ティンダロスの猫

 吾輩はティンダロスの猫である。名前はまだ無い。

 歪曲した空間の尖った時間で生まれた。何でも過去現在未来が全て内包された世界でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

 吾輩は生まれながらにして120度より鋭い角度を自由に行き来することができた。

 そこでとある八畳一間の机の角をのぞき込み、人間と言うものを初めて見た。あとで聞くとそれは社畜という、人間中で二、三番目に底辺の種族であったそうだ。

 その部屋には通い猫がいた。その猫は彼にスーと持ち上げられて掌に載せられ何だかフワフワした感じで撫でられていた。この時、妙なものだと思った感じが今でも残っている。なんというか吾輩もそうやって欲しいと思った。だが、如何せん吾輩はティンダロスの猫なので、角から角へ移動することしかできず、故に社畜は吾輩を見つけることができない。故に撫でられることはできないのだ。

 この通い猫というやつが、また憎たらしい奴だった。野良とは思えない毛並みで普段は凜としているのだが、社畜が八畳一間にいると部屋に入ってきては、コロコロと喉を鳴らして尻を社畜の足に擦りつける。そして甘えた声色で餌をねだり、夜の晩酌を味わうのだった。

 社畜はわさわさと通い猫を撫でては、鼻の穴から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも咽っぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草というものであることをようやくこの頃知った。

 そんなことはどうでもよいのだが、兎に角吾輩はその通い猫が気に食わなかった。この部屋の角という角、テーブルに座椅子に台所に冷蔵庫に本棚に本に、あらゆる120度の角を支配しているのは吾輩なのに、この通い猫は素知らぬ顔で八畳一間を我が物顔で使うのだった。吾輩は決断した。この通い猫の前に姿を現して、縄張りを有しているのが吾輩であると分からせてやる。


 吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩は地域猫と呼ばれ、なかなか不自由せずに育った。特に社畜という、人間中で二、三番目に底辺の種族の部屋によく上がり込んでは、撫でられて飯を馳走になった。

 その日は少し空いた窓の隙間から八畳一間に上がり込んで、社畜の帰りを待つことにした。するとどうしたことだろう。

 机の角から酷い悪臭がして煙が吹き出してきた。この臭いは不浄のものを全て凝縮したような匂いであり、そこから徐々に何かが頭から実体化してきた。その姿は不確かで言い表しようのない姿だった。

 吾輩はあまりにも驚いて時間の遡行に逃げ込むことができた。だが、それでもあれは執拗に追ってきた。未来に逃げては未来視で、過去に逃げては過去視によって追い込まれた。

 

 そして吾輩は曲線になった。あの不浄な物から逃げるため、直線ではいられなかったからだ。


 出典:

 吾輩は猫である(夏目漱石)

 ティンダロスの猟犬(ピクシブ百科事典) 

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