迷えど地獄

大塚

第1話

 せやからね、ぜひ先生に出てきてほしい、ていう話なんですわ。

 そう、アニキ──瓜生静うりゅうしずかは言った。

 先生と呼ばれた男は黙っていた。黙って煙草を吸っていた。


 俺は応接室の扉の前に突っ立って、ただただハラハラしていた。アニキのこめかみに薄っすらと血管が浮いているのが分かる。アニキは肌の色が周りの人間に較べてずっと白いので、顔色が変わったり、笑っているけど本当は腹を立てている時なんかはこめかみや頬を見ればすぐに分かってしまう。もっとも、本当に必要な時には完全なポーカーフェイスを決め込むことだってできるんだけど。今日は、今は、その必要がないということだ。アニキは苛立ちを隠そうとしていない。

 先生と呼ばれた男が吸い殻を灰皿に突っ込み、ふところからハイライトの箱を取り出し、新しい紙巻きを咥え、アニキが差し出すライターを無視してマッチで火を点けた。アニキの苛々がまた少し強くなるのが分かる。

「先生」

 平たい声で男が言った。男、男と繰り返しているが、俺やアニキよりもずっと年配、もうおじいちゃんと称しても良いぐらいの年頃の男だった。七〇代ぐらい。その年代の人間にしては、背は高い方だろう。顔の彫りが深い。紺色の甚平を身に着けている。足元はビルケンシュトックのレザーサンダルだ。

「瓜生」

 男、先生、おじいちゃん。老人。老人が言った。はい、とアニキが応じる。

「おまえに先生とかなぁ、呼ばれる筋合いないんや」

 つめたい声だった。氷のように、鉄の塊のように、真冬の木枯らしのように。今は真夏なのに。は、とアニキが短く声を発する。顔は笑っている。でも背中には「ブチ殺すどクソジジイ」とでかでかと書かれている。

ね。俺は、忙しいんや」

「せやけど先生──」

「ひつこいやっちゃのお」

 ガラスの灰皿の縁で煙草の灰を落としながら、老人は重い瞼をゆっくりと上げてこちらを見た。

「俺はなぁ、もう殺しはせんのんや。そういう約束でここにおる。分からんのか。分からん阿呆あほは、去ね」

 去ねもクソも、ここは俺たち、大阪東條組の組事務所だ。呼ばれて来たのは老人の方だ。つまり去るのは老人の側なのだが。

「タクシー、お呼びしときます」

 ソファから腰を上げながら、アニキが言った。

「救いようのないど阿呆あほやな。要らん」

 老人はそう吐き捨てて、アニキと俺を押し退けてすたすたと応接室を出て行った。思わず窓に駆け寄って下を見た。二階にあるこの部屋から階段で一階の玄関口まで降りたらしい老人を、何人かの組員──俺よりもずっと上の立場の兄貴分たちや、なんなら事務所に詰めていた幹部たちが寄ってたかって呼び止めているのが見える。アニキが鋭く舌打ちをするのが聞こえた。

「クソジジイが」

「消しますか」

 反射的に尋ねていた。アニキは──俺のその台詞を一瞬本当に驚いた表情で聞き、それからつい今までの顰めっ面が嘘のように笑った。爆笑だった。

「おまえ、おまえ、おい、何や……正気で言うとんか? それともギャグか?」

「え」

「ハハハ、アッハハ、おい、おまえ、今目の前におったジジイのこと、なんも知らんのんか?」

 知らない。聞かされていない。それに、知らなくていいと言われた。下手に相手のことを知っていると、知っている、ということが態度に出てしまう。相手の機嫌をできるだけ損ねたくない。だから何も知らずに立っていろ、と言ったのは瓜生のアニキだ。

 ああ、せや、俺がそう言うたんやったな、とアニキはようやく思い出した様子で笑いすぎの涙を拭い、

「アレはなぁ、バケモンや」

「え」

「人殺しのバケモン。殺し屋」

「殺し屋?」

 そんなものが存在しているのか。この世の中に。もう西暦2000年に入って結構経っとるのに。からかわれているのだろうかと思った。つい一年ほど前に組員になった俺を、今も風俗店や飲み屋の集金程度のシノギしか任されていない俺を、おちょくって。

「疑心暗鬼の顔やなぁ」

 アニキが笑う。嫣然と笑う。瓜生静は美しい。なぜヤクザをやっているのか分からないほどに、美しい。俺の父親の会社を潰したのはこの人だ。母親と姉を風俗に沈めたのもこの人だ。弟を趣味がある金持ちたちの集団に売り払ったのもこの人だ。俺をヤクザにしたのも、この人だ。

 好きなだけ恨みやあ、と一年前、瓜生静は言った。俺は彼を絶対に許さないと思っていた。殺してやるつもりで組織に入った。実際、周りの人間からは止められたらしい。端金のために一家離散させられた人間を組織に入れてこき使うなんて正気ではない、という意見を、今も昔も理解することはできる。変わったのは俺だ。首を括って死んだ父さんを返せ。好きでもない男に体を売る羽目になった母さんと姉さんを返せ。まだ好きな女の子さえいなかったのに、今生きているかどうかも分からない弟を返せ。そういう憎しみだけで俺は瓜生の駒になった。彼が少しでも隙を見せたら、この命と引き換えにしてでも喉笛をかき切ってやる。そういう気持ちで。


 感情が薄れ始めたのはいったいいつからだったろう。おまえだけやないんやで。アニキがそう、囁いた時からだっただろうか。そう。俺だけじゃない。イエを家族を兄弟を姉妹を奪われ踏み付けられ泥まみれになって這いつくばるようにしてヤクザという最悪の岸辺に流れ着いたのは、俺だけじゃない。アニキもまた同じなのだと、誰かから聞いた。本当はこんなところにいる人間じゃない。ただ、運が悪かった。


 俺だけじゃない。俺だけじゃないと思えば、憎しみも消えた。そうして俺は瓜生静の美しさに酔った。こんな美しい男が、俺を殺しもせず、風俗にも沈めず、どこか遠くに売り払いもせず、こうして手元に置いている。俺は憐れではない。家族のことは、いつの間にか忘れた。

「ほんまやでぇ。立花寅彦たちばなとらひこ、殺ししかでけへんど腐れや」

 先生と呼んでいたくせに、今のアニキの口調には侮蔑の色しかなかった。

 殺ししかできないのか。そうか。そんな人間は、軽蔑されても仕方ないかもしれへんな。俺はそんな風に思った。くだらない。くだらない人間だ。


 老人、立花寅彦は既に引退した身であるらしく、彼に殺しの仕事を依頼するのはあまりにも非現実的、というのが瓜生静を除く幹部全員の共通の認識だと、俺はずいぶん経ってから知った。だが、瓜生のアニキは自分の意見を譲ろうとはしなかった。

「仕事が終わったら、ジジイごと消してまえばええ話や」

 少し青色が入った真っ黒い髪の先を指先でくるくるといじりながら、アニキはそう言った。

「消せるんですか」

「バケモンやけど年寄りや。大勢で取り囲めば、まあ、どうにかなるやろ」

 そんなことをしたらこちら側に被害が及ぶ可能性もあるだろう。だが、アニキは別にどうでも良さそうな顔をしていた。自分で立花を殺すつもりはないのだろう。

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