第二章 聖女と黒狼
第13話 ライシャの来訪
悲鳴になる寸前に、足元から吹きつける突風に押し返される形で、ケリーはキースの懐へと転がり込んだ。
必死にもがいて抵抗しようとするが、相手は男だ。
ほっそりとした体型。
大して運動に打ち込んでこなかったケリーの腕力では、キースの力に敵わない。
掴み上げられ、駅舎の建物の壁際に降ろされて、ケリーはがっくりと肩を落とした。
「このままじゃ、あいつの愛人にされちゃう。お父さんの借金、先生が払ってよね!」
「元先生じゃなかったか?」
「知らないわよ! そっちが勝手に介入してきたんでしょ」
自分の抵抗が無意味なものに終わり、ようやく解放されると思った痛みから、まだ逃れることができないのだと悲しみに暮れる。
「だからまた死のうとするのを邪魔するなってか? 自分だけ都合よく現実から逃げて、あとに残された問題を丸投げするなんて、やりすぎだろ」
「だってそうでもしなきゃ、あたしの苦しみなんてあなたに伝わらないでしょ」
「俺が悪いのか?」
「知らないわよ」
ケリーは視線を地面へと這わせたまま、そう悲しそうに返事をする。
そこには、自分がしたかったことを奪った、キースに対する怒りも幾分か含まれていた。
理不尽な感情に晒されてキースどうしろっていうんだ、とまた呻くように呟く。
「あたしはあなたに助けてって頼んでない」
「まあそりゃそうだ。俺が勝手に今日この場所に乗るって知っただけだからな」
「何わけのわからないこと言ってるの。あたし、このこと誰にも話してないのに」
「そうだな。君の親父から君のことを聞いて、ここじゃないかと思ってやってきたんだ」
キースはうそぶいた。
この場所のことを彼女から聞いたのは本当のことだ。
彼の能力は【影承】(ダークハント)。
スキルの範囲内に映った影は全て、彼の思い通りになる。
影は本体の鏡。ありとあらゆる情報を含んで、光により投射される。
昨夜、ケリーの影からこの時刻に発車する馬車で、地下へと逃亡しようと考えていることを知ったキースは、それを止めに来たのだった。
棄民は住む場所が限定的だ。
この街から他の場所へと移動する際には、必ず許可証が必要になる。
それを持たずに外壁から一歩でも外に出れば、即死罪だ。
逃亡は、それほどまでに罪が重い。
それならば父親から事情を聞いて、この湾岸線にほど近い駅を利用している自分が未森の後をつけてきた、という話にした方が、まだ話に筋が立つ。
「余計なことしなくていい」
「頼まれてもしたくてしたわけじゃない。生徒が逃亡するなんて聞いたらそのまま無視する奴が馬鹿なんだ」
「それは余計なことだって言うのよ」
黒い豊かな髪を一つにまとめて右肩から垂らした彼女は、言い訳をするようにそれを片手でいじりながら、恨みのこもった視線をキースに投げつけた。
こんな、厄介事にどうして首を突っ込んでしまったんだろうな、俺は。
「とにかく、外に勝手に出たら、即死刑だ。それが望みならもう邪魔はしない」
「そんなはずないでしょ! どうにかして逃げるわよ!」
「なら、一度戻ろう。俺とお前と、お前の父親の三人とでどうにかなるかもう一度話をしよう」
「そんなことできるはずないじゃない……。金貨十枚も借金があるのに! これでも逃げれなくなっちゃったよ……。最低っ」
ケリーは大粒の涙を長袖の先で拭うと、置き去りにされていた自分のバッグを拾い上げた。
そのままゆっくりと歩き出す彼女は、西の空へと沈んでいく冬の夕日にさらされていた。
長い長いその影はキースの足元まで届いている。
肩を落としてフラフラと歩く彼女の影に、これから死のうという意思は感じ取れなかった。
「気をつけて家まで帰るんだぞ!」
「うるさぃっ! このバカキース! 邪魔ばっかりして!」
ありがとう。
また影から声がする。
音にならない声。声にならない感謝。その響きを脳裏で聞いて、ケリーを見送る彼の背中に、不躾な一言が投げつけられた。
「なんだ、痴情のもつれか?」
「はあ?」
いきなりかけられたその声に聞き覚えがある。
振り返ってよくよく見ると、彼女は昨夜、バーで酒をおごってくれたあの美少女だ。
幻じゃなかったのか。そう心で呟く。そうなると、財布に押し込められていたあの名刺と、その裏に書かれたメッセージが本物ということになる。
「待っていたんだが? 随分と遅かったな」
「……夢じゃなかったのか」
「夢だと思っていたのか? 人の金で酒をたらふく飲んでおきながら、ひどいやつだ。お前に目からのしかかられて、こっちは迷惑をしたんだぞ」
「それはすまなかった。いやちょっと待て。だとしたらあのメッセージは?」
彼女は東側にいる。
太陽と彼女の間にいるキースには、相手の影を読むことができない。
「名刺をやっただろう。名前ぐらい覚えてないのか?」
頭の中で覚えている名刺の名前を思い出した。
ロンギヌス王国ではあまり耳にすることのない、珍しい名前。
「トイルース・ライシャ……何だっけ?」
記憶にあるようでない、そんな感じだ。
彼女は苛立ちを覚えたのか、こちらを睨む視線を強めていた。
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