金魚くまくん
大河君がどこにもいないと思ったらまさか美術館の中から出てくるなんて。
これはどこかの少女漫画か? なんて思ってしまう程に展開が出来過ぎている。
本当にこんなことってあるんだ。
まだ手に握っていたままの麦わら帽子を、すぐに被った。
そして後からくる謎の羞恥心。何が恥ずかしいのすらも分からないけど。
何か喋った方がいいのだと思う。けど何を喋ればいいか分からない。分からないことだらけだ。
「泣いてたのか」
「えっ」
大河君にはどうやらお見通しのようだ。すぐに涙を拭ったのに。
「お~い大河~! 何してんだ~早く来いよ~」
後ろからは野球部の人達が大河君を待っている。だから言わなきゃ。
あたしは何も無いから大丈夫だよって、でも言えなかった。朝からの一連の流れに精神的に疲れていた。
「あっ……あた……」
頭の中では喋ることを決めているのに上手く喋れない。何で、どうして。
また涙が出てしまいそうになる。いや、もう泣いている。だって視界が滲んでいるから。
大河君の前で泣いちゃうなんて、彼だって困るだろうに。
どんどんと涙が溢れて止まらない。どうしたらいいのか分からない。
ただせめて、野球部の人達にバレたくなくて、声を押し殺して泣いていた。
「俺、ちょっとここ見てから帰るから、お前らさきに帰ってろよ」
まさかの言葉に一瞬だけ涙が止まった。そしてまた涙が溢れ出てくる。
これは悲しい涙じゃなくて、嬉しい涙。
大河君は耳元で囁いてから野球部の人達に預けていたカバンを取りに行った。
「後で話を聞くから、少し待っててくれ」
一瞬だった。だから野球部の人達にはやされたり冷やかされたりすることも何もなかった。
どうしたらいいのか分からなくて、しゃがんで彼を待っていた。
「お待たせ。大丈夫か」
ほんの数分で大河君は戻って来た。想像以上に早かった。
野球部の人達に軽く事情を言い、さっさと戻って来たのだろう。
後ろを振り向くと少し遠くに歩いて帰る野球部の人達の姿があった。
「ハンカチ使うか?」
ズボンのポケットにでも入れていたのだろう。ハンカチを差し出してくれた。
「あっ……ありがとう」
有難くすぐに受け取り涙を拭いた。視界が一気にクリアになった。
ハンカチを触ると結構濡れていた。どんだけ泣いていたんだ、あたし。
「これ、また洗って返すね」
彼を見ると少し顔を逸らし赤らめていた。何が恥ずかしいのだろう。
ふとハンカチを見てみると、恥ずかしがっていた理由が分かった。
それには金魚と熊が合体したようなキャラクターが真ん中に、デザインされていた。
初めて見たキャラクター。幼い子供が喜んで買っていそうな、雰囲気を感じた。
「もしかして……これのことだったりする?」
僅かに頷いた。特に気にしていないけど、男子だからこそ気にしてしまうのだろう。
男がこんなもの持っているなんて恥ずかしい、みたいな。
「金魚くまくんっていうキャラで……美術館にトイレ借りに来た時に、こいつ見つけて、結構可愛いなって思って……買った」
聞いていないのに、わざわざ経緯を教えてくれた。なるほど、だから美術館にいたのか。
「……ん?」
美術館にトイレを借りに来てそして、一目惚れしてこれを買った。てことはつまり……。
「これ新品じゃん!」
涙を拭いてびしょびしょになったハンカチはなんと、新品だったのだ。
しかも多分未使用のものなのだろう。雑巾みたいに絞れるってわけじゃないけど、結構濡れている。
「別にハンカチ持って来てたけど……早く結に渡したかったから、焦ってつい……」
「洗って返しますっ」
反射的にこの言葉が出て来た。これはそうしないと、自分の気が済まない。
「別にいいよ」
「是非ともそうさせて下さいっ」
食い気味に答えた。
「なら……そうしてもらうとする……か」
勢いに折れたようだ。とても綺麗にして返そう。
風が少し吹きすぐに止んだ。その風が起こった原因が何か知っている。
金魚だ。自分達の間を通り抜けていった。
「何か通ったか」
彼には金魚が見えていなかったようだ。確かに高速とまでいかなかったけど、すぐに通り過ぎていった。
だから見えなくても当然なのかもしれない。
じゃあ何で自分には見えたのだろうか。
通り過ぎた瞬間に少し前どこかで感じた、温かい気持ちが心の奥にあった。
どんな色とか特徴とかは見えなくて、ただシルエットが金魚に見えただけだけど。
もしかしたら、どこかで一回会ったことあるのかもしれない。
学校の帰り道とか休日に出かけた時とか。でも何で温かい気持ちになったのだろ。
それは考えても何も分からなかった。
「……結?」
考え事をしていたら、待たせてしまっていたようだ。
「あ、あぁ大丈夫だよ、ちょっとぼーっとしてただけ。大河君はお腹空いている?」
「俺か? ……結構腹減ったな……いやかなりだな」
「じゃあご飯一緒に食べない? この中にレストランもあるの」
一人で食べるよりも、誰か知り合いと楽しくご飯が食べたかった。
だから大河君にお昼を一緒にしないかと、誘った。
「じゃあお言葉に甘えさせてもらうとするか」
こうして二人で美術館の中に入って行ったのだった。
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