廻る

夜明け

ビルから耿耿こうこうと溢れ出す光が、東京の夜に溶け出す。

機械音の立ち込めるスクランブル交差点に、足音が響く。



渋谷駅から徒歩十分。

築八十年、鉄骨造の我が家が見えてくる。

錆びついた鍵穴に苦戦して、ガチャガチャとドアノブを捻り回しながらやっと玄関に辿り着く。


「ただいま。」



「………おか…え…り…なさ……い。」


鞄やジャケットを脱ぎ捨て、額から滴る汗を拭い、ボサボサになった髪を結い直す。

家の中の静けさを紛らわせるようにテレビの電源をつける。

料理担当の私はエプロンを頭からくぐらせ、帰宅早々夕食の準備に取り掛かった。

鍋の水をコンロの火にかけて、沸騰するのを待つ。



木箱からそうめんを一束取り出しながら、上司の不満をぼやく。

相変わらずの私の暴言に、彼女は一点を見つめ、ただ頷くだけだった。

彼女は私の友人であり、同居人であり、愚痴聞き担当である。

昔はあんなにお喋りだったのに、最近はずっとこんな様子だ。

電球の明かりが鍋から立ちのぼる湯気を照らしている。

そうめんがしなっていくのを見て少し寂しい気持ちになった。



薄暗いリビングにテレビが眩しく光っている。

「えー続いては、『二十年越しにブーム再燃!タピオカ特集』の……」

胸の奥から懐かしさが込み上げてくる。

「タピオカ。二十年前。……?」

久しぶりに口にする響きが、二人が出会ったあの夏の日の暑さを思い出させる。




──令和ニ年八月

渋谷の街もまた、パンデミックの渦から逃げだせずにいた。

迫り来る人々の波に怯えていたのはどれほど前のことであっただろうか。

足音で掻き消されていた巨大なスクリーン広告の音声が、今ははっきりと聞き取れる。

私が知っていた騒がしく眩しい世界は、そこには無い。


人同士での接触を避けるためにと機械化が進む。

ただでさえ経済不況で失業者が多いというのに、ロボットまでもが私たちを苦しめていく。

仕事探しに行くと言って出かけた母はまだ、帰ってこない。


人間の生み出した機械が人間を侵食していく。

そんな異様な光景を当たり前のように受け入れる人々に違和感を感じているのに、どうすることもできない自分の無力さに虚しさを感じた。


高校生で行くあてもない私は、魂が抜けたように路地裏のシャッター街を意味もなく行き来していた。

そこでなんとなく目に入った雑居ビルに見覚えがあった。

かつて母の働いていた職場の入っている建物だった。

飲食店で働いていると言っていた気がするが、あまり詳しいことは分からない。

でも、一度連れられて店に行った時に異様な空気が漂っていたことを覚えている。


閑散とした街に、派手な電光掲示板一つだけが光っている。

「近未来カフェへようこそ」

の文字が何周も目の前を通り過ぎる。

コンセプトカフェみたいな類いの店かと思ったが、それとも少し違うようだ。

こんなに人がいないというのに営業しているのだろうか。

ただボーっとして眺めているとビルの中から怒号が聞こえてきた。


しばらくして、怒られていたらしい一人の女性が出てきた。

クビにでもされてしまったのだろうか。

散々暴言を吐かれていたのにも関わらず、彼女は平然としているように見える。

背をピンと張って薄汚れた路地裏を行く彼女は、異様な雰囲気を纏っている。

でも彼女の遠くなっていく背中はどこか不安げで、あの日の母の姿と重なって見えた。

「引き止めなければ。」

直感的に、でも、はっきりと心の中でそう思った。

次の瞬間、私は彼女の固く強張った手を掴んでいた。──




チリン チリン…

風鈴の音色が私を呼び戻す。

盛り付けたそうめんに乗せた氷が、徐々に溶けていく。


「ねえ、これからどうしようか」

気づけば彼女に問いかけていた。

聞いたところでどうにもならないのに。



「……ガガッ……ギギーッ……」



金属同士が擦れているような、重たい音が鼓膜を揺さぶった。

目を見開いて反射的に彼女の方を見る。

ネジが外れたように口を大きく開いて、私に何か伝えようとしている。



「…き……んみ…ガガッ……か…ふ……ガッ……ぇ……ギーッ…」



なんとかして聞き取ろうとするが、全く理解できない。

彼女は苦しそうで、それでいて穏やかな表情で私を見つめる。




「…ガッ…………みら…い……………へよ…うこそ……」




彼女ははっきりとそう言って、満足げな顔をしたままそれっきり黙ってしまった。

今度はどうやら、充電切れでは無いようだ。



ベランダに出て、ぬるくなったそうめんを啜る。

細くて白くて艶の帯びたものが、食道を伝っていく。

冷たくなくても案外美味しいものだ。

心地よい風を浴びながら黄昏る。


時代ときは残酷で、美しく、儚い。


私は朝日が夜空を塗り替えていくのを、ただじっと見つめていた。

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