春楡の木

一帆

第1話 

 季節は、短い春を通り越してもう夏。

 

 マスクのせいで、頬のあたりがじっとりと汗をかいて不愉快だ。研究室からの呼び出しでしぶしぶ外に出てきてみたが、最低最悪。真っ青な空は現実味がなくて、俺は小さく舌打ちをする。


 なんで、家から出てきてしまったんだろう。


 電話口で、一方的にまくしたてた研究室の秘書の言葉に、珍しく熱くなってしまったことをいまさら後悔する。


 くそっ。


 「じゃ、今から行って説明します!」なんて言わなきゃよかった。


 じとりと肌に絡みつくような暑さが、俺だけが無駄に生きているって責め立てる。


 大学の西校門を通り過ぎ、教務課に続く遊歩道を、俺は地面に当たり散らしながら歩いていた。ブォーンと主張の大きい耳障りな芝刈り機の音がする。本格的な夏を前に、園芸業者が遊歩道から少し離れた木々の根元に生えている草達を刈り取っている。


 望んでいないからといって排除するのは、人間の身勝手なエゴだ。

 

 園芸業者を睨みつけることは間違っていることくらいわかっているが、それを認めるだけの余裕は俺にはなかった。


 『ざわわ、ざわわ……』


 イライラした気持ちでいっぱいの俺の心の中に、さりげなく、葉と葉がぶつかって鳴る音が入り込んできた。なんとなく俺は顔をあげて、音の主を探す。


 ハルニレの木だ。


 桜の葉に似た二重きょ歯の形をした葉と葉の間から、白い陽の光が漏れてくる。


 ハルニレは、春、葉が芽吹く前に黄緑色の小さな花をつける。しかし、黄緑色の花被かひ(がくへんと花弁の総称)は小さくて見えにくい。おまけに、雄しべの先のやくが赤褐色で目立つから、俺は初めて見た時、赤い花だと思った。


『ハルニレは、着飾るよりも着実に受粉が成功することを狙うことにしたんだ。だから、花びらを進化させなかった。これも、ひとつの多様性ってやつ?』


 ハルニレが風媒花であると初めて知った日の記憶。

 俺の世界がひっくり返った日だったというのに、もう日付さえ覚えていない。

 あの日は晴れだったか、曇りだったか。

 暑かったか、涼しかったか。

 

 それなのに、ハルニレの木を見た途端、俺の心を震わせた声がよみがえる。

 

 タツキ。


 お前に出会って、ちっぽけだった俺の世界が、どれだけ変わったか、お前は知らないだろう。植物に全く興味がなかった俺が、今ではハルニレの木がわかるようになったんだぞ?


 それなのに―――――!!!!!! くっそ―――!!!!




 …………、俺の言葉をうけとめるタツキはこの世にはもういない。





 樹木医になるのが夢だと言っていたタツキが、逝ってしまったのは春が来る少し前。


 あれから俺は大学を休学し、タツキと暮らしていた2LDKの部屋でじっと息をひそめていた。


 外に出れば、大学へ行く道にも、近くのコンビニにも、いたるところに、タツキと歩いた記憶が転がっている。地下鉄にむかう階段で、不甲斐もなく踏み外した俺にその華奢な腕を伸ばしたこと。絶対に食べきれないとわかっていても俺と同じがいいと言って牛丼の大盛りを頼んで泣きそうになりながら食べていたこと。コンビニアイスを選ぶフリをしてその細い指に触れたこと。数あるシャンプーはどこがどう違うのか、裏に書かれている組成表を見ながら二人でかなり悩んだこと。


 たわいもないはずだった日常も、どんなに望んだって戻ってこない。


 くそっ。


 もう、タツキはいないというのに、目の前のハルニレは緑を濃くし、太陽に向かって、その枝を伸ばしている。タツキを失うまいと俺がじっと息を殺している間に、この木は、必死に空をめざしていたようだ。ふつふつと怒りがわいてくる。


 俺は、むしゃくしゃした気持ちを持て余して、けば立った繊維の匂いがするマスクを外した。小さな子どもの時を連想させるような湿った土の匂いと、青くてツンとして爽やかな樹木の匂いが鼻に届く。


 タツキ、どうして、病気のことを俺に教えてくれなかったんだ?

 教えてくれてたら、もっと違う未来になっていたかもしれないのに。


 タツキ、どうして、突然、俺にケンカをふっかけて出ていったんだ?

