エピソード29

修学旅行に行く日の朝。

私は、蓮さんの笑顔に見送られて出掛けた。

いつもと変わらない、少し慌しい朝。

蓮さんと一緒に朝食を食べて制服に着替えて、メイクして……。

最後に香水をつけようとピンクのボトルを手に取った。

その時、視界の端に映った蓮さんの香水のボトル。

私はいつも使っているピンクのボトルを棚に戻し、蓮さんのボトルを手に取った。

首筋と手首に蓮さんの香りが広がった。

そのボトルを棚に戻す。

いつもと同じように香水のボトルが並んでいた。


蓮さんはまだ準備中。

さっき鳴ったケイタイを肩に挟んでリビングやクローゼットを行き来している。

私は、大きな鏡で全身をチェックしてからソファに腰を下ろした。

時計に視線を移すと、7時15分。

マサトさんが迎えに来てくれるまでまだ時間はある。

テレビのリモコンを手に取り電源を入れた。

爽やかな笑顔のニュースキャスターが情報を伝えている。

その笑顔を私はボンヤリと眺めていた。

だから蓮さんがケイタイを閉じ、私の背後に立っていた事に全く気付かなかった。

「美桜」

声が聞こえると同時に蓮さんの手が後ろから伸びてきた。

その手は私の胸の前で交差するようにして私を抱きしめた。

「今日は香りが違うな」

蓮さんの吐息が首筋に掛かってくすぐったい。

「バレた?」

「あぁ」

「ちょっと借りちゃった」

私がそう言うと蓮さんが小さく笑った。

離れていても寂しくないように……。

距離はあるけど、蓮さんの香りを感じていれば、一緒にいる気がして安心できる。

「夜、寂しかったらいつでも電話して来い」

甘くて優しい蓮さんの声。

「うん」

「それでも、寂しかったら……」

「寂しかったら?」

「麗奈に頼んで一緒に寝て貰え」

蓮さんの言葉に思わず吹き出した。

「そうだね、そうする」

「麗奈限定だぞ」

「うん?」

「海斗なんかに頼むなよ」

「当たり前でしょ?そんな事を海斗に頼んだら、彼女に私が殺されちゃう」

「そうだな」

蓮さんが楽しそうに笑った。

笑いながら「マナも強ぇからな」って蓮さんが言った。

「蓮さん、海斗の彼女知ってるの?」

「うん?葵の友達だろ?」

「そ……そうなの!?」

驚きを隠せない私と私の髪をクルクルと指に巻き付けて遊んでいる蓮さん。

「知らなかったのか?」

「知らない!!……って言うかマナちゃんって海斗より歳上なの?」

「だろうな。葵とタメだから」

「……もしかして、マナちゃんも聖鈴の生徒だったりする?」

「マナは違う。多分、私立じゃなくて公立だったんじゃねぇか?」

「そ……そうなんだ」

「なんでお前がテンション落としてんだ?」

「だって、どう見ても年上には見えないんだもん」

「会った事あるのか?」

「会った事はないけど、麗奈がプリクラを見せてくれたの」

「そうか。年上には見えなかったか?」

大人しそうで……。

優しそうで……。

ちょっと控えめな感じだった気が……。

「同じくらいか歳下だと思ってた」

「そうか?」

「髪が黒かったせいかも……」

「あぁ、公立は校則が厳しいからな」

「なるほど……」

そう言えば、私も前の学校の時、髪の色の事で先生に注意されたり、先輩に呼び出されたりしてたんだった。

聖鈴の中等部の校舎で黒い髪の子を見たことはない……。

私といつも一緒にいる海斗は銀髪だし、麗奈はミルクティーみたいな色だし、いつも爽やかなアユムでさえ明るい茶髪だし……。

地毛が栗色の私が一緒にいても全然違和感が無い。

むしろ、大人しく見えるくらい。

……慣れって怖い……。

「今度マナに会う機会はいくらでもある。葵に頼めばいつでも連れてきてくれる」

「本当!?」

「あぁ」

海斗の彼女はどんな女の子なんだろう?

あの海斗があんなに優しく笑いかけるマナちゃん。

そのマナちゃんに会ってみたいと思った。

マナちゃんに会える期待に胸を膨らませていた私。

そんな私の身体を抱きしめる蓮さんの手に力が入った。

私の首筋に顔を埋める蓮さん。

「蓮さん?どうしたの?」

私は身体に廻されている蓮さんの腕を握った。

「今日の夜の分」

「うん?」

「今日の夜、抱きしめられないから、今のうちに充電しておく」

「うん。じゃあ、私も……」

私は全身で蓮さんの温もりを感じた。

そして、その感覚を全身の細胞に記憶させた。

「美桜」

蓮さんの低くて優しい声に私の胸が高鳴った。

振り返った私の唇を蓮さんの唇が塞いだ。

全身を溶かすような甘いキス。

その唇を離したくなくて私は蓮さんの後頭部に手を廻した。

たった一日離れるだけ……。

でも、私にはとてつもなく長く感じる時間。

いつもは、嬉しいキスが今日は切なく感じた……。

いつも通りの時刻に迎えに来てくれたマサトさんが運転する車に乗り学校に向かった。

学校に着き車を降りた私に「ケイタイ、持ったか?財布は?忘れ物はないか?」と心配する蓮さんに苦笑してしまった。

「大丈夫」

私がそう答えると蓮さんはニッコリと笑顔で言ってくれた。

「気を付けて行って来い」

優しく穏やかな笑顔。

私に安心感を与えてくれる笑顔。

だから私も笑顔で答えた。

「行って来ます!!」

蓮さんとマサトさんの笑顔に見送られて私は教室に向かった。

教室に入ると麗奈も海斗もアユムも来ていた。

「おはよう」

楽しそうに談笑する3人に声を掛けた。

「おはよう!!美桜!!」

「おう!!」

「おはよう、紺野さん」

笑顔の3人に迎えられて私は自分の席に着いた。

「よかった!美桜が来てくれて」

麗奈が嬉しそうに笑った。

「うん。でも、ごめんね。一日しか参加しなくて」

◆◆◆◆◆


昨日、私は麗奈を屋上に誘った。

麗奈を誘ったらもれなく海斗とアユムも、着いてきた。

4人で吸うタバコは、なんだか照れくさかったけど、今まで吸った中で一番美味しいような気がした。

『麗奈』

私はタバコの煙を吐き出している麗奈の声を掛けた。

『なに?』

『修学旅行の事なんだけど……』

『……もしかして行かないとか?』

『いや……行くのは行くんだけど……』

『けど?』

『二日目の朝に迎えに来るの』

『迎え?』

『うん』

『誰が?』

『蓮さん』

『蓮さんって……神宮先輩!?』

『……そう』

『沖縄まで!?』

『う……うん』

驚いた表情でどんどん私との距離を詰めてきた麗奈。

私は思わず後退りした……。

『麗奈、迫りすぎ……』

アユムが呆れた表情で麗奈を止めてくれた。

肩を掴まれて私から引き離された麗奈は『ご……ごめん!!』と正気に戻った。

『麗奈、ごめんね。せっかくプランも立ててくれたのに……』

『美桜、愛されてるね』

麗奈が呟いた言葉の意味が分からない私は首を傾げた。

そんな私に麗奈は優しく微笑んだ。

『謝らなくてもいいよ、美桜!!一日は参加できるんでしょ?』

『う……うん』

『だったらその一日を楽しめばいいじゃん!!』

麗奈が満面の笑顔を浮かべた。


◆◆◆◆◆


教室の中の雰囲気も今日はいつもと違う。

みんなの顔が楽しそうに輝いていた。

「美桜、今日はいっぱい遊ぼうね!!」

「うん」

麗奈の言葉に笑顔で頷いた時、教室の中が急に騒がしくなった。

『美桜ちゃん!!』

教室の後ろの扉の方から私に向かって声が掛けられた。

そこにいたのは……。

「葵さん!?アユちゃん!?」

「美桜ちゃんおはよう」

聖鈴の制服を可愛く着崩している葵さんとアユちゃんが教室の中に入ってきた。

高等部の生徒である証拠の緑のネクタイ。

赤いネクタイを見慣れていた私には緑のネクタイを新鮮に感じた。

『葵先輩とアユ先輩だ!!』

『今日ラッキーかも!!』

『こんな間近で見られるなんて!!』

『二人とも超美人じゃん!!』

『なんでここに?』

クラスメート達が声を潜めて興奮している。

そんな声が聞こえているのか、聞こえていないのか……。

二人は表情を変えることなく私の席まで歩いて来た。

そんな二人に私は声を掛けた。

「二人ともどうしたの?」

「美桜ちゃんのお見送りに来たんだよ」

葵さんが無邪気な笑顔を浮かべた。

「え?私の為!?」

「そう。本当は美桜ちゃんが編入してすぐにここに来たかったんだけど、西田ちゃんに止められちゃってて……」

アユちゃんが苦笑いした。

「西田先生が?どうして?」

「あれ」

アユちゃんが廊下を指差した。

その指を辿っていくと……。

廊下には大きな人集りが出来ていた。

「な……なに!?なにかあったの?」

廊下から聞こえてくる歓声。

な……なにが起きたの!?

「ヒカルも来てるの」

アユちゃんが溜息を吐いた。

「え?ヒカル?も……もしかして……あの人集りと歓声って……」

私の質問にアユちゃんは無言で頷いた。

そ……そうなんだ。

ヒカルも人気ものなんだ……。

それもそうか……。

私が編入して来た日の反応を見ると聖鈴の生徒はチームのことも知っているはず……。

……っていうかこの辺りでチームの事を知らない人はいないみたい……。

……私は知らなかったけど……。

そんな、聖鈴でヒカルが有名じゃないはずがない。

ヒカルはチームのNO.2だし……。

「美桜ちゃんが、編入してきてすぐこんな風になったら可哀想だからって西田ちゃんが言ったの」

「……そうだったんだ」

「海斗」

葵さんが海斗に視線を向けた。

「なんだよ」

海斗がダルそうに答えた。

「ヒカルを助けてきて!!」

「あ?なんで俺だよ?」

「は?ヒカルがキレてここで暴れてもいいの?」

「……?」

「今、ヒカルを助けに行くのと、暴れているヒカルを止めるのとどっちがいい?」

葵さんが出した究極の選択に、海斗は顔を引き攣らせた。

「……行ってくる」

海斗は、焦った表情で席を立つと廊下に走っていった。

しばらくして海斗は、ヒカルと一緒に教室に入ってきた。

二人は疲れ果てた表情をしていた。

廊下からの歓声は聞こえなくなったけど、今度は教室の中で歓声が上がる。

耳を塞ぎたくなるような大きな歓声にヒカルと海斗はウンザリとした顔。

女の子の高い声に混じって男の子の低い声も聞こえてくる。

その耳障りとも言える歓声を止めたのはアユちゃんだった……。

それまで、ニコニコと笑顔を浮かべていたアユちゃん。

私の席の近くにきたヒカルが大きな溜息を吐いて「……マジ、勘弁」と呟いた瞬間、アユちゃんの顔つきが変わった。

私が初めて見るような怖い顔になったアユちゃんが、鋭い眼つきで振り返った瞬間、教室の中が水を打ったように静まり返った。

恐怖に顔を引き攣らせたクラスメート達が口を塞ぎ慌てて視線を伏せた。

こ……怖い……。

「……アユちゃん?」

恐る恐る私が声を掛けて、振り返ったアユちゃんはいつもと同じ優しい笑みを浮かべていた……。

アユちゃんも恐怖のスイッチを持ってるの!?

いつもはお姉さんみたいに優しいアユちゃんの本性を見た気がした。

アユちゃんが変身したのに……。

無邪気な笑みを浮かべている葵さんと優しい笑みを浮かべているヒカル。

私は苦笑いを浮かべる事しか出来なかった……。

「美桜ちゃん沖縄いいなー!!」

葵さんが羨ましそうに呟いた。

「明日は蓮さんも行くんでしょ?」

アユちゃんが私の顔を覗き込んだ。

「う……うん」

どうやら、蓮さんが沖縄まで迎えに来る事はみんなに伝わっているみたいだ。

「なんかあったら連絡くださいね」

ヒカルがニッコリと微笑んだ。

「……あの……」

「はい?」

「私が行くのは沖縄なんですけど……」

「……?」

「なんかあって連絡しても……」

不思議そうに私を見つめていたヒカルがハッと何かに気付いたようだ。

沖縄に行ってまでなにか起きるとは思えないけど……。

もし、なんかあってヒカルに連絡をしても、ここにいるヒカルはなにも出来ないんじゃ……。

「大丈夫ですよ」

私の言いたいことを理解したらしいヒカルが余裕の笑みを浮かべた。

「……え?」

「沖縄にも俺の知り合いがいるのですぐに向かわせます。俺もすぐに行きますから」

「……はい?」

「え?」

「沖縄に来るんですか?かなり遠いですよ」

「空港まで行って飛行機に乗ればすぐじゃないですか」

……。

……ここにもいた……。

感覚が違う人が……。


「きゃ~!!ヒカルが沖縄に行くなら私も行きたい!!」

アユちゃんが大きく右手を上げた。

「いいな~!!私もケンを誘って行ってみようかな?」

葵さんがポケットからケイタイを取り出した。

……え!?

みんな沖縄に行く気満々なの!?

『なんかあったら連絡ください』ってヒカルは言ったよね?

まだ、なにも起きてないんですけど……。

……っていうか、私は沖縄にすら行ってないんですけど……。

……ものすごく言いにくいんだけど、みんなが一緒に行く方がなんか起きそうな気がするんだけど……。

心配する私を他所にどんどん盛り上がっている葵さんとアユちゃんとヒカル。

……だれか……。

……この3人を止めて……。

そんな私の心の叫びに気付いたのか海斗が口を開いた。

「ヒカルさんもケン兄もいなかったら、チームはどうなるんだよ?」

「……」

「……」

「……」

海斗の一言で3人は一瞬にして言葉を失った。

「そ……それなら、私とアユちゃんで沖縄に行っちゃう?」

「いい考えだね!!葵!!」

葵さんの提案に大きく頷いたアユちゃん。

「あ?」

「逆に邪魔になるんじゃねぇか?」

アユちゃんが賛同した葵さんの提案は、ヒカルの不機嫌そうな低い声と海斗の呆れた声によって却下された。

悲しそうに肩を落とした葵さんとアユちゃん。

私が「お土産買って来るね」と声を掛けると瞳を輝かせて「シーサーのストラップがいい!!」と言った葵さんと「私は“ちんすこう”が食べたい!!」と言ったアユちゃん。

そんな2人も西田先生の登場によって渋々と教室を出て行った。

有名人3人が居なくなってようやく教室がいつもと同じ雰囲気に戻った。

いつもは騒がしい麗奈でさえ葵さんとアユちゃんの前では“借りてきた猫”状態だった。

3人が教室を出て行った瞬間大きな溜息を吐いた麗奈。

「あー!!緊張した!!」

そう言った麗奈に苦笑してしまった。

西田先生は今日の予定の確認や注意事項を話した後、昇降口に集まるように指示を出した。

靴に履き替え昇降口を出るとバスが止まっていた。

そのバスに乗り込もうとしている時、校舎の方から声が聞こえた。

『美桜ちゃん!!』

振り返ると校舎の窓が身を乗り出している葵さんとアユちゃんが笑顔で手を振っていた。

手を振り返すと『楽しんでおいでね!!』と言ってくれた。

私は大きく頷いてバスに乗った。

今日、私はたくさんの笑顔に見送られた。

蓮さん、マサトさん、葵さん、アユちゃん、ヒカル……。

その笑顔に私は、ちゃんと笑顔を返せたのだろうか?

心の底からの笑顔で……。

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