"Human, All Too Human!"
中田もな
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“Höchste Lust!”
観客の下に訪れる、ほんのわずかな静寂。それは、舞台の幕引きに相応しかった。
――言葉などいらない。いや、言葉になど、できはしないのだ。
若かりし頃の青年は、生まれて初めて体感した。これが、魂が震える感覚だと。
何とも形容しがたいこの瞬間を、何度も何度も噛み締める。最愛の騎士とともに死に逝く、脆く儚い乙女の姿を。
“Tristan und lsolde”。それが、この舞台の題名だった。伝統的なオペラとは一線を画す、まるで「巨大な交響楽」のような調べ。
舞台上の登場人物は、起承転結になど従わない。長大な構成にも関わらず、特筆すべき事件があまりにも少ない。……そう、最早、「オペラ」という概念そのものを、遥かに超越しているのだ。ああ、なんと素晴らしいことだろうか。
――芸術の革命家よ! 今こそ、惜しみない賛美を受け取るときだ!
究極的な「愛」の賛美を前に、青年は盛大な拍手を贈った。彼は眼前の世界観に陶酔した。赤く腫れた手の痛みなど、全く感じられないほどに。
愛の耽溺を美しく描いた、稀なる才能を持った作曲家。彼は、ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーと名乗った。自らの理想を芸術に込めた、魂のある人物だった。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。彼はワーグナーの芸術を愛する、いわゆる熱烈なファンであった。
そんな彼が憧れの人と出会ったのは、一八六八年のことだった。哲学徒ニーチェ、二十四歳。音楽家ワーグナー、五十五歳。親子ほども歳の離れた、数奇な二人が対面した。
そしていつしか、二人の関係は親密さを増し、ニーチェはワーグナーの下へ足しげく通うようになっていた。
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