第2話 アカデミー
自室へと戻って来たジャックは早速、導き出した数式を『
グラフィティに潜み隠された問いの答えの数値、アルゴリズム。
「何の数値だこれ……」
見た事もない数列であった。
一体どういった問いなのか、そして『解答』なのか。一切が不明であった。
N×i(α≠Ω)=∞googolplex≒0
Nは整数と捉えていいものだろうか。
だがiを虚数と捉えたのなら数式として成り立たないのではないか?。
尚且つ∞と言う数値が出ている時点でもう式として成り立っていない。
∞を実際の数として数えたのなら10の69乗としてとらえられるが、更に問題になってくるのが『googolplex』。
これを桁として表すのなら10の10の100乗乗であり、子供が1の後に疲れるまで0を書いた数という単なる遊び心の産物であり、真摯にそれに取り組むべきものではない。
仮に真剣に真に受けて
限りなく概念的な『無限大の数値』が、絶対的な無の数値『0』とほとんど同じと言うのは一体どういう意味なのだ。
数学的数式と言うより観念的文字遊び、哲学の領域に足を突っ込んでいるようなもので、答えを先に考えていないと解けないと言う禅問答の様になっている。
もはや数理的学問が、問いのない言語学と同じに扱われている。
コーディネーターはかなりの偏屈モノのようだ。
この数百世紀の間であらゆる学問、技術、そして未知の数学的問題は解決へと導かれた。
偏に
世に残された七つの難解な問題。『ミレニアム・セブン』と呼ばれるモノを悉く破り問いを導き出したその知能指数は人類の域を超えていた。
アヴェスターの本体は
地球上、そして衛星軌道上に打ち上げられた人工衛星に搭載された人工知能であろうとも例に洩れず、電子回路がショートし死んでしまった。
だが、電気の通っていない記憶装置、ローテクな1500億枚に及ぶフロッピーディスクに書き込まれたディープラーニングで得られたアルゴリズムによって何とか
ジャックの世界。この地下世界の基盤であり、過酷の地球世界から人類を守る殻なのだ。
アヴェスターの基礎アルゴリズムはオープンリソース化され、各地で生き残っていた人類たちの揺り籠となり、無数の
演算効率500%を超え、都市区画内に一千万人を格納できるだけのスペースを要した
国や、民族、性別や精神と言った区別を捨てきれなかった人類が残した所属先であり、実際は前身は国が主体となったモノではなく、国と言う組織体系は
遺されたのは財力のある、企業たち。
それらが今、国に取って代わり『
ウィリアム・ギブスンやフィリップ・K・ディック、テア・フォン・ハルボウの予測した『
企業は衣食住の全てを押さえ、そして宗教にまで手を伸ばしキリスト、仏、予言者、あらゆる神格化された神話の首を挿げ替え、
人間に信仰心を植え付けるのは容易ではない。だが一千年の月日があれば話は別だ。
人類の求める安住の地、天国も極楽も。罰を受ける地獄もゲヘナも、悟りも黙示録も起こりえなかったこの世の中で人が縋れるものは、現実的な奇蹟であり、
モース硬度、ビッカース硬度共に数値は歴代最高峰でありどんな外的損傷も与える事ができず、発電系と物質出力系、そして通信系とあらゆるモノが全て内包された超構造体であるが故に万能だ。
唯一生み出せないとすればそれは命であり、魂を育むのはこの地球が塵の中から生まれて有機生命体が誕生してからずっとセックスでしか生み出せない。
だが、それでもプリント・アウトされたモノは食料品であろうと、医薬品であろうと十全に機能している。
高級ステーキを食べたかったらプリントして厚さ十ミリの極厚ステーキを生み出せる、フォーラーネグレリアに脳味噌が食い散らかされたならそれの駆除薬と再生薬を兼ねた特効薬を出力してくれる。
