桜と幽霊 -レンタル屋の天使 3-
水円 岳
前章 桜を観る
第1話 お嬢様、それはいかががなものかと
なんちゃって女子寮こと第二梅花寮(実はただのおんぼろシェアハウス)の朝は、私の深い溜息から始まる。
「はあああっ」
少しずつ春めいて寒気の角が丸まり、寝起きがだんだん快適になってきた。シェアハウス家主の岡田さんが各室にエアコンをつけてくれたから、さらに快適度アップ! 爽やかに朝を迎えられるはずなのに。どうにもすっきりしない。
いや、前沢先生とのシェア解消からまだ十日しか経っていないんだ。環境の激変に心身が追いつかないのは無理もないと思う……けど。そうじゃないんだよね。私のお気楽回路はすでに平常運転。新しい環境には順応してる。二十年鶏小屋に幽閉されていた割には図太いというか、我ながらタフだなあと思う。
そう、私は『家』には満足してる。これっぽっちも含むところはない。家主の岡田さんは、とても気が利くいい人だし。問題は同居人のめーちゃんなんだ。
めーちゃんこと矢口萌絵さんは、同じD大のぴかぴかの新入生だ。小中高とずっと父親の送迎付きで女子校に通っていて、今時珍しい箱入り娘、深窓のご令嬢ということになる。でも極端な引っ込み思案でも男性恐怖症でもなく、喜怒哀楽が顔や態度に直に出るわかりやすい子だ。
めーちゃんは、よく言えば無邪気、裏返せば超感覚派。受け入れるものと拒絶するものをきっぱり二分したがる傾向がある。そして、一度自分の側に置いたものにはガードをしなくなる。今は箱から出たばかりでまだ用心しているからいいけど、この先心配なんだよね。
最初店長にどやされたみたいに、私だって決して慎重だとは言えない。楽観主義の裏面は「ずさん」だからなあ。でもめーちゃんは、無性の私と違って女の子。それもはんぱない美少女なんだよ。しっかり対外影響を自覚して欲しいんだけどな。まあ、そこの調整はぼちぼちでいいと思う。
私がめーちゃんに対して抱いている懸念は自衛意識の薄さじゃなく、もっと下世話な話だ。下世話だけど無視も放置もできない。シェアの維持に直に関わることだからだ。どうしたものかなあ……。
「うーむむむ」
ぎっちり腕を組んで辛気臭くうなっていたら。めーちゃんの眠そうな声がへろっと。
「おはよー、ルイ。何うなってんの?」
前のブルーのじゃないけど、やっぱり男物っぽいだぼっとしたオフホワイトのパジャマを着て。景気良くあくびをぶちかましながらリビングに入ってきた。
「おはよー。いや、もうちょい安くあげたいなーと思ってさ」
「なにを?」
「洗濯。コインランドリーを毎日使うのはきつい」
「ふうん?」
ふうんじゃねえよっ! と、いきなりぶち切れてもしょうがない。注文した洗濯機が早く届かないかなーとか思いながら、でかい溜息をテーブルの上にぶっ転がす。はああっ。
なに朝からたそがれてるんだろうという風に、首を傾げながらめーちゃんがバスルームに向かった。早朝浴びてるはずなのに、また使うってのもなあ……。
「ったく」
シェアでは当たり前のことなんだけど、どうしても感覚のズレが表面化して来ちゃうなあ。経歴が似ているといっても、私とめーちゃんは性格も考え方も違う。その違いが、ひとごとだからとスルーできない場合があるんだ。
私は一週間くらい溜め込んでまとめて洗濯でいい派なんだけど、女の子のめーちゃんは毎日じゃないと嫌みたいだ。でも、少量だろうが山盛りだろうが、コインランドリーにかかる費用はそんなに変わらないんだよね。食費より洗濯代がかさむってのはどうよ? しかもめーちゃん、全然気にしてないし。
お財布はそれぞれ独立だから、私が一々口出すことじゃないんだけどさ。毎日のコインランドリー通いに付き合わされる私は、とってもしんどいわけ。だって、私だけ手ぶらっていうわけにはいかないもの。たかがTシャツ一枚の洗濯に毎日何百円か持っていかれるのは……なあ。それなら新品買った方が安いわい。
怒涛の五日間を乗り越え、新しいシェアハウスでの生活を始めて五日経って。私はすでに強い危機感を覚えていたんだ。このままじゃ絶対ヤバいことになる、と。
◇ ◇ ◇
鶏小屋脱出から一年弱。私の社会馴化は比較的順調に進んでいると思う。
母の極端な庇護と監視によってからからに干からびてしまった生活感覚を人並みレベルに改善してくれたのは、シェアメイトだった前沢先生ではなくどけちの中里店長だ。
もったいない。なんでそんなもったいないことすんねん。おまえ、どこの大金持ちの息子や。収入ちょぼなんやから、出る方きっちり締めなすぐくたばるで。店長は私の未熟な金銭感覚の隅々にまでメスを入れ、どけち道の真髄をこれでもかと叩き込んでくれた。私が最初めーちゃんに指摘したのは、そっくりそのまま私が店長に言われたことなんだ。
私の金欠は冗談抜きに深刻だったからなあ。シェアハウスの家賃負担に加えて、食費や交通費も自力で賄わないとならない。予備校に通う費用を父さんに負担してもらったから、それ以上の借りをどうしても作りたくなくて出費を極限まで切り詰めたんだよね。どこもかしこも寸足らずで未熟だった私が、真っ先に整備したパーツ。それが金銭感覚だったんだ。
と・こ・ろ・が。めーちゃんは、そこんとこが壊滅的にダメ。
家を飛び出した時にほとんど手持ち資金がなかったのは私と同じで、どうしようもない金欠状態だったはず。ああそれなのにそれなのに。シェア開始早々にお金持ちのお嬢様になってもうた。原因は、松橋さんがご両親と話し合ってまとめためーちゃん支援案だ。
「あいつらも、極端から極端やな」
くわえたタバコに火を点けるのも忘れて、店長が苦り切っている。私も頭が痛い。
今日のシフトはめーちゃん単独で私の出番はないんだけど、こっそり店長にアクセスして緊急の打ち合わせをすることにした。ご両親による経済支援案があまりに非常識だったからだ。プランに松橋さんの強い意向が含まれているから、余計たちが悪い。
松橋さんは、めーちゃんの父親である丈二さんが経済支援を渋ることを想定して、最大限の援助を搾り取る作戦を立てていたんだ。学費と家賃の全額負担。生活費の一部負担。入学前の生活準備金の支給。まず、相手に対してマックスの要求をぶつけておいて、それはなんぼなんでもと押し返されれば少しずつ譲歩していく。金銭交渉の王道だろう。
ところが。ご両親が松橋さんのプランを丸呑みしただけでなく、それではまだ足りないと増額しやがった! あ……いけない。うっかりひがみが。とほほ。
いや、ご両親の気持ちはわからないでもない。めーちゃんは親のエゴを一方的に押し付けられた純然たる被害者であり、めーちゃん自身の瑕疵は何一つない。謝っても謝りきれないがせめてお金の苦労はさせたくないとご両親が考えたのは、むしろ当然なのかもしれない。めーちゃんの被った精神的苦痛に対する慰謝料としての意味合いもあるんだろう。それはいいんだけどさ。でも、やり過ぎ。
学費と家賃の全額負担はわかるよ。私だって父さんに出してもらうことにしたから。ただ、生活費を丸抱えするだけでなく小遣い含めて月二十万出すってのはないよ。絶対にありえない。その半分の金額をバイトで稼いで何から何までまかなってる学生だっていっぱいいるのにさ。松橋さんも、暴挙を止めてほしかったな。めーちゃんがお金じゃぶじゃぶ状態になっちゃうのは、百害あって一利なしなんだ。
めーちゃんは、今までお小遣いもらっても使うチャンスがなかった。外に出られないからね。だから、もともとお金に対する感覚が淡白なんだ。守銭奴みたいに執着しないのはいいんだけど、計画的に使うとかインアウトを考えて使うという経済観念がまるっきりない。家を出た直後には備わっていた危機感が、あっという間に緩んじゃった。
そういうお金に対するルーズさが顕著に出たのが……コインランドリーの使い方なんだ。乾燥機込みでコインランドリーを使えば千円弱はかかってしまう。月四回としても四千円くらいで、結構な額になる。それを毎日?
じゃぶじゃぶにふやけた金銭感覚を放置すると、必ずとばっちりが来る。どこにって、友達作りにだ。めーちゃんが平凡な容姿の持ち主なら、「ふーん、お金持ちなんだねー」で終わり。札束で人の横っ面叩くような高慢ちきな性格じゃないから、まあそれなりに友達ができると思う。
でも、あの容姿でしょ? D大には珍しいお金持ちのお美しいお嬢様だとみなされたら、間違いなく庶民の女の子たちから敬遠される。近づいてくるのは下心丸出しのろくでなし男だけだよ。
お金のありがたみと厄介な面を教えるのは本来親の仕事だと思うけど、丈二さんも紗枝さんももうめーちゃんに指図ができない。じゃあ、そこを誰がやるわけ? 私はできないよー。単なるシェアメイトだもん。友人ではあっても生活単位は独立してる。立場的に対等だから余計なことは言えない。私自身がまだよわよわなんだしさ。
というベタな話を、店長としてたわけ。そして、私の時には容赦無く突っ込んできた店長も、めーちゃんにはどうもその手の苦言をぶちかましにくいみたいで。確かに、親ってわけじゃないからなあ……。
「まあ、あれや。めーちゃんの部屋のもんそっちに移してからまた考えよ。昨日の今日やからな」
「それもそうですね」
「めーちゃんが五時に上がる。今日はそこで店ぇ閉める。そのあと車二台で丈二んちに俺と岡田、ルイ、松ちゃんとオールメンバーで行って荷出しや。ええやろ?」
「おっけーです」
松橋さんの筋論はあくまでも建前でしかないから、丈二さんが暴走しないよう店長と岡田さんが押さえてくれるってことなんだろう。
「じゃあ、昼飯食べてきます」
「ああ、またあとでな」
「はい」
◇ ◇ ◇
ハンバーガーショップでポテトのMをつまみながら、こっそり持ち込んだダイエットコークを飲む。もちろん、もうちょいましな昼飯にしたいのは山々なんだけど、コインランドリーでの出費が非常に痛い。あれ一回で、昼飯が二回食べられるんだ。
「やっぱ、早めに突き放しとかないとだめかなあ……」
シェアは同棲や夫婦での暮らしとは違うよ。住む場所は同じでも、生活のリズムはそれぞれで作るんだ。独立性を確保しないと続かないから、どうしても人間関係は淡白になる。最初から淡白な関係にしかなりえなかった前沢先生とのシェアは、すっごい楽だった。
でも、めーちゃんは距離感覚が極端なんだよね。警戒している人との距離は徹底的に離し、一度気を許すと敷居を全部取っ払ってしまう。こう、なんちゅうか、もう少し段階的に距離を調整してもらいたいんだけどなあ。
とか。ぶつくさ言ってる間に、ふと気づいた。
「あ……」
何言ってんだか。
家族以外の人と過ごす初めての時間が前沢先生とのシェアになったことで、私はあれほど嫌っていた鶏小屋生活の一部を持ち出してしまったんだ。金銭的なことだってそうで、店長のどやしがあったと言っても、前沢先生というスポンサーがいたから決して完全自立ではなかったんだよね。
まだ自分自身が馴化訓練の真最中なのに、まだ馴化訓練が始まってもいないめーちゃんの行動に目くじら立ててどうすんだ。
「はあ……なかなかなあ」
説教とか突き放し以外の方法で、お金に関するあれこれをめーちゃん自身が考える機会がなにか作れないかな。それだったら、私はアシストだけ考えれば済むんだけど。
とりあえず、今夜は荷出しがあるからコインランドリーに行く時間はないだろう。私もちょっとだけ息が抜ける。その間に、自分のこともいろいろ考えておかないとならない。
バリエーション極小かつ少なすぎる服を、少しは整備しないとならない。牢獄みたいに何もない部屋を、どうやってましにするかも考えたいし。
あと、足をどうするかだなあ。あったら便利だろなあと思うけど、私がちゃりに乗れるかどうかわかんないんだよね。めーちゃんのことなんかちっとも言えないくらい、私の運動神経もみじん切りだからなあ……。
「入学式までの間にしっかり準備運動しとけ、か。確かにその通りだ。やることがいっぱいあるわ」
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