくれたんだ。本当に良い親父だった。でな、お前はその命を繋げてくれたんだ。ハジメ、本当にありがとう」

 

 ゲンの涙は寄せる波に溶けていく。






 再びギターを構える。夜のギターの音に笛の音が重なる。

 少し明るいゲンの声と、声変わり前の少年の声が重なる。



 話さずとも通じ合う二人の心、音、声



「歌、嬉しいよ。僕、ずっとゲンさんの子供でいたい」

「当たり前だろ。俺が絶対、最高の親父になるから」

「ありがとう、…おとうさん」





 雲一つない新月の夜


 また新しく周りだす


 夜空の下で聞こえてくるのは


 ろうそく代わりの焚き火を揺らす二人の歌











 

 











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ハーメルンのギター弾き 忌川遊 @1098944

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