 お前の両親が俺達の家に来るまで、俺はずっとお前に謝ろうとお前を待っていたのに……。


 ひとりぼっちになってしまった俺は、ずっと、『タラレバ』の押し問答を繰り返している。


 このまま、空を駆ければ、お前のもとにいけるのだろうか。

 確か、教務課があるN棟の屋上の扉はカギが壊れていたはずだ。

 こんなにも空が青いんだ。きっと、駆けても気持ちがいいだろう。

 なあ。タツキ。空を駆ければ、お前が受け止めてくれるだろうか…………。





 

 ざわわ、ざわわ …………


 俺はハルニレの木の根元から、音を立てている葉の向こうにある青空を見上げた。

 枝や葉の隙間から見える空は、果てしなく遠い。目の前にある少し大きめで卵型の葉はスポットライトを浴びたように、その上の葉の影をうつし、煌めき、揺らめいている。太陽の光も、黄緑色の葉から見える葉脈も、その輝きをすぐさま変えていく。万華鏡のような世界は非現実的で、俺はまぶしさに目を細めた。


 ざわわ、ざわわ …………


 ハルニレの葉と葉が風にこすれ、音を立てて―――、現実と虚構の境界があいまいになる。


『今年はこのハルニレの花を見なかったのか?』


 突然、俺の鼓膜を揺らすことのないタツキの声が聞こてきた。どきりと心臓が大きく跳ねる。俺は、心拍数をあげている心臓を抑えようと大きく息をはく。自分の気持ちを落ち着かせるため、俺は、形見だと言ってタツキの両親がくれた腕時計型端末に右手をそえた。いつもなら金属特有の冷たさをはらんだ端末が、わずかに熱を持っている。端末に目を向けると、今まで動かなかった真っ黒な端末に白い波形が現れていた。


   タツキの声の正体はこれか。

   いくら充電しても起動しないから、故障していると思っていたのに。

   トリガーは、タツキがこよなく愛していたハルニレの木?

   ハルニレの木から端末を起動させる電磁波がでているとは考えにくい。

   とすると?

 

 端末の起動理由を科学的に考えようとして、俺は首をふった。


   タツキの声が聞けるのなら、たとえ音声データでもいい。

   なんだっていい。

   タツキと話がしたい。タツキに会いたい……。


 一縷の望みを託して、俺は口をひらいた。


「ふん。おまえがいなかったんだぞ? なんで、俺が花なんかを見る必要がある? 俺は……」と言いかけて、俺は言葉を失ってしまった。

 

 浅く縦に裂け目がはいったハルニレの幹の前に、部屋の中をいくら探しても見つからなかったパーカーを着て、タツキが立っている。

 

   腕時計型端末が映し出された映像か? 

   幽霊か? 


 俺は用心深くタツキを見る。タツキは、口角をわずかにあげて少し首を傾げた。


   ああ。困ったときのタツキの癖だ。

 

『………悪かった』


 再び、聞こえてきたタツキの声。


   ああ! 目の前にタツキがいる。狂おしいほど求めたタツキが!

   映像でも、幽霊でも、悪戯でも構わない。

   今、この瞬間、俺の目の前には存在しないはずのタツキが存在している。

   虚構だろうが、非科学的だろうが、構わない。

 

 こみあげてくるものを必死で抑える。


「何も言わずに、なにもせずに突然消えやがって。俺がどれだけ――」


 俺は、視界がぼやけないように、左手をきつくきつく握りしめる。爪が食い込もうが構うものか。一瞬でも、タツキの姿を見失いたくない。


『まあ、生きていればいろいろあるさ』

「はぐらかすな! なぜ、俺に病気のことを黙っていた?」

『言ってしまったら、死にたくないってヒロに泣いてわめく姿しか想像できなかった』

「俺は一緒に泣いてわめきたかったのに」

『僕は最後までヒロにはクールなタツキでいたかった』


 右手を顎に当てて、タツキが小さく笑った。


「じゃあ、なんで、あの日、わざとケンカをふっかけて出ていったんだ?」

『…………、なんとなく? 虫の居所が悪くて?』

「言っただろ。はぐらかすなって。俺はずっとあの部屋で、何も知らずにお前を待っていた。お前のおふくろさんに、お前のことを聞いた時の俺の気持ち、わかるか?!」

『ごめん』


 俺から視線を外して、タツキが空を見上げて、唇をかむと、小さくため息をついた。

 

『……、僕のことを忘れてほしくなんかなかった。この先の未来で、誰かほかのやつとイチャイチャなんかしてほしくなかった。僕は奇麗な思い出になんかなりたくなかった。だから、わざとケンカした。僕のことを忘れられないように。僕に囚われているように。…………すごく身勝手だね。僕も』


