朝から大忙しの透海書店
このハイツは二階建て。そこの二〇三号室に住んでいる。表札には水本。
あたしの名前は
この近くの『透海書店』ってところで、働いている。勤務歴は二年。
ちなみに特に彼氏ができたことは……多分ないはず。
覚えていないからはっきりとは、言えないけど。
何で髪型が一つ結びなのかは特にこだわりはない。
いつの間にかこの髪型がルーティン化していた。
理由があったのかもしれないけど、詳しく覚えてないや。
単純にこの髪型が好きなんだと思う。束ねたり束ねなかったりなんだけど基本的に束ねている。
ハイツの階段を降りてから見えるのは商店街。透海商店街がお迎えしてくれる。
透海商店街のお店の中にはポスターや時計などと何処かに必ず金魚が描かれている。
町の街灯は金魚がデザインされているもの。
まあ、如何にも金魚で有名になっただけのある街並みをしている。
流石ハロウィンというだけもあって、商店街はハロウィン一色に染まっていた。
隅にはジャックオーランタンが何個か少し離れた位置で置かれてあった。
そんな商店街に溶け込んで存在しているのが透海書店である。
というか、そもそもこの見た目を書店と言っていいのだろうか。
個人的にはちょっと困惑するような見た目をしている。
建物自体は商店街に溶け込んでいて全く何の問題もない。
問題はその上に隕石が降って来たかのように刺さっている大きな赤い金魚のオブジェクトだ。
しかも尾の部分がゆっくりだが上下に動くという謎の機能付き。
初めてこの町に来た人はよくここを金魚屋と間違える。
ぱっと見は本屋だと誰もが思わないだろう。
時々、本当にここは本屋なのかと思う時がある。インパクトが強すぎるのだ、この本屋は。
ガラス張りの今どき珍しい手動の扉を開けた。
全く、イベントにかけるお金があるのなら、この扉を一刻も早く自動ドアにして欲しいものだ。
中に入ると従業員全員ドタバタとしていた。
ハロウィンのイベントと言いながらもそこまで客は来ないのが毎年だ。
というかそもそも人が全然来ていないのに、何を慌てているのだろうか。この人達は。
ハロウィンのイベントというのは店員が店長含めて全員で仮装をする。
そして、その日に本を買ってくれたお客様に対してお菓子をあげるという内容だ。
お菓子が好きじゃない方には筆記用具やキッチン道具などをあげたりする。
書店の中は広くもなければ狭くもない感じ。
ただただこの本屋は見た目のインパクトが強すぎるのだ。
本の取り扱い在庫は案外、良かったりする。
たまに絶版となっているようなものが新品で置いてあったりする。
そして二階建て。入口に入るとすぐに二階に繋がる階段が左右に見える。
ここから少しだけなら二階の様子も見える。
一階は主に漫画や雑誌などを扱っている。二階は主に小説やライトノベルなど扱っている。
他にも参考書やドリルなども。
いわゆる本というジャンルに当てはまるものが全てこの店にはある。
そんなことよりも本当に何でこの人達はこんなに慌てているの。みんなスマホを手放せずにいる。
しかもみんな何かしらの仮装をしているから、見ていて笑いそうになる。
というかもう既に笑っている。
自分を抜いて7人の授業員の中で、一番インパクトが強いやつが近付いてきた。
そいつは一昔前に流行った山姥メイクというのをしていた。
髪は染めたのかカツラなのか金髪の巻き髪ロングだ。そしてセーラー服。
歳が同じくらいの子だろうか。こんな知り合いはいないはずなんだけど。
「なんか大変な感じっぽいよね~」
その声に聞き覚えがあった。
「あんたはもしかして……文香?」
その言葉にそいつはニヤリと笑った。その姿はまるで本当の山姥の様。
「正解。私はあなたの大親友の文香よ」
亀井文香≪かめいふみか≫。大親友。小学校からの友達で高校も一緒で就職先も一緒だ。
高校では三年生だけクラスが違ってたけど休み時間になるといつも教室に来てくれた。
悩みごとも聞いてくれてほんとにいいやつだと思う。
ただ一つだけ、問題ってほどでもないけど欠点がある。
「いや~仮装っていうものはっ、テンション上がるよね~」
ピョンピョンと飛び跳ねる文香。
まだこやつは本性を現していないけど。テンションが上がると抑えが利かなくなる。
そこだけだから別に大して気にしていないんだけどね。
「ねえ~。急に~歌いたく~なったから~歌って~いいかなっ」
「はあ?」
前言撤回。やっぱり自由過ぎるぞこいつ。そう幼い頃から彼女は自由気ままだった。
とりあえず暇になれば歌いたいと言い出す。
それがプロレベルに上手いのならば、別にいいだのだけど。
お世辞にもそうとは言いにくい。
かと言って下手でもない。普通にカラオケを聴くことが苦じゃないレベル。
肺活量を鍛えたり滑舌を良くすると、もっと上手くなると思う。
でも本人は歌うことが好きなだけ。だから黙って聞いている。
と言っても少しづつだけど、上手くなっているように感じる。
そういえば、高校の時はよくスマホで動画や写真に撮られていた。
とても上手いというわけではないけど。
文化祭で三年連続、ソロ歌唱で出場したのだけど何故か魅かれるのだ。
文化祭の出し物は歌唱、ダンス、お笑いなどとジャンルは様々。
全てがセルフプロデュースとなっている。
衣装や何をするか、スポットライトをあてるタイミングなど。
一年生の頃から彼女は参加している。文化祭の出し物はMAX8分。精々歌えても2曲ほどの尺だ。
一番最初に歌ったのは彼女が大好きなアイドルグループのシングル曲。その一曲だけを歌っていた。
曲はいわゆるあざと可愛い女の子の心情を歌っているもの。本当は素直になりたい。
けどこうするしか君の印象に残らない。そんな切なさも可愛い曲調から伝わってくる。
そして最後には今日は素直になってみようかな、というストーリー構成の曲。
衣装は白のフリルのミニワンピース。背中についてある赤色のリボンは少し動く度になびく。
靴はピンクのパンプス。そしてメイクはナチュラル。
なのと対照的にピンク色のスパンコールのハートを2、3個。目尻の近くにつけていた。髪型は巻き髪ロング。
ダンスも少し出来てない部分もあった。けどだいたいできていた。
表情は流石に歌手ほど豊かではなかった。でも頑張っているという感じは伝わって来た。
歌詞のパートによっては別の表情をしていたけど終始、笑顔だった。
肝心の歌唱力はやっぱりダンスをしながらだったから不安定だった。最後は少し息切れしていた。
全て踏まえた上でも彼女の歌唱はとても印象に残った。
彼女自身のパフォーマンスともう一つ、重要な役割を果たしたものがある。
それはスポットライトだ。
歌詞の内容によってライトの色を変えたり、リズムに乗せて、色を変えたり。
何よりも印象に残ったのは、落ちサビと呼ばれる場面。広いステージの中を自分にだけスポットライトをあてていた。
そこが終わるとまたステージ全体にあてる。
そんな細かい様々なこだわりによって、とても印象に残っていた。他のクラスメイトや来客も。
歌はあまり上手くないけど、自分を上手く魅せていると褒めていた。
ちなみに二年生からは二曲、歌っていた。衣装はラフな私服スタイル。
白のTシャツを着て、ジーンズジャケットを上に羽織り、デニムの半ズボン。靴は白と赤のスニーカー。
文化祭の開催日が6月ということで。二曲とも爽やかで夏を想像させられる曲を歌っていた。
そして三年生は今まで歌ったことがないロック系の曲と可愛い曲を歌った。
服装はパンク系の服装。今までより露出の多い恰好。メイク自身も強気な女という雰囲気だった。
ツリ目のアイラインに、真っ赤な口紅。文香だと一瞬、分からなかったくらい、別人に見えた。
姿が見えた時に一部の男性陣がフーと高い裏声で言っていた。
二曲目は着替えるのか思っていたらそのままの姿で歌っていた。
合わないのではないか、なんて思っていたけど案外合っていた。流石の選曲センスだ。
このコーディネートで披露しても変じゃない曲をチョイスしたのだろう。
三年目になるとそれなりにファンが出来ていた。
舞台から降りると、15人ほどの学生にサインや握手を求められていた。
また数名ほどだけど保護者からも同じように求められていた。
もちろん彼女は笑顔で全て対応していた。感謝の言葉も最後に述べていた。
その様子はまさにアーティストの理想像そのものだった。
ちなみに衣装は全部、自前。いつもお店や通販でその曲に合う服を探しているとのこと。
最終決断は彼女がするけど、お母さんにも意見を聞いた上で考える。
意識がプロフェッショナルの塊だ。本当にこういうところは尊敬する。
今でも歌手の夢は諦めていなくて、SNSに録音機能を使った音声だけの歌ってみたをあげている。
歌ってみたの説明を簡単にすると、カラオケを音源無しでで歌うことを指す。
これが思ったより評価されて、少しづつフォロワーが伸びている。
実際に練習している姿を見たことはないけど、どうやら裏でこっそりとしてるみたい。
ちなみにあいつはあたし以外見えないな、と分かった時の友達はこいつのこと。
「あっ。そういえばさ、何でこんなみんなして慌ててんの」
一番気になっていたことを文香に聞いた。
「あ~それがね~なんか店長に連絡が繋がらないらしいよ~」
のん気そうに言う文香。言った内容はそれとは裏腹。
「えっ。店長に連絡が繋がらないの?」
店長はとても真面目で優しい人だ。みんなの体調を気遣ったり仕事を手伝ったりしてくれる。
休む時はいつも連絡してみんなに心配をかけないようにしている。
そんな店長から連絡が何もない。
何か事件か大ごとに巻き込まれてしまったのではないか、とつい考えてしまう。
どんな時も連絡を欠かしたことはない。どう見ても台風で出勤を誰もが考えていない時。
店長自身がインフルエンザにかかった時。その様子は尊敬もするし心配もする時もあった。
それなのに連絡が来ないどころか繋がらないなんて。
いっそこの際、警察にでも電話しようかと思ったその時だ。
鞄の中に入っていたスマホが震えた。
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