無限にあらゆるものが生み出せる、昔なら天災やなんかで不作飢饉があっただろうが、幸いなことに
故に天に窺いを立てる事はなくより物質主義へと傾倒できる。
「
薄気味悪い笑みを浮かべてOSの書き込みを始めたジャック。
何故ここまで
その文字は、左側の文字が『
だが、この二つが重なると『
面白い、この世の中を顕しているようだ。
恐らく給水時に上から落ちてきたのだろう、異様に保存状態のいいそれは過去この
一度転がり落ちた坂は再度上るのは苦労する。一つ植えられた疑問は次第に大きくなり遂にジャックを
この
一粒の疑問が、最大の
シミュレートをしていないプログラムの様に、コンマ数ミリの砂粒で壊れる腕時計の様に。
信仰の対象である
だが、そここそが最も
不意に顔に装着した
「また、深層に潜ってたな」
「部屋に入ってくるならチャイム鳴らせよ。アル……」
部屋に押し入ってきたのは幼馴染、と言うよりはどちらかと言えば腐れ縁。
同時期に生まれ同じ初等アカデミーでライバルだったアルテアであった。
「ダイブする位なら、
「ふざけんな。プライベートまでボランティアやって堪るかよ」
「拗れてるわね。そんなんじゃ
「良いじゃん……無性別。性別に囚われない第三の性だ」
セックス・ジャッジメント。それは成人の儀式であり、晴れて子供が大人へと迎え入れられるための行為である。
アルはまず間違いなく
対する俺は、何と言うか、どっちつかずだ。
俺達に性別と言う区別はない。
成人に際し、それが決定されるようになって約百年近くなる。
俺達は所謂、無性別。男性的要素も女性的要素も両方持ち得ている。
それは産まれた時からそうであるようにクリエイトされた状態であり人為的なDSD、
過去この状態が遺伝子疾患であったとされるが今ではこれが未成年であると言う証拠なのだ。
なぜこのような事になったのか。
それは
十何世代前のご先祖様が『
少なくともジャックには点で判らないが、少なくとも
diskやネット接続端末塩基もその一環だ。人体拡張技術、
「サッサと仕度する! アカデミー行くよ」
「……うーい」
ジャックはようやく重い腰を上げて、
十二時間の我慢だ。それが終われば心行くまで
家から出て暗がりの摩天楼の街にアルテアと共に足を進め向かう先はアカデミー。
義務教育と言う名前の
俺にとって居心地のいい所ではない。親が居た頃はまだよかったが、死後、AIによるメンタルホスピタルサービスで生成された再擬態人格たちが煩いんだ。
生きていたころは汗水たらして働いていてそれなりの収入があったり遺産相続も問題なく俺の量子口座に送金された。
メンタルホスピタルプログラムで定められた孤児化未成年者の定期的な再擬態人格へ訪問しないといけなくて、そこからは家族団欒、とまでは行かない迄もそれでも進路はどうするのか、エル・ソリア・ムエルテに措いてジャックは『
ジャックの関心はこの
だが生憎と、空は臨むことは出来ず閉ざされ外界へと通じる道は一つだけ。
『
たかだかプログラム・ランゲージを発声できるからといっても、『フレーム・アウト』は他の
粗悪で精神神経系に悪影響を及ぼさない
──巷の噂では、『死者蘇生』も成しえるそうな。
届きもしない夢に手を伸ばす事ほど馬鹿らしいことはない。
だがそこに手が届くのならば、掴み取りたかった。
「今日は一段と多いわね……聞いてる? ジャック?」
「あ? ……あぁー。聞いてなかったわ」
「はー……そんなんだとセックス・ジャッジの前にアカデミーの卒業を逃がしそうね……」
「そんなに俺も馬鹿じゃねえよ……」
ただ単にジャックは引きこもり気質で、外に出る事を極端に嫌う性格をしているからだった。
誰も彼もが敵に見える、和気藹々とした雰囲気が、精力満点の若者の気配が、幼子の幼げな視線が全て敵意の目線に見えてしまう。
何故そんな疑問を抱くのか、何故そんな疑念を抱くのか。
人が人であるが故の不信感、不義理さ、不確実性。あらゆる物事で信頼が一切置けない。
自分の快楽の為に極限にまで研ぎ澄まされた利己的性。
機械ほど精確性でもなく、動物ほど獣性もない。
中途半端で、中途半端な忠誠心を覗かせるから、錯覚してしまう。コイツは信頼できるんじゃないかと。
それで裏切られた時に感じる失望感、そしてそれを深く見つめれば分かってくる。それは己の勝手な楽観主義だったと。見ていて不愉快になるほどだ。
ジャックが他人に言えるのは、
『お前らに失望してしまうから嫌いだ』
これだけだ。
他人を信用しなければいいのだ。人との関わりを断ち、達観してしまおうと。
他人を信頼しない、信用しない、期待を寄せない、これら三つを満たせば完成する最強の人間強度を持った無敵の人間に慣れる。
「────―」
「…………」
アルがずっと何かを言っている気がするが、耳を貫通して通り過ぎていく。
周囲に満ちる只の音波、雑音、ノイズと同じように脳に正確に到着していかない。
一切の興味が持てなかった。
虚空、伽藍洞、怠惰。人はきっとそう言うだろう。
だが、これでもしっかりと未来の展望は持っていると言う自覚はあった。だがそれもボンヤリとした楽観的主義の為せる業。ジャックもこの街に埋もれたテッキーでしかないのだ。
「最高にシャズ……だ」
ディープ・ゾーンで繰り広げられる彼らにしか判らないであろう用語。昔ながらの言い方で言うのなら『ネットスラング』と呼ばれるモノを口にするジャックはこの暗闇の世界で何を成すべきか。いや、成さぬべきか。
このクソッタレで退屈な世界を如何に干渉しないように生き抜くかが重要で、その他一切がどうでもいい。
だが、こちらが干渉しなくても外側が積極的に干渉してくるのだ。
音、匂い、肌触り──。
人間関係、社会環境、リアルでもデジタルでも己がそこに居るなら何者かがそれを探り当ててくる。厄介な事この上ない。
「はァ……憂鬱なアカデミーだ」
モノレールを乗り継ぎ、外縁部の一角を占拠している建物に到着した。
アカデミー。
教育機関と銘打っているが、それは唯の労働力を生産する工場の一つに過ぎない。
只の工場としか言いようがない。
何人もの若人が集い和気藹々としている中でジャックだけが浮いているような気がするが、それも致し方たない事で実際浮いていた。
ブレザー制服の中でジャックのブレザーだけ色合いが違っていた。
皆は白と黒のストライプ柄なのにジャックだけ真紫の金色のボーダーの入ったブレザー。
それが示すのは特待生という特別待遇を示されることを意味していた。
「おーおー、
校舎の吹き抜けエントランスでたむろしていた生徒の一団の一人がジャックに向かって大声でそう言って来た。
ジャックよりも一回りも二回りも大きな背丈のその生徒は、所謂このアカデミーの中での立ち位置は『
「生徒会長様とご一緒とは仲の良いこった」
ヘラヘラとした薄ら笑顔を浮かべてジャックたちに近づいてくるソイツ。
名前も何も覚えていないが、しつこく絡んでくる奴である事だけ覚えていて出来るだけ、と言うか絶極的に関わりたくない相手だった。
「ドール。近づかないで」
「なんだよ、アルテア会長。
「貴方が関わるほど彼は暇じゃないのよ」
「何だよ? いいじゃねえか、世間話くらいよぅ」
その生徒のツラは明らかに裏がある様な気味の悪い笑顔であるのは疑いようがなかった。実際彼には裏があった。
「へーへーい。
ジャックの個人チャンネル当てにメッセージが届いた。
差出人は言わずもがな。
『いつもの持ってきただろうな? 授業が終わったら食堂で寄こせ』
気が重い。これだからアカデミーは嫌いなのだ。
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