 俺が顔色を曇らせたタツキを抱きしめようと、手を伸ばし、一歩踏み出した。タツキが駄々っ子の様に首をふる。ハルニレの葉が、枝がざわわっと大きく揺れた。枝の動きに合わせて、葉と葉の間からふりそそぐ木漏れ日がきらきらと輝く。


『ヒロ……、このハルニレ、立ち枯れ病を患っていてね。このまま朽ちていくのは嫌だ。最後に、花を咲かせて次世代に命をつなぎたいっていうから、教授たちの反対を押し切ってホルモン剤や肥料やら薬を投与したんだ』

「な、なにを急に??」


 タツキの話す意図がわからず、首を傾げた。


『まあ、ヒロの質問にも答えたんだから、僕の話も聞いてくれよ。ハルニレの花が咲く前に、僕の方がダメになってしまったから、花を咲かせたのかどうかはわからずじまいだったんだ。でも、きっと、満足しているんじゃないかな。だって、こうやって、僕の願いも聞いてくれているんだから……』

「お前の願い?」

『僕もこのハルニレと同じさ。病気は治る見込みもないし、このまま死んじゃうだろうなぁって思っていたけど、ヒロに僕のを残したいとずっと思っていたんだ』

?」

『あ、精子とかじゃないからね。そんなことを言ったら、思い出して、おなかのあたりがうずいてしまう? ヒロも好きだよねー』


 ふふふっとタツキが笑う。


「ちゃかすな。ばか」


 かあっと頬に血がのぼる。タツキは、俺の方を見ながら、俺に触れるときみたいにハルニレの幹をそっと優しく触れた。


『ハルニレの世話をするたびに、僕の願いもきいてほしいって頼んだんだ。ある日、今、ヒロが腕にはめている腕時計型端末が木から落ちてきたんだ。最初は、電源を入れても起動しないし、壊れていると思ったんだよ。でも、ハルニレからのプレゼントだし、きっと意味があるものだと信じて、毎日話しかけたんだ。何が好きだとか、空が青くて感動したとか、雨が降りそうで頭が痛いとか、それはそれはたくさんの言葉をきかせた。それって、僕の心のデータ――、つまり僕のでしょ?』

「これが?」


 俺は、腕時計型端末を見、タツキを見、ハルニレを見た。ハルニレの木がふるりと震えたような気がした。


『いつか、科学が進歩して、その腕時計型端末の中にある僕のデータが読めるようになる日がくるかもしれない』

「まあ、確かにな」


 ばかげている、そう割り切ってしまうことはどうしてもできなかった。


『だから、ヒロにはまだ生きていてほしいんだ』

「………………それは……」

『自分の中の時間を止めてしまうことは、自分自身を否定すること。ヒロが関わってきた過去をすべて拒絶すること。その中には僕との思い出だって含まれている。ヒロは僕を否定するつもりなのかい? 僕はヒロと過ごした三年間、すごく幸せだった。ケンカもしたけど、楽しいことの方が多かった。ヒロに否定されたら、僕の存在もなくなってしまう』

「………」

『ただ、僕の身勝手な行動が、ヒロをあの狭い部屋に閉じ込めてしまった。僕も自暴自棄で、自分をコントロールできなかった。本当にごめん』

「俺が好きで閉じこもっていただけだ。お前の匂いが、お前の存在が、消えてしまうことが怖かった」

『僕は消えないよ。だって、があるじゃないか』

「……、そうだな」

だから、発芽の時間を待っているんだよ。ヒロなら、上手く発芽させることができるって信じてる。ヒロなら未来で僕に出会える方法を考えてくれると信じてる』

「…………ああ、そうだな」

『約束だよ?』

「ああ、約束する」

『よかった。じゃあ、僕、また眠るね。って条件がそろうまでじっと寝て待っているものだろ? 僕は眠り姫ってとこかな。姫じゃないけど……』

「そうだな」

『じゃあ、またね』

「ああ。またな」


 タツキはにっこりと笑うとその姿を消した。そして、腕時計型端末の熱はなくなりもとの黒い画面に戻った。目の前のハルニレの木から、葉が一枚、また、一枚と落ち、俺の目の前で消えていった。




 

 


 俺は、すっかり葉を落としてしまったハルニレのごつごつとした幹をさわった。


「ありがとう」



 季節は、桃色の短い春を通り越して空が青い夏。


 止まっていた時間は動き出し、俺は、空に向かって手を広げた。







(つづく)




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