さくらの結婚

コハラ

第1話 突然の告白

 その時まで僕はいたって平凡な人生を過ごしていると思っていた。 

 

 その日はさくらと仕事帰りに駅前の居酒屋に入り、気持ちよく酒を飲んでいた。

 同じ家で暮らしていても、最近はさくらと顔を合わせる事が少なくなっていた。さくらは妻の連れ子で、現在二十五才の彼女が十才の時に僕たちは家族になった。僕が二十七の時だ。


「一郎、次は日本酒でしょ?」


 カウンター席に並んで座るさくらに聞かれ、僕はもちろん。と頷いた。さくらにそんな風に聞かれて胸の奥がくすぐったい。この子はもう酒を飲む年になったんだ。僕はもう立派なおっさんだ。なんて思いながら、美しく成長したさくらの横顔を眺めた。鼻筋の通った高い鼻は妻の真由美によく似ている。


 真由美が亡くなって十三年が経つ。過ぎてみれば早かったと感じる。当たり前だけど、真由美と暮らした時間よりもさくらと過ごした時間の方が長い。その事を職場で話したら、娘と結婚したみたいだとからかわれた。


「何?」


 さくらが眉頭を少し寄せ、口元が緩んだ僕に大きな瞳を向けてくる。

「会社での事を思い出したんだよ」

「面白い事があったの?」

 さくらが興味深そうに目をキラキラさせた。

「結婚生活は二年で、子育て歴は十五年だって部長に言ったらさ、娘さんと結婚できて良かったじゃない、なんて言われちゃってさ。確かにさくらと一緒になる為に結婚したみたいだなって思ってさ」


「一郎は運がないよねー。せっかくママと結婚したのに、ママがすぐにいなくなってさ。おまけに可愛くないコブが残って」

「本当だな」

「ちょっと、そこは『そんな事ない。可愛いコブだよ』って言う所でしょ?」

 さくらがムッとしたように僕を睨む。中学生の頃のさくらによくされた表情だ。


「はいはい。可愛いコブですよ」

 さくらと顔を見合わせて笑った。


 それからさくらと辛口の純米吟醸酒を飲み交わし、仕事の話をした。

さくらが就職して三年が経つ。勤め先のホテルは東京駅から京葉線で三十分ぐらいの海浜幕張駅の近くにあり、僕の会社も近くにあった。時間が合う時は一緒にさくらのホテルでランチをしたり、一緒に帰ったりしていたが、さくらが一年前に新しい部署に異動してからはなかった。


 今夜は久々にお声がかかったという訳だ。 

 昔からさくらとの約束があると、あまりにもウキウキとしてるのか、よく同僚に娘さんとのデートでもあるのかとからかわれる。僕は顔に出やすいようだ。そんな話をしたら、確かに一郎はわかり易いとさくらにも言われた。


「怒ってる時とかすぐにわかるもん。もう子供みたいに不機嫌な態度取っちゃってさ。でも、一郎のいい所は引きずらない所だよね。怒ってると思ったら、次の瞬間に私の顔見て笑ってるもん。切り替えが早くて感心しちゃう」


「さくらさん、その言い方はちっとも感心してるようには聞こえないんですけど」

「あっ、怒った」

 さくらがクスクスと笑う。


「怒ってませんよ」

「嘘だー」

 さらにさくらが可笑しそうに笑う。

 さくらの楽しそうな笑い声を聞きながら、寂しくなる。

いつまでさくらは一緒に暮らしてくれるんだろうか。年頃だし、付き合っている彼氏ぐらいいてもおかしくない。最近、家にいないのは仕事が忙しいだけじゃなく、恋人に会ってるからかもしれない。もしかしたら、明日にでも家を出て彼と暮らすなんて言い出すんじゃ……。


「まだ怒ってるの?」


 さくらが黙ったままの僕を覗き込む。


「怒ってないよ」

「でも、楽しそうにも見えない。こんなに可愛い子とデートしてるのに」

「もちろん楽しいよ。ただ、こんな風にさくらと一緒にいられるのは後どのくらいなんだろうって思ってさ」


「え?」


 さくらが意外そうに目を見開いた。


「僕の事は心配しないでいいぞ。好きな人がいるんだったら遠慮なく一緒になりなさい。さくらの人生なんだから」


「何それ」


 さくらの声が低くなる。僕から視線を外し、さくらは不機嫌そうに正面を向いた。 


「一郎、なんかお父さんみたい」

「お父さんだろ。血のつながりはなくても僕たちは親子だ」


 さくらが落胆するようにため息をつく。それからちょっとトイレと言って席を立った。いなくなったさくらの席を見ながら、何かさくらを落ち込ませるような事を言ったのかと、心配になってきた。


 トイレから戻って来たさくらはいつものさくらと変わらないように見えたけど、勢いよく酒を飲み進める姿は無理をしているようにも見えた。


 午後九時に店を出て、京葉線に乗り、二駅目の稲毛海岸駅で降りた。家までは歩いて十五分ぐらいだ。さくらが寄り道しようと言い出し、海浜公園の方に歩いた。

 

  公園の奥の松林の先に浜辺と海があった。夜の浜辺も海も真っ黒だった。星は見えず、月だけが雲の切れ間から見えている。

 波の音と身が縮む程の冷たい潮風を受けながら、浜辺を歩いた。革靴で歩くには砂浜は歩きにくかった。パンプスを履いてるさくらなんて僕以上に歩きにくいはずなのに、さくらはヨットハーバーがある方に向かってずんずん進んで行く。


「どこまで行くんだ?」


 さくらが立ち止まり、背を向けたまま「わからない」と答えた。


「疲れたよ。寒いし、帰ろう」


 コートの上にマフラーを巻き、手袋までしていたが、耳が痛くなるぐらい一月の海は寒かった。早く帰って温かい風呂に入りたい。


「私の初恋って十才の時だったの」


 背を向けたままさくらが唐突な話を始めた。

 

「そういう話は帰ってから聞くからさ」

「帰ってからじゃ気まずくて出来ないよ。私の初恋の人は一郎なんだからさ」

「え」

「ずっと一郎の事が好きなの」

 

一瞬、何を言われてるのかわからなかった。言葉の意味を理解した時、次に

「なんてね、冗談」というさくらの言葉を期待したが、さくらは黙ったままだ。


「からかってるんだろう?」


 おっかなびっくりで、さくらに声を掛けるがさくらは首を左右に強く振った。


「さっき好きな人がいるなら一緒になっていいって言ったよね」  


さくらが振り向き、挑むように見てくる。  

僕は誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべた。


「一郎、私と結婚して」  

 ハッキリとしたさくらの言葉が響いた。

 

 結婚――。

 

 あまりにも唐突で声が出なかった。これはドッキリか何かで、実はテレビカメラが出てくるなんて事はないだろうか。そんな事を一瞬思うが、浜辺には僕たち以外に人はいなかった。  


 僕は深く息を吐き、さくらを見た。  

 さくらが急にしゃがみ込んだ。


「どうした?」

「き、気持ち悪い……。飲み過ぎた」  


 さくらはこみ上げて来るものに耐えるように眉頭を寄せていた。


「一郎、助けて……」

「ほら、トイレ行こう。立てるか」  

 さくらを抱えるように立ち上がらせた。さくらは酩酊状態だった。

 覚束ない足取りのさくらを支えて歩くのは大変だった。何度も砂浜に足を取られて転びそうになった。

 ここまで酔っ払ったさくらは初めてだった。

 



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