#3 今日からわたしは
住宅地にある、二階建ての一軒家。その二階。僕は少女に勉強を教えていた。
「ここはこう。……あれ、ちょっと違うんじゃないかな」
「わかってますってば、朔先生!」
ここはレンちゃん……もとい、間宮 歌恋ちゃんの家。今日は土曜日。午前中から歌恋ちゃんの勉強を見てるのだ。もちろん男の姿――望月 朔という青年の姿で。
頬を赤く染めた歌恋ちゃんの頭に僕は手を置いて。
「はは、歌恋ちゃんは呑み込みがいいな」
撫でながら褒めようとすると、彼女はばっと手を跳ねのけて。
「やめてくださいっ!」
叫び、僕を睨みつける。
こうなるよなぁ。何故なら、彼女は僕のことを嫌っているはずなのだから。
態度もあまりいいとはいえない。僕を見る視線も、見るというより睨むのほうが正しいような感じがして、口調も丁寧に見えてどこか攻撃性を感じる。僕のことを嫌いはすれど、好いているとはとても思えなかった。
ところで、さっきよりも彼女の頬の赤みが強くなっている気がしたが、風邪でも引いたのだろうか。あとで保護者に教えておこう。
ふうっと息を吐いて。
「……けど、あれがわかるのならこれもわかると思うけど」
言いながら彼女の算数ドリルの中の一問題を指さす。
さっき教えた問題と同じ公式で解けるものだから、本当に覚えていたのかの確認という意味を込めていたのだけれど。
「えっ!? ……うぅ……先生のいじわる……」
答えに窮する歌恋ちゃんを見て、やっぱり覚えてなかったかと頭を抱える。
けれど、それをわかるようにしてあげるのが僕の役目というものじゃないか。いま一度気を引き締めて。
「じゃあここは――」と解説を始めたのだった。
「ふぅ……宿題終了、おめでとう!」
「ありがと、です」
素っ気なく感謝の言葉を告げる歌恋ちゃん。
テーブル越し、およそ二メートル。悲しいほどのソーシャルディスタンス。
「近づかないでくださいね」
「わかってるってば……」
睨まれる僕。まだ春ながらクーラーの効いたような涼しさ。いや、悪寒。背中は汗で濡れていた。
女児相手に緊張する必要があるか。いや、ある。
――落ち着いた雰囲気と言えど、それは少女の部屋。
レースカーテンにカラフルなタンス。ベッドの布団は幼いころからのものを使い続けているのか、何世代か前の女児向けアニメの柄。
パステルカラーやファンシーなデザインがあしらわれた筆記用具を薄紫のランドセルに片づける様子。
白いトップスにブルーのフリルスカートを合わせたカジュアルで清楚なイメージの格好をした歌恋ちゃん。白にパステルブルーのワンポイントがついたショートソックスとその上のどこか油断を感じさせる生足がとても眩しい。
心臓が早鐘を打って股間が窮屈になり、性的に興奮していることを伝える。それを悟らせぬように深く呼吸し――。
がちゃりと部屋のドアが開いた。
「はい、差し入れ。お茶と、クッキーも焼いてきたわよ」
そこに現れたのは、歌恋ちゃんをそのまま大きくしたような美人大学生だった。
「あ、ありがとうございます。美愛さん」
「朔くんってば、そんなに他人行儀にならなくてもいいのにー」
彼女は笑いながら僕の背を叩く。
美愛さん――歌恋ちゃんのお姉さんで、大学の友人、そして家庭教師としての僕の雇い主だ――の差し入れを受け取って。
「お、おいしい……」
「あら、ありがとうね」
クッキーを食べる僕を見て、美愛さんは微笑んだ。
……歌恋ちゃんも笑ったような気がしたけれど、きっと気のせいだと思う。
僕と目が合ったからか、ふんっと顔を背ける歌恋ちゃん。
「じゃあ、歌恋ちゃんの宿題も終わったし、僕はここで……」
「あたしが見送ってくるわね」
僕と同時に、美愛さんが立ちあがった。
「あの子、ああ見えてもあなたのこと嫌ってはいないのよ」
階段を下っているところ、美愛さんが唐突に口を開く。
「……本当ですか」
「うん。歌恋はね、本当に興味のない人には何のリアクションも示さないから」
「そ、そうですか……」
信じられなかった。
僕――朔への彼女の態度は、基本的に良くはない。悪くはない、のかもしれないが、少なくともいいとは思えない。
微かな疑念を抱きつつ、僕は愛想笑いでごまかすことにした。
*
朔先生、今日もカッコよかったなぁ……。
わたし、歌恋は窓から、家を出る朔先生を見ていた。
勉強も優しく教えてくれたし、実はとってもわかりやすかった。見栄を張ってわからないのに「わかる」って言っちゃったところも、本当にわかるようになって嘘じゃなくなったし。
照れ隠しでツンツンしちゃったけど、それでびくびくして怖がっちゃう先生もなんかよかったし。
それに、クッキーを食べる先生の姿が、なんか可愛く見えた。普段は見せないあの人の姿にドキドキして。
「これも、このペンダントのおかげなのかな」
わたしは服の中に隠していたものを取り出す。
魔法のペンダント。
昨日、空から降ってきたこれには魔法の力が込められている、らしい。
聞こえてきた声に「朔先生と結ばれたい」って願ったら、「叶えてあげよう」って言われて降ってきたのがこれだから、きっと縁結びみたいな力があるんだと思うけど……まだ信じられない。
――神様なんていない。小学四年生だし、もうそんなことは常識。
魔法少女も本当はいないんだろうってわかってる。魔法なんてない。わかってる。
だからきっと、このペンダントも嘘っぱちなんだってわかってる。
わかってるけど、信じたかった。どんな叶わない夢だって、手を伸ばせば届くんだって信じて。
だから、魔法少女を探してた。
そんな蜘蛛の糸みたいな細い可能性が本当にあったなら、朔先生と恋人同士になりたいって夢もきっとかなうはずだから。
そんなこと考える前にお勉強を頑張らないと。朔先生に見合う女になるためには、お勉強も大事だから……。
おこづかいで買った問題集を開いたそのとき、なにかピリッとした感覚。
なんだろう。わからない。けど、突き動かされる。
――それは予兆。人の夢と希望を奪う怪物「魔獣」のあらわれる、予兆。
知らなかったはずのこの感覚の正体が、頭の中に浮かんでくる。
なんで。知らなかったはずなのに。
――魔法少女だから。
頭に浮かんだ一言は、自問自答の単純明快な答え。
そうか。わたし、「これ」を受け取った時点でもう「魔法少女」になってたんだ。
不可思議。もうなんにもわかんないけど、知識と理解だけが脳みそにあふれかえっていた。
拒否したくても、本能が許さなかった。
衝動に突き動かされるように、わたしは窓を開けて飛び降りる。
普段は怖くてできないしやらないはずなのに、なんだか自然とうまくいってしまって。
いまなら、何でもできそうだと思った。先生への告白も、なにもかも。
けれど、いまはできない。魔獣を倒さないと。
家の前に風が渦巻いていた。そこに魔獣が現れると、直感が告げる。
わたしはなりふり構わずに、脳内に閃いたその言葉を叫んだ。
「マジカルチェンジ、ラブリィアクア!」
眩い閃光がわたしを包んだ。
身体が別の存在へと作り変えられる、そんな不可解な感覚。その感覚に目を閉じて。
気が付くと、身体は大人のそれに変わっていた。
スラっと伸びた手足。大きめの胸。細い腰回り。生まれたままの姿のその美女は、光の中を落ちていく錯覚を抱く。
青いフリル付きのショートブーツに、リボンがついたブレスレットとアームカバー。そして、短く飾りのようなフリルスカートと、胸周りを隠したデザインのトップス。成長した身体を存分に見せるような、スタイリッシュな衣装だった。
腰まで伸びていた髪は短く肩くらいまで切りそろえられ、淡い水色に染まる。
上げた顔は精悍で、ウォーターブルーの瞳は切れ長。
その手に現れたのは、一本の長い槍。それをくるくるとまわしながら宙返り。
「水と恋の魔法少女・ラブリィアクア!」
槍の先を、現れた黒いケモノに向けながら、口走った。
「恋する乙女のホンキ、見せてあげるわ」
一瞬の対峙。
どうすればいいの!? 困惑も一瞬。
真っ黒い怪物は、その真紅の眼のような器官をわたしに向けて。
本能のまま、わたしは槍を構える。――動き方は、考えなくても『
魔獣はわたしを喰おうと駆け出して。
わたしは跳んだ。
ただ、垂直に跳躍した。それだけ。
けれど、凄まじい力がわたしの身体を押し上げた。
力の正体。それはすなわち「強化された肉体」。
この体、変身した後の身体は本来の肉体ではなく、魔法の伝導率が高い……平たくいえば魔法が使いやすい特別な物質でできた、特別製の「魔法少女体」である。
この体はその中でも肉弾戦向きで、魔法そのものの威力があまり出せない代わりに、筋力は高いらしい。
わたしは魔法をよく知らない。ただひとつ、変身以外に頭に入っていたのは「身体強化」だけ。
その身体と魔法は、あたかもパズルのピースがはまるようにピタリと噛み合った。
結果が、自分の身体数個分もの大ジャンプ。
魔獣もその行動を予測していなかったのだろう。魔獣はいともたやすく、わたしの真下に躍り出てくれて。
口角が上がった。
手に持った獲物――槍を真下に投げた。その脳天を貫くように、全力で――。
グサリ、突き刺さった音。
張りのある、生きている動物。その皮膚を貫くと、こんな音がするんだ。これが生きてるかどうかなんてわかんないけど。
ふふ、きもちいい。
ぞくりとした快感が背筋を伝う。
地面に縫い留められたかわいそうな魔獣さん。安心してね。一瞬で潰してあげるから!
いまのわたしは、とても人には見せられない顔をしていたと思う。
自然落下の勢いに魔力を上乗せしたかかと落としが魔獣の命を絶やすとき、あたしは笑っていた。しかし、その笑みは常人のそれではない。
それは「傷つける愉悦」を知った少女の、狂気の笑みだった――